読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

「ローマ人の物語1」ローマは一日にしてならず(上)/塩野七生著・新潮社文庫

2006-01-26 21:07:19 | 作家;塩野七生
第一章 ローマ誕生
「落人伝説」、「紀元前八世紀当時のイタリア」、「エトルリア人」、「イタリアのギリシア人」、「建国の王ロムルス」、「二代目の王ヌマ」、「三代目の王トゥルス・ホスティリウス」、「四代目の王アンクス・マルキウス」、「五代目の王タルクィニウス、六代目の王セルヴィウス・トゥリウス」、「最後の王『尊大なタルクィニウス』」

第二章 共和制ローマ
「ローマ、共和国に」、「ギリシアへの視察団派遣」、「ギリシア文明」、「アテネ。スパルタ」、「ペルシア戦役」、「覇権国家アテネ」

「知力では、ギリシア人に劣り、体力ではケルト人(ガリア人)やゲルマン人に劣り、技術力では、エトルリア人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣ると自ら認める古代ローマ人だけが、なぜあれほどの大を成すことができたのか。一大文明を築き上げ、それを長期にわたって維持することができたのか」。これが塩野七生の問題意識である。

紀元前1,000年前後のローマの歴史に見る、当時の人々の聡明さ、文化の質の高さに驚く。当時の日本は縄文時代である。私の知っている縄文は、土器や竪穴式住居位しか記さない。この違いは何か?もう一度勉強してみたい気になった。


第一章
「紀元前八世紀当時のイタリア」
「防御には万全でも、発展は阻害されやすい丘の上を好んだエトルリア人。防御が不十分な土地に街を建てたおかげで、結果としては外に向かって発展することになるローマ人。通称には便利でも、ともすれば敵を忘れさせる海沿いの土地に街を築いた南伊のギリシャ人」

「商品をもって旅する商人は、買ってもくれなければ売る品もない人々には、はじめから近づかない。農業と牧畜しか知らないローマ人は、アテネの職人の手になる美しい壷を購入する資金もなく、エトルリア産の精巧な金属器に支払う貨幣すらもっていなかった。要するに、商人たちからは問題にされなかったのだ。そのうえ、海にも近くなければ防禦にも適していないローマは、ギリシャ人にとってもエトルリア人にとっても、根を降ろす魅力もなかった」。

「ローマ人」たちは、闘って勝った相手のラテン人やサビーニ人や、またそれ以外の民族でも、被征服として隷属化せず、もちろん奴隷にもせず、「ローマ」化するやり方を変えなかった

建国の王ロムルス;紀元前753年4/21、ロムルスは18歳。ラテン人。この若者と彼についてきた3,000人のラテン人によってローマは建国された。(~715/治世37年)戦闘による国土の確保。ローマ軍団の最小単位、百人隊(ケントゥリア)制度の創設。
二代目の王ヌマ;(B.C715~673/43年)サビーニ族。「王位に就いたヌマは、それまでは暴力と戦争によって基礎を築いてきたローマに、法と習慣による確かさを与えようとした」(歴史家リヴィウス「ローマ史」)。神々にヒエラルキーを与える宗教改革。ローマ人を守る神々に奉仕する神官の組織を整える。彼らは市民集会の選挙で決まる。
三代目の王トゥルス・ホスティリウス;(B.C673~641/32年)ラテン系ローマ人。ラテン人発生の地、祖先の地アルバの攻略に成功し、ラテン民族に母国は今後ローマであることを知らしめた。
四代目の王アンクス・マルキウス;(B.C641~616/25年)サビーニ族出身。テヴェレ河への最初の架橋建設。オスティアの征服により塩田事業の獲得。
五代目の王タルクィニウス・プリスコ;(B.C615~579/37年)ギリシアのコリントからエトルリアに亡命したギリシアを父に、エトルリア人を母に持つ混血エトルスク。選挙運動をした最初のローマ人。元老院議員数100名を200名に増員。大下水溝(クロアカ・マクシマ)の着工による低地の干拓事業で平地へ再生。
六代目の王セルヴィウス・トゥリウス;(B.C579~543/44年)軍制改革、税制改革、選挙制度改革を断行。初めての人口調査。ローマ市民は貴族・平民の区別なく、経済力をもとにして六階級に分けられた。
最後の王「尊大なタルクィニウス」;(B.C543~509/25年)先王タルクィニウスの息子。市民議会での選出も元老院での承認もなく王位に就く。

