読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

「博士の愛した数式」(小川洋子著/新潮文庫)

2006-01-31 18:15:48 | 本;小説一般
「πとiを掛け合わせた数でeを累乗し、1を足すと0になる。
私はもう一度博士のメモを見直した。果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足算をした途端、何の前触れも泣く世界が転換する。すべてが0に抱き留められる」。

これが、著者小川洋子が主人公の「私」に語らせるオイラーの公式;eπi+1=0のありようだ。なんと美しい文章だろうか。この小説は「私」達親子に日常の暮らしの中から数学上の問いを発する「博士」と、その問答を通じて「私」達親子が数学の深遠な世界へ惹かれていく物語だ。数学と文学の見事な結晶となっている。

更に、その0に関する記述では、「0が驚異的なのは、記号や基準だけでなく、正真正銘の数である、という点なのだ。最小の自然数1より、1だけ小さい数、それが0だ。0が登場しても、計算規則の統一性は決して乱されない。それどころか、ますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる」と、もう一人の主人公である「博士」に語らせる。

「数字は相手と握手をするために差し出す右手であり、同時に自分の身を保護するオーバーでもあった。上から触っても身体のラインがたどれないくらい分厚くて重く、誰一人脱がせることの不可能なオーバーだった。それさえ着ていれば、彼は取り敢えず自分の居場所を確保できた」。それが「博士」だ。

「八十分の記憶を補うため、忘れてはならない事柄をメモし、そのメモをどこへやったか忘れないため、身体に貼り付けているのだろうと察しはついた」。

「この世で博士が最も愛したのは、素数だった。素数というものが存在するのは私も一応知っていたが、それが愛する対象になるとは考えた試しもなかった。しかしいくら対象が突飛でも、彼の愛し方は正統的だった。相手を慈しみ、無償で尽くし、敬いの心を忘れず、時に愛撫し、時にひざまずきながら、常にそのそばから離れようとしなかった」。

そしてその博士に、「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」、と綽名づけされた「私」の息子。

この小説の解説で、著者から取材を受けた数学者・藤原正彦は簡潔にストーリーを次ぎのように要約している。「老数学者、家政婦の『私』とその息子の三点が、数学と阪神タイガースという二色の紐で結ばれ三角形をなしている。独創的な構図である。しかも老数学者の記憶は正確に八十分しか持続せず、備忘録がわりのメモ用紙が身体中に貼られている。数学者も顔負けの想像力である」。

この本は、普段小説を読まない私を知っている知人から「おもしろいから読んでみたら」と借り受けた。映画化されたことは知っていた。また、昨年11月に二人の共著となる「世にも美しい数学入門」(ちくまフリマー新書)は読んでいた。この本をきっかけに藤原正彦なる名文家でもある数学者を知り、「国家の品格」を読んだ。


小川洋子が数学を語る美しい文章を書き記しておく。
「普段使っている言葉が、数学に登場した途端、ロマンティックな響きを持つのはなぜだろう、と私は思った。友愛数でも双子素数でも、的確さと同時に、詩の一節から抜け出してきたような恥じらいが感じられる。イメージが鮮やかに沸き上がり、その中で数字が抱擁を交わしていたり、お揃いの洋服を着て手をつないで立っていたりする」。

「220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。めったに存在しない組み合わせだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。美しいと思わないかい?君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」。

「私」が発見した「28の約数を足すと、28になるんです」に対し、博士は「ほう・・・」と呟き、「28=1+2+4+7+14」と書き、「完全数だ」と応える。
「当然、完全数以外は、約数の和がそれ自身より大きくなるか、小さくなるかだ。大きいのが過剰数、小さいのが不足数。実に明快な命名だと思わないかい?18は1+2+3+6+9=21だから過剰数だね。14は1+2+7=10で、不足数になるわけだ」。

「714はベーブ・ルースが1935年に作った通算ホームラン記録。1974年4月8日、ナンク・アーロンはこの記録を破る715本めのホームランを、ドジャースのアル・ダウニングから放った。
714と715の積は、最初の七つの素数の積に等しい。
714×715=2×3×5×7×11×13×17=510510
あるいは、714の素因数の和と、715の素因数の和は等しい。
714=2×3×7×17
715=5×11×13
2+3+7+17=5+11+13=29
こうした性質を持つ、連続する整数のペアはとても珍しい。20000以下には26組しか存在しない。ルース=アーロン・ペアだ」。

蛇足だが、アイロンがけする「博士」の描写も秀逸だ。
「まず霧吹きの水を二度噴射させ、熱すぎないか手をかざして確認し、一番目のブロックにアイロンを押し当てる。把手をぎゅっと握り、生地を傷めないように慎重に、しかしあるリズムを持ってアイロンを滑らせてゆく。眉間に力を込め、小鼻をふくらませ、自分の思い通りに皺がのびているかどうか、凝視している。そこには丁寧さがあり、確信があり、愛さえもがある。アイロンは理にかなった動きをする。最小の動きで最大の効果が得られる角度ろスピードが保たれている。博士のテーマである優美な証明が、その古びたアイロン台の上に実現している」


この小説の参考文献
「はじめまして数学1、2」(吉田武/幻冬社)、「数の悪魔」(エンツェンスベルガー/丘沢静也/晶文社)、「天才の栄光と挫折 数学者列伝」(藤原正彦/新潮社)、「数学者の言葉では」(藤原正彦/新潮社)、「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン/青木薫訳/新潮社)、「放浪の天才数学者エルデシュ」(ポール・ホフマン/平石律子訳/草思社)、「牙 江夏豊とその時代」(後藤正治/講談社)、「左腕の誇り 江夏豊自伝」(江夏豊/波多野勝構成/草思社)


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