読書と映画をめぐるプロムナード

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戦後日本に幻を魅せた、「虚業成れり~「呼び屋」神彰の生涯~」(大島幹雄著/岩波書店)

2008-06-05 06:18:09 | 本;ノンフィクション一般
<目次>
第一章;幻のはじまり(虚業成れり――ドン・コザック招聘秘話、ドン・コザック旋風)
第二章;けものたちは荒野をめざす(函館から満州へ――コスモポリタンが棲む街、たそがれの満州)
第三章;赤い呼び屋の誕生(侍たちがやってきた、鉄のカーテンをこじ開ける、ボリショイの奇跡)
第四章;驚異の素人集団「アートフレンド」(七人の侍たち、俺はディアギレフになる、世界の恋人は来なかった、革命の時、電撃結婚)
第五章;「赤い呼び屋」の挑戦状(梟雄たち――興行戦争の実態、アメリカの罠、不信のとき、破綻と破産)<*梟雄(きょうゆう)残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。>
第六章;どん底から(銀座五丁目の雑居ビルから、復活のスピードウェイ、異端児たち)
第七章;天女との出会い(運命の出会い、復活と死)
第八章;消えた幻を追いかけて(アートライフ――居酒屋の時代、父と娘、幻談義、幻の終焉――鎌倉から函館へ)

昨年12月12日の記事「『仕事』を極めた9人の伝説、『サービスの達人たち』(野地秩嘉著/新潮OH文庫)」。野地さんがこの本の中で、「『怪物』と呼ばれた興業師」として取り上げた人に康(こう)芳夫さんがいます。この康さんを育てたのが本作の主人公、神彰さんです。

「評論家の大宅壮一は小谷正一(井上靖の「闘牛」のモデル)と神彰を評して『呼び屋』と呼んだとされる。外国より歌手、劇団、俳優を連れてきて公演させる芸能プロモーターであるが、『実演』時代に大都市や地方のプロモーター、ヤクザとの橋渡しもつとめていた。神は共産圏に強いコネクションを持っていたため『赤い呼び屋』と呼ばれた」。

「また、永島達司はアメリカ本土とパイプがあり、太平洋テレビ社長の清水昭は、全くの背景のないまま単身アメリカの三大ネットワークに乗り込み番組配給権と莫大な資金を獲得、『現代の紀文』とまで評された。しかし、全ての呼び屋は国税庁に潰されたとされており、前述の永島達司は(『ビートルズを呼んだ男』として、)『キョードー東京』のイベント業として生き延びた数少ない例とされる」。(ウィキペディア)

また、樋口玖さんという呼び屋も登場します。「1959年のニューラテンクォーターの開業とトリオ・ロス・パンチョスの公演から1964年の東京オリンピックの頃まで、日本のポップス界はラテン音楽が一定の地位を占めており、その立役者が、樋口玖(1932-)という呼び屋である。その辺の経緯は、竹中労のルポ『呼び屋−その生態と興亡』やそれを元に書かれた五木寛之の短篇『梟雄たち』に詳しい」。



神彰(じん・あきら、1922年6月27日‐1998年5月28日)は、「北海道出身の興行師、事業家、国際芸能プロモーター。アート・フレンド・アソシエーション(AFA)を設立し、戦後復興期にドン・コサック合唱団、ボリショイ・バレエ団、ボリショイサーカス、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団などを招聘・興行。冷戦時の鉄のカーテンをこじ開けたことから『赤い呼び屋』と称される(呼び屋は後述)」。

1962年に作家有吉佐和子と電撃結婚するも、2年後の1964年に離婚。1967年の5月、政治家平野力三氏の娘・義子さんと再婚。1973年7月「北の家族」をオープン。しかし、義子さんは同年12月22日胃がんのため逝去。享年37。その後、居酒屋『北の家族』チェーン経営で復活し、世間を驚かせる。1983年7月、およそ30歳年下の阿部都久子さんと再々婚。しかし1992年、北の家族の株式公開した9月に離婚届に判を押すことに。


