第一部 皇帝ティベリウス
(在位、紀元14年9月17日~37年3月16日)
この本を買いに出かけたとき、少しショックを受けた。昨年から読み始めた本シリーズもいよいよ終盤かという達成感を抱きながら本書シリーズのあるコーナーへ行くと、また新刊が出ていたからだ。調べると、「1992年以降、年に1冊ずつ新潮社から刊行された書き下ろし作品で、2006年12月刊行の15作目で完結した」とある。
単行本でいえばⅥ、Ⅶにあたり、「ローマ世界の終焉―ローマ人の物語XV」まで続いていくのだ。文庫本すればあと20冊分ぐらいの分量がある。かなりひるんでしまった。ここは気を取り直し、長期戦として臨むしかない。
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル(Tiberius Claudius Nero Caesar, 紀元前42年11月16日 - 37年3月16日)は、「ローマ帝国の第2代皇帝で初代皇帝アウグストゥスの養子。皇帝となる以前の名前は実の父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ」。本書は次の年代までを扱う。
•14年 第2代皇帝に就任する。
•23年 息子の小ドルススが急死する。
•27年 カプリ島に居を移す。
一方、ティベリウスの業績と評価は、次のようになっている。
•ローマ市東北部に親衛隊兵舎を新設し、それまで大隊単位で分散して配置していた近衛軍団を一箇所に駐留させた。この措置は近衛軍団の力を大きくし、のちに皇帝位を近衛軍団が左右する事態が頻発する原因の一つとなった。
•アウグストゥスの時代から28年にわたり戦役を続行していたゲルマニアに対してはライン川およびドナウ川において防衛線を確立した。また、同時期に東方で不穏な動きを見せていたパルティアに対しては、ゲルマニア戦線の総司令官だったゲルマニクスを派遣して、東方問題の原因となっていたアルメニアの王位継承問題を解決し、東方の安全保障を確立した。これらの施策により、帝国の防衛は確固たるものになった。
•人材登用に優れた手腕を発揮し、出身地の分け隔てなく能力に応じて積極的に登用した。歴史家テオドール・モムゼンの言葉によれば、これらの人々は「ティベリウス・スクール」と呼ばれ、ネロの時代まで帝政ローマを支えていくことになる。
しかしながら、「父親のアウグストゥスが死後に神聖化されたのに対し、ティベリウスの死はまったく尊ばれず軽んじられた死であった」という。著者はこう述べる。
「『悪名高き皇帝たち』というタイトル自体が、彼ら皇帝たちとは同時代のタキトゥスを始めとするローマ時代の有識者と、評価基準ならばその延長線上に位置する近現代の西欧の歴史家たちの『採点』の借用であって、これには必ずしも同意しない私にすれば、反語的なタイトルなのである。平たく言えば、悪帝と断罪されてきたけどホント?」。
「ティベリウスの不幸は、彼自身の背負ってきた伝統とは反対の、アウグストゥスの政治に賛成なことであった。つまり、共和制という旧体制を代表する家系を継ぐティベリウスなのに、帝政という新体制こそが国家ローマの将来に適していると認識していたのだ」。
「そしてこの認識を精神的にささえたのが、ローマの国政に人材を提供してきたクラウディウス一門の誇りであったろう。クラウディウス一門の男たちの基調音でもあった国益最優先への強烈な自負心ならば、国体が帝政に変わろうともティベリウスの血の中には生きつづけていたのである」。
ところで、七月がユリウス(ジュライ)、八月がアウグストゥス(オーガスト)だ。当時の元老院では9月をティベリウスにしようと提案したが、「第一人者(プリンチェプス)」が十人を越えたときはどうするのか」と一笑に付したという。彼の冷徹さを示すエピソードだ。
(在位、紀元14年9月17日~37年3月16日)
この本を買いに出かけたとき、少しショックを受けた。昨年から読み始めた本シリーズもいよいよ終盤かという達成感を抱きながら本書シリーズのあるコーナーへ行くと、また新刊が出ていたからだ。調べると、「1992年以降、年に1冊ずつ新潮社から刊行された書き下ろし作品で、2006年12月刊行の15作目で完結した」とある。
単行本でいえばⅥ、Ⅶにあたり、「ローマ世界の終焉―ローマ人の物語XV」まで続いていくのだ。文庫本すればあと20冊分ぐらいの分量がある。かなりひるんでしまった。ここは気を取り直し、長期戦として臨むしかない。
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル(Tiberius Claudius Nero Caesar, 紀元前42年11月16日 - 37年3月16日)は、「ローマ帝国の第2代皇帝で初代皇帝アウグストゥスの養子。皇帝となる以前の名前は実の父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ」。本書は次の年代までを扱う。
•14年 第2代皇帝に就任する。
•23年 息子の小ドルススが急死する。
•27年 カプリ島に居を移す。
一方、ティベリウスの業績と評価は、次のようになっている。
•ローマ市東北部に親衛隊兵舎を新設し、それまで大隊単位で分散して配置していた近衛軍団を一箇所に駐留させた。この措置は近衛軍団の力を大きくし、のちに皇帝位を近衛軍団が左右する事態が頻発する原因の一つとなった。
•アウグストゥスの時代から28年にわたり戦役を続行していたゲルマニアに対してはライン川およびドナウ川において防衛線を確立した。また、同時期に東方で不穏な動きを見せていたパルティアに対しては、ゲルマニア戦線の総司令官だったゲルマニクスを派遣して、東方問題の原因となっていたアルメニアの王位継承問題を解決し、東方の安全保障を確立した。これらの施策により、帝国の防衛は確固たるものになった。
•人材登用に優れた手腕を発揮し、出身地の分け隔てなく能力に応じて積極的に登用した。歴史家テオドール・モムゼンの言葉によれば、これらの人々は「ティベリウス・スクール」と呼ばれ、ネロの時代まで帝政ローマを支えていくことになる。
しかしながら、「父親のアウグストゥスが死後に神聖化されたのに対し、ティベリウスの死はまったく尊ばれず軽んじられた死であった」という。著者はこう述べる。
「『悪名高き皇帝たち』というタイトル自体が、彼ら皇帝たちとは同時代のタキトゥスを始めとするローマ時代の有識者と、評価基準ならばその延長線上に位置する近現代の西欧の歴史家たちの『採点』の借用であって、これには必ずしも同意しない私にすれば、反語的なタイトルなのである。平たく言えば、悪帝と断罪されてきたけどホント?」。
「ティベリウスの不幸は、彼自身の背負ってきた伝統とは反対の、アウグストゥスの政治に賛成なことであった。つまり、共和制という旧体制を代表する家系を継ぐティベリウスなのに、帝政という新体制こそが国家ローマの将来に適していると認識していたのだ」。
「そしてこの認識を精神的にささえたのが、ローマの国政に人材を提供してきたクラウディウス一門の誇りであったろう。クラウディウス一門の男たちの基調音でもあった国益最優先への強烈な自負心ならば、国体が帝政に変わろうともティベリウスの血の中には生きつづけていたのである」。
ところで、七月がユリウス(ジュライ)、八月がアウグストゥス(オーガスト)だ。当時の元老院では9月をティベリウスにしようと提案したが、「第一人者(プリンチェプス)」が十人を越えたときはどうするのか」と一笑に付したという。彼の冷徹さを示すエピソードだ。
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