読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

30万人のエキストラを動員した大作、「ガンジー」(イギリス、インド/1982年)と女性写真家

2007-10-02 07:54:14 | 映画;洋画
原題:Gandhi
監督:リチャード・アッテンボロー
脚本:ジョン・ブライレー
出演:ベン・キングズレー、キャンディス・バーゲン、ジョン・ギールグッド、マーティン・シーン
音楽:ラヴィ・シャンカール、ジョージ・フェントン
撮影:ビリー・ウィリアムズ、ロニー・テイラー

「1894年、青年マハトマ・ガンジーは、大英帝国支配下の南アフリカにおける人種差別政策に激しい怒りを覚え、民族抵抗運動を起こす。この運動を皮切りに、ガンジーは人種差別撤廃の理想に燃え、祖国インドでの反英不服従運動の指揮を執ることになる。1919年インドに導入されたローラッド法案に反対し、インド各地で暴動が起こるが、ガンジーは断食をもって抵抗する」。

「翌年、英国当局に非協力を宣言。スワデシ運動(外国製品非買運動)を展開する。塩の自力生産を訴えた「塩の行進」、議会重視政策への転換等を経て、やがて大英帝国の支配を終結させるが・・・。1948年1月10日、ガンジー暗殺」。(ソニー・ピクチャーズ)

私はこの映画を随分前に観た記憶があるのですが、内容はすっかり忘れています。しかし、ガンジー役のベン・キングズレーが、写真で見るガンジーにそっくりだったことは鮮明に覚えています。本作で女性報道写真家の草分けであるマーガレット・バーク=ホワイトを演じたキャンディス・バーゲンは、後にカメラマンとしても活躍することになりましたね。今日はガンジーの生誕138年ということで本作を取り上げます。

モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi 1869年10月2日-1948年1月30日)は、「インドのグジャラート出身、インド独立の父、宗教家、政治指導者。『マハートマー(Mahatma)』とは『偉大なる魂』という意味で、インドの詩聖タゴールによって送られたとされているガンディーの尊称である。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(『父親』の意味)とも呼ばれている」。(以下、ガンジーをガンディーとして表記)

「1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、本人が固辞したため、受賞には至っていない。南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドの英国からの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、『非暴力・不服従』を提唱した」。

「この思想(彼自身の造語によりサッティヤーグラハすなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、大英帝国を英連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。特に彼に倣ったと表明している者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ダライ・ラマ14世等がいる」。

「性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しても極端な禁欲を強いて反発を招くこともあったという。またナチスのホロコーストに関し、ユダヤ人にも一貫して非暴力・不服従を説いたとされ、シオニズム支持者の中には非現実的であると批判する声もある」。

本作を撮ったのは、「遠すぎた橋」(1977)、「コーラスライン」(1985)、「遠い夜明け」(1987)などの名作を残しているリチャード・アッテンボロー監督です。

リチャード・アッテンボロー CBE(Richard Samuel Attenborough 1923年8月29日 - )は「イギリスのイングランド・ケンブリッジ生まれの映画監督・映画プロデューサー・俳優。動物学者でプロデューサーのデイビッド・アッテンボローの長兄にあたる。ロンドンの王立演劇学校で学び、1942年にデビュー。『大脱走』などの脇役で知られるようになるが、1960年代からは監督業・プロデュース業にも乗り出し、1982年に監督した『ガンジー』ではアカデミー監督賞を受賞した。近年では『ジュラシック・パーク』の実業家ジョン・ハモンド役が記憶に新しい」。

「1945年1月22日に女優のシーラ・シムと結婚し、現在までに3人の子供をもうけている。1967年に大英帝国勲章を授与された。1976年にはナイトの称号を受け、1993年には一代貴族ともなっている。2002年10月には、英国映画協会内に創設された『チャップリン研究財団』の初代総裁に就任している」。

「2004年12月26日、タイ王国のプーケットで休暇中だった親族がインドネシア・スマトラ島大震災・大津波の津波で被災した。この事故で、アッテンボローの長女ジェーンの次女、ルーシー(当時14歳)が死亡したほか、ジェーン本人とその同名の義母ジェーン・ホーランドが行方不明。また、ジェーンの長女アリス(当時17歳)が負傷。夫のマイケル・ホーランド、長男のサムは無事とされている」。

サー・ベン・キングズレー CBE(Sir Ben Kingsley、1943年12月31日 - )は、「イギリスの俳優。イングランド・ノース・ヨークシャー州スカボロー出身。主に脇役として活躍している。父親はインド人の医師、母親はイギリス人のファッションモデル・女優」。

「父親と同じく医師になるつもりだったが、19歳のときに見た『リチャード3世』の舞台に感銘を受けて俳優を志すようになった。1966年にビートルズのマネージャーが製作したロンドンの舞台で、ナレーターとギターと歌を担当したのが初舞台。閉演後にジョン・レノンとリンゴ・スターに音楽の道を進むように勧められたこともあるという」。

「1967年にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに招かれ、シェイクスピア役者として活躍した。1970年代にはテレビにも多く出演。1982年の『ガンジー』でアカデミー賞の主演男優賞を受賞した。その他に『バグジー』『Sexy Beast(日本未公開)』『砂と霧の家』で3度アカデミー賞の候補になっている。2001年にナイトの称号を与えられた。3度の結婚で4人の子供がいる」。

キャンディス・バーゲン(Candice Bergen, 1946年5月9日-)については「ソルジャー・ブルー」(1970)という映画を観てドキドキしたことを覚えています。2006年11月9日付で取り上げた「パリのめぐり逢い」(フランス、イタリア/1967年)も参照下さい。

マーガレット・バーク=ホワイト(Margaret Bourke-White, 1904年6月14日-1971年8月27日)は、「戦間期のアメリカを中心に活躍した、女性報道写真家の草分け。ニューヨークに生まれ、クラレンス・ホワイトに写真を学び、1920年代後半には写真家としての活動を開始する」。

「ソ連を含めて、ヨーロッパにも足を運び、報道写真、ドキュメンタリー(労働者、貧困者、大恐慌時代の写真など)、機械・工場・建造物の写真、戦争(第二次世界大戦)写真などを、また、アメリカ空軍の写真家として、航空写真も撮影した。戦後は、インド、パキスタン、南アフリカなどの発展途上国を回り、その様子を数多く撮影した。ちなみに、戦後には日本も訪れている」。

「作品としては、例えば、アメリカモンタナ州の『フォート・ペック・ダム』(Fort Peck Dam。このダムは、アメリカ・ニューディール政策の1つの事業として、ミズーリ川に建設されたダム。雑誌ライフ(LIFE)創刊号(1936年11月23日号)の表紙を飾った作品)、『ロック・フェラー・センターRCAビル内の写真壁画』(1933年制作で、1953年まで存在した。電気・発電関係を中心とした機械や鉄塔などの写真を大きく引き伸ばして、ビル内の1室の壁を飾った)などが挙げられる。

「戦間期のプロの女性写真家として、最も活躍し、最も高い評価も得た1人である。とともに、いい意味でも悪い意味でも、ライフ誌(の編集方針)に合致したタイプ(演出家タイプ)の報道写真家だったといえる」。(以上、ウィキペディア)


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