第二章
「ローマ、共和制に」
「これ以降は、自由を得たローマ人が、平時戦時のいずれにおいても、どのように生きたかを述べることになるだろう。ローマは、一年ごとに選挙で選ばれる人々によって治められ、個人よりも法が支配する国家になるのである」(リヴィウス「ローマ史」第二巻)

「王政打倒にまで持っていった最大の功労者はルキウス・ユニウス・ブルータスである。彼は、以後500年も続く、共和制ローマの創始者になった」。「ブルータスは、馬鹿者を意味する言葉から生まれた、綽名である」。「ブルータスは、以後ローマはいかなる人物であろうと王位に就くことは許されず、いかなる人物であろうとローマ市民の自由を犯すことは許さない、と誓わせた。そして、王に代わる国の最高位者として、一年ごとに市民集会で選出される、二人の執政官の制度、元老院を300名に増員、ローマ市民権をもつ者ならば誰でも参加できる市民集会」を創設。

「ヴァレリウス・プブリコラ(B.C509年~503年」は、法によって王政時代にあった国庫を財務官の管理とし、司法官の下した判決に対して、ローマ市民権を有する者は市民集会へ控訴の権利を持たせた)。
「ギリシア文明」
「クレタ、ミケーネと移動してきたギリシア文明の中心は、アテネよりも先にイオニア地方で花開くことになる。哲学の祖ターレス、歴史学の先達ヘロドトス、医学の祖ヒポクラテス、ホメロスもこの地の出身といわれている」。
「アテネ」
「ソロンの改革」。自作農たちの借金救済、返済できない場合の貸主への奴隷制度を廃止。この改革が「アテネを貴族政から脱却させ、ポリスと言われればただちに思い浮かべる民主政の都市国家に移行させたことは明白である」。
「王政は、一人で行うという意味で『モナルキア』、貴族政は、選ばれた少数の人が担当するがゆえに『アリストクラツィア』、一方ソロンによってはじめられた、資産の多少が権利の多少に比例する制度は人口調査をもとにしているという意味で、『ティモクラツィア(資産政)』と名付けられている」。ソロンの引退後。無政府状態「アナルキア」、その末の独裁政「ティラニア」の時代となる。
クリステネスの政治改革。人口密度に適応した「デモ(区)」に分ける。クリステネスの改革によって生まれた政体は、デモス、つまり民衆による政体という意味で、『デモクラツィア』と呼ばれる「。ソロンに時代には一年任期の九人で構成されていた政府役員を、一人増やして十人とし、新しく「ストラテゴ」という名を与えた。ストラテジーの語源になる言葉である。この「国家政戦略担当官」と呼んでもよい役職に就く十人は、毎年の市民集会で選出される。これが、ポリス国家アテネの内閣になった」。
クリステネスのもう一つの改革。「追放したいと思う人物の名を陶片に記して投票することから陶片追放と呼ばれた。一種の自浄システムである。独裁政を避ける目的でつくられたのは明白だ。市民集会は、その権威と権力がアテネのために危険であるとされた市民を、十年間国外に追放する権限を持つ」。

「スパルタ」
「紀元前1200年頃に南下してきたドーリア民族が、先住民を征服してできたのがスパルタである」。「スパルタ人とペリオイコイ(商工業従事者)とへロット(農奴)の人口の比率は、一対七対十六程度であったとされている。この人口比率が、スパルタのすべてを規定したのであった」。「二人の君主の支配する政体という意味で、『ディアルキア』と呼ばれた」。
「壮健な戦士に育ちそうだと判断された子供は、六歳までは親元で育てられることが許される。だが、七歳になるやいなや、親元から離されて寄宿舎生活に入る。同年の少年たちと共同生活しながら、戦士養成を目的とする計算されつくしたスケジュールにそって、教育がほどこされるのである。もちろん、肉体の鍛錬が主要かもだ」。
「ペルシア戦役」
「ペルシア軍は、アテネ軍よりも数では優勢だ。だが、ミルティアデスは、薄手になろうとも戦線の長さを敵と同じ長さにし、左右の両翼に精鋭部隊を配する戦法をとる。戦闘は、ミルティアデスの思惑どおり、はじまって終わった。アテネ軍は中央を破られたが、左右からペルシア軍をはさみ撃ちにすることに成功したからである。海からアテネを攻めようとしたペルシア海軍も、目的を果たすことができなかった。ペルシア軍は海陸とも、東方に引き上げるしかなかった。このときに一人のアテネの兵士が、マラトンでの戦勝をアテネまで走って知らせた。このエピソードが、近代オリンピックのマラソン競技の語源になっている」




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