読書と映画をめぐるプロムナード

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「ローマ人の物語2」ローマは一日にしてならず(下)/塩野七生著・新潮社文庫

2006-01-28 17:30:23 | 作家;塩野七生
第二章 共和政ローマ(承前)
「ペリクレス時代」、「ギリシアを知って後」、「ローマの貴族」、「ケルト族来襲」、「ギリシアの衰退」、「立ち上がるローマ」、「政治革命」、「ローマの政体」、「政治建築の傑作」、「ローマ連合」、「街道」、「市民権」、「山岳民族サムニウム族」、「南伊ギリシアとの対決」、「戦術の天才ピュロス」、

ひとまずの結び


ローマ興隆の要因について、三人のギリシア人の指摘。ディオニッソスは宗教を、ポリビウスは政治システム、プルタルコスは他民族同化の性向を挙げ、著者は、古代では異例であったというしかないローマ人の開放的な性向を反映しているとする。

ローマが、イタリア中南部制覇に費やした歳月は、BC340年~同326年の14年間。一方、アレクサンダー大王が東方遠征をはじめてバビロニアで客死すまでの期間は、BC334年~同323年までの11年間。歴史は両者を戦わせなかった。「もしもアレクサンダー大王が、東方に攻め入らすに、西に向かっていたとしたらどうなっていたか」著者は、「ローマ史」を書いたティトゥス・リヴィウスのローマ勝利説を紹介する。


「ギリシア・ペリクリス時代」BC.460~430年
戦時には立ち消えになり、外敵の心配が薄れるや表面化するのが常であった貴族と平民の抗争が、容易には解決に向かわない、ローマの現状があった。

後進国ローマの三人の元老院が先進国ギリシアを視察のため訪れたのは、BC453年から一年間といわれている。一年後、帰国した三人を加えた十人の委員で構成された、成文法作成のための「十人委員会」(デケンヴィリ)が設立。この機関には、ローマ初の成文法作成の作業がいかなる妨害からも自由に進められるようにと、絶大な権力が与えられた。

この委員会によってBC.449年最初にして最後のローマの成文法「十二表法」は発表される。内容は、期待して待っていた平民、強調派の貴族ですら唖然とするもの。新しく加えられたものがなかったからだ。

「ケルト族来襲」
ローマはBC.390年ケルト族の来襲に敗れる。建国から360年後に、共和政に代わってからは100年後に、また一からやり直さねばならいことになった。

「政治改革」
「ローマ人の考え実施した政治システムこそ、ローマを強大にした第一の要因とする歴史家ポリビウスは、その理由を次のように書いている。『われわれの知っている政体には、次の三つがある。王政と貴族政と民主政である。ローマ人に向かって、あなたの国の政体はこの三つのうちどれかを訪ねても、答えられるローマ人はいないだろう。執政官にのみ照明を当てれば、王政に見える。元老院の機能にのみ注目する者は、貴族政以外の何ものでもないと言うだろう。市民集会を重要視する者ならば、民主政だと断ずるにちがいない。ところが、ローマの政体は、この三つを組み合わせたものなのである』」。

「BC367年、ローマ史上画期的な法律とされる「リキニウス法」が成立。この法では六人の軍事担当官が廃止され、再び二人の執政官制度に戻すことが決まる。今後とも、ローマは寡頭政体、つまり少数指導体制で行くことを明らかにした。次いで、共和国政府のすべての要職を、平民出身者にも開放することが決まった」。

「トロイの王女カッサンドラは、ギリシア勢によるトロイの滅亡を予見し、それを防ぐための対策をトロイ人説いたが、誰からも相手にされなかった。ヨーロッパでは今でも、説得さえすれば聞き入れられると信じている人を『カッサンドラ』と呼ぶ」。

「ローマ連合」
「ローマは、敗者を隷属化するよりも、敗者を『共同経営者』にするという、当時では他国に例を見ない政略を選択したのである。そして、これこそ、後世に有名になる、『分割し、支配せよ』の考え方であった」。


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