読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

外国大学での最初の日本人教授を描く、「最後の『日本人』―朝河貫一の生涯」(阿部善雄著)

2008-09-16 15:46:59 | 本;ノンフィクション一般
<目次>
1 少年のさくら
2 父上様母上様
3 日露戦争と朝河
4 日本外交への忠告
5 日米文化交流上の巨歩
6 『入来文書』完成への道
7 大陸侵攻への警告
8 ヒトラーの自殺予言
9 大統領への親書運動
10 敵国内の自由人
11 永遠のニューヘーブン


大隈重信(1838-1922)、伊藤博文(1841-1909)、高峰譲吉(1854-1922)、坪内逍遥(1859-1935)、新渡戸稲造(1862-1933)、徳富蘇峰(1863-1957)、野口英世(1876-1928)、吉野作造(1878-1933)。明治初期の日本を代表する人々を生年順にアトランダムに並べただけではありません。これらの人々がそれぞれの立場で、アメリカというカテゴリーの中で接した人物が本書の主人公、歴史学者・朝香貫一、その人です。

高峰譲吉氏とその妻キャロライン・ヒッチ、新渡戸稲造氏とメリー・エルキントンらと同じく、朝河貫一氏もアメリカ人ミリアム・キャメロン・ディングウォールを妻としました。新渡戸氏は7年間のアメリカ滞在でしたが、高峰氏と朝河氏はアメリカ永住の決意とともに当地の伴侶を得たのでした。

また、新渡戸稲造氏の晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国主義思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去る。一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だったようです。後述しますが、本作の主人公にもこの戦争に関してそんな失意がありました。

まずは、後に非欧米諸国に絶賛された日露戦争(1904年(明治37年)2月6日 - 1905年 9月5日)の勝利。一方では、戦費調達に苦しんでいた日本銀行副総裁の高橋是清氏は、ロスチャイルド財閥(ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフ)からの資金提供を受け、同盟関係にあった英国からも支援を受けていますが、他国も中立な立場でこの戦争を見守る形となりました。そんな他国の日本への「理解」を促したのが、朝河貫一氏の「日露衝突」という本でした。

「『日露衝突』(The Russo-Japnaese Conflict)は、英文で書かれているため、日本人にはよく知られていない。この本は、日露戦争が開戦後九ヶ月を経た1904(明治37)年11月に、アメリカとイギリスで出版された。おりから、乃木希典がひきいる第三軍は203高地を攻撃中である、一方、ロシアのバルチック艦隊は、太平洋に出撃するべく北アメリカまで南下していたのであった」。

「『日露衝突』は『序説』と第一章より第二十章にわたる各論を備えているが、序説は六十三頁が費やされ、明治期における東洋経済史ともいえる部分である。朝河は、日本の産業の構造が農業から工業へと変質してきた経過をとらえることによって、中国大陸に市場を求めるようになった事情を説き起こし、韓国・満州を舞台とした日露それぞれの経済関係の推移を、数字で示しながら説明していった。そしてロシアの満州にたいする植民地的占拠に向けての日満間の共通の利害を論じ、日露衝突の背景を描き出した」。

「第一章で、遼東半島の返還をめぐる三国干渉と日本に与えた影響をしるしたあと、第二章以下で、清国を舞台として火花を散らすヨーロッパ諸国の植民地的外交や利権扶植と、日本の関係の仕方を論じた。さらに、日英同盟・露仏共同宣言などについてもくわしくふれ、第十九章において日露の度重なる交渉決裂と、日本の宣戦布告におよんでいる。とくに彼が最後に一章を設けて、清国の中立と韓国の保全にたいする日本の立場を明確にしたことは注目にあたいする」。

「『日露衝突』は、発売されるやただちに驚異的な売れ行きをみせ、版を重ねていった。朝河はたびたび日露戦争についての講演をたのまれるようになり、日本の文化や習俗についての討論会にも招かれてM討論に参加することもしばしばであった。かたわら大衆的な『コリアーズ』誌を含め、多くの新聞雑誌に寄稿した。またその著書は、欧米の当局者や識者ならびに図書館・新聞社などの注目を集め、彼の戦中の三十数回にわたる講演とあいまって、大きな反響を呼んだのである」(P48)

そして、時代は40年弱が経ち、朝河氏を取り巻く環境は、米国で暮らす住民と日本人としてのアイデンティティの狭間を悩ますものとなっていきます。

「1941年(昭和16年)の十月と十一月、朝河にはかぎなく重苦しい日々がつづいた。エール大学で彼の講義を受けていた学生たちの目にも、彼の淋しさがはっきりうかがえた。それは、けっして孤独の淋しさではなかった。破綻しかけている日米関係の憂慮であり、いよいよはげしさを加えてきた祖国日本の独善にたいする憤りであった。朝河は十月、日本の大改革を絶叫し、十一月には、天皇へ平和をよびかけるルーズベルト大統領親書の打電運動の心身を使い果たしたのである」。

アメリカすでに戦争準備を始めだし、十月二日に、「すべての国の領土と主権の尊重」、「内政不干渉」、「すべての国の平等と原則の尊重」、「太平洋の現状維持」という従来の四原則に加えて、中国・仏印からの日本軍の全面撤退を要求する覚書を野村吉三郎(駐米大使)に手渡していました。(P208)

この厳しい状況下で講じた朝河氏の日本改革の要請とは・・・

「日本軍の大陸よりの撤退、三国軍事同盟の破棄、日本における政務と軍務の分離、民心と教育の解放、これらを断行せよというものであった。これらはいずれも、朝河がこれまで日本を毒するものとして祖国へ忠告してきたものであり、その忠告の総決算である。そして彼はさらに、これを断行するうえでは、明治維新前後における徳川慶喜以下の聡明な諸侯や志士が示した公明正大な方針を範とせよと迫った」。