さて、タイトルの「虚業成れり」は、かのフランス人フェルディナン・ド・レセップス(1805-1894)が、スエズ運河の工事資金として、オランダのイザベル女王からエメラルドの首飾りをせしめた時に、「わが虚業、今成る」と叫んだことに由来し、元祖呼び屋氏も、その初仕事である、昭和二十九年、ドン・コザック合唱団の来日公演のために、三和銀行から五百万を融資された時に、「わが虚業、今成る」と叫んだとか。

そして、財団法人アート・フレンド・アソシエーションを立ち上げた神さんが目指した人物が、ロシアのイムプレサリオ(興業主)と呼ばれたディアギレフでした。「画家として芸術界にデビューした彼は、画家としての自分の才能をいち早く見限り、イムプレサリオとして、当時西欧でまったく無名だった音楽家ストランビンスキー、ダンサーのニジンスキーを登用して『ロシア・バレエ団』を結成、『春の祭典』や『火の鳥』などスラブ神話をテーマにした前衛的な作品を次々にプロデュース」。

セルゲイ・ディアギレフ(SergeまたはSergei  Diaghilev 1872年3月31日(ユリウス暦3月19日)-1929年8月19日)は、「ロシアの芸術プロデューサー。美術雑誌『芸術世界』の発起人や、ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の創設者として名高く、数多くのバレエダンサーや振付師を育成するとともに、名だたる作曲家に歴史に残るバレエ音楽の傑作を依嘱した」。


株式公開した日の午後、義子さんの師でもあった漢雲老師から「祝上市、亜都興、虚業生」というファックスが届きます。株式上場を祝す、アートライフの事業が成功し、「虚業」が成ったという意味だそうです。著者の大島氏は次のように記しています。

「漢雲老師は、『文化の夢を売る虚業は実業で、居酒屋を営む実業は、生活の夢を売る虚業』だと言いたかったはずだ。その思いがこの『虚業成』という言葉にこめられていた」。


最後に、神さんと有吉佐和子さんとの子供である玉青さん。神さんの晩年に再会し、二人の親子関係はより深いものになったようです。

有吉玉青(たまお、1963年11月16日-)は、「日本の小説家、エッセイスト。本名は清水玉青。東京に生まれる。父は興行師だった神彰、母は作家の有吉佐和子。命名は廖承志による。誕生直後に両親が離婚し、母の下で育つ。光塩女子学院初等科、同中等科、東京都立富士高等学校卒業」。

「早稲田大学第一文学部哲学科に入学し、3年次の夏休みに英国へ短期留学中に、母の急逝に遭う(1984年)。同学科卒業後、東京大学文学部美学藝術学科に学士入学。卒業後、東京大学大学院人文科学研究科修士課程へ進む。結婚後、海外赴任した夫とともに渡米し、一時期ニューヨークなどに滞在した。1992年にニューヨーク大学大学院演劇学科修了。東大大学院在学中の1989年に、母との思い出などを綴った書き下ろし「身がわり-母・有吉佐和子との日日(にちにち)」(新潮社)を刊行。現在、作家活動のほか、映画評論でも活躍中」。


大島幹雄(おおしまみきお)
1953年生まれ.アフタークラウディカンパニー(ACC)勤務.プロモーターとして主にサーカスやクラウンを海外から呼んだり,日本人パフォーマーのプロデュースを手がける.サーカス文化の会事務局長,石巻若宮丸漂流民の会事務局長,早稲田大学非常勤講師.著書『サーカスと革命――道化師ラザレンコの生涯』平凡社,1990,『海を渡ったサーカス芸人――コスモポリタン沢田豊の生涯』平凡社,1993,『魯西亜から来た日本人――漂流民善六物語』廣済堂出版,1996,『シベリア漂流――玉井喜作の生涯』新潮社,1998,訳書『日本滞在日記――1804-1805』レザーノフ著,岩波文庫,2000.
※大島幹雄氏のホームページ デラシネ通信 http://homepage2.nifty.com/deracine/


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