「彼はまた、いまこうした抜本的な改革をしないで、当面を糊塗する妥協にとどまるならば、一時は英米やその同盟国と平和を保つことができても、中心問題が解決されていないので、必ず将来に禍根を残すであろうと強調した」。(P211)

結果は、歴史が示すとおりです。なぜ、朝河氏をはじめとした開戦阻止の運動が功を奏さなかったのか?著者は、それをハル・ノートに対する日本政府の読み違いであったと指摘しています。


朝河貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、「日本が生んだ世界的歴史学者。尚、イェール大学では、”Historian”, "curator" (キュレーター) ,"Peace Advocate" (平和の提唱者)として、朝河貫一を評価している」。

「福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。1874(明治7)年、父正澄が立子山小学校(現福島県福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る)。

「立子山小学校、川俣高等小学校(現福島県伊達郡川俣町立川俣小学校)を経て、1888(明治21)年、現福島県福島市にあった福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)に入学。1889(明治22)年、現福島県郡山市に福島県尋常中学校が移転すると、朝河は現郡山市にいた親類である宮本家に下宿し、そこから通学する」。

「福島県尋常中学校在学中、英国人教師トーマス・エドワード・ハリファックスに教えを受ける。1892(明治25)年3月、同校卒業の後、一時郡山尋常小学校(現福島県郡山市立金透小学校)で英語の嘱託教員を勤める。同年11月東京専門学校(現早稲田大学)に編入学し、1895(明治28)年首席で卒業。同校在学中に大西祝、坪内逍遙等の教えを受け、横井時雄より洗礼を受ける」。

「1895(明治28)年、大西祝、大隈重信、徳富蘇峰、勝海舟らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学で学ぶ。1899(明治32)年に米国ダートマス大学を卒業。1902(明治35)年イェール大学大学院を卒業。1902(明治35)年Ph.D.。1902(明治35)年ダートマス大学講師。1906(明治39)年〜1907(明治40)年米国議会図書館とイェール大学図書館から依頼を受けた日本関係図書収集のため一時帰国」。

「1907(明治40)年再渡米、イェール大学講師、次いでイェール大学図書館東アジアコレクションキュレーターに就任。1907(明治40)年ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍する。1910(明治43)年同大学助教授。1913(大正2)年ミリアム・朝河と死別(ミリアムの墓は米国コネティカット州ニューヘブン市内エヴァグリーン墓地にある)」。

「1917(大正6)年〜1919(大正8)年東京大学史料編纂所留学。1930(昭和5)年イェール大学準教授。1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任。1942(昭和17)年同大学名誉教授。1948(昭和23)年バーモント州ウェストワーズボロで死去」。(ウィキペディア)

本書では、朝河貫一氏の死を、AP電、UPI電は「現代日本がもった最も高名な世界的学者」として伝え、日本占領のアメリカ軍「スターズ&ストライブス」は弔意の記事を掲載し、横須賀基地では半旗をかかげたことが記されています。

一方で、日本の新聞界は、この訃報電文を新聞の片隅に三、四行をさいて載せたものの、その名前の綴り方すら知らなかった、と記しています。

阿部善雄[アベヨシオ];1920‐1986。台湾生まれ。45年東京帝国大学文学部卒業。東京大学史料編纂所教授、聖心女子大学講師を歴任。専攻江戸時代史



<備忘録>
「辞書喰い」(P8)、「坪内逍遥」(P14,69)、渡米援助(P19)、徳富蘇峰(P25)、「24歳の日本外交論」(P28)、「比較制度史の開拓」(P29)、「タッカー学長の期待」(P43)、「日露衝突」(P45)、「エール大学の日本資料」(P62)、「伊藤博文」(P69)、「日露戦争七博士」(P69)、「日本の禍期」(P69)、「大隈重信」(P73)、「高橋譲吉、新渡戸稲造」(P82)、「1914-15年の日本外交への忠告」(P85)、「21か条要求の罪」(P95)、「日本図書、資料収集」(P103)、「1917-19年の帰朝」(P114)、「日本留学の総決算、『入来文書』の価値、ライシャワーの訪問」(P126、152-155)、「1920年の日本の世情」(P135)、「吉野作造」(P138)、「推古朝の日本国作り」(P141)、「野口英世」(P146)、「松本重治」(P149)、岩波茂雄(P193)、「自由主義政体の真髄」(P194)、「ミス・リデル、ミス・ライト」(ハンセン病患者救済、P205)、「アメリカの四原則」(P208)、「日本改革への朝河の絶叫」(P211)、「徳富蘇峰の宣戦詔書草案」(P247)、「角田柳作」(P265)


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1 コメント

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    110Who属??? (“スカイツリー”)
2010-04-11 16:31:37
       110Who属???

     弱・2 く 強〇色 と性治 シ 紅

 -現在ターゲットの小泉純一郎前首相&医師久松篤子とその家族ー  いずれ政敵へ




イサオ(33)く 不治三軽 く 大マスコミ・ NHK(2十1=3)く工作員(333) く 北朝鮮(0007  ×5)     ソシ・・・テ・・喜び組〇百合子   くく  ジョージ・W・ブッシュ



×不治三軽(イイジマ三(33)*日枝(105)*110ウルマファミリー(25))・・・結0・・暴力団(三)

      納◎

×東京10く小イ〇百合子の婚活死・援企業(888) く ジョージ・W・ブッシュの死の商人(ハハハ)



ファミリー(88)◎ちなみに警視庁(17)
長崎県警 〒850-0033長崎市万才町4-8 
           -交通安全ー
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