読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

往なしをもって「大津波を生きる~巨大防潮堤と田老百年のいとなみ」(高山文彦著/2012年刊)

2013-06-15 09:57:26 | 本;ノンフィクション一般

 <目次>

第1章 津波太郎
第2章 ある一家の盛衰
第3章 柳田國男とラフカディオ・ハーン
第4章 関東大震災
第5章 奮闘する村長
第6章 復興の精神
第7章 高台への移転

 

2011年(平成23年) 3月11日、東日本大震災に伴い発生した大津波は、「午後3時25分に田老地区に到達。海側の防潮堤は約500メートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため地区では再び大きな被害が発生。目撃証言によると『津波の高さは、堤防の高さの倍あった』という。

 

市街は全滅状態となり、地区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。『立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた』という証言もある。震災から半年後の調査では、住民の8割以上が市街の高地移転に賛同しているという」(ウィキペディア)

 

画像で見る岩手県田老町の悲劇と防潮堤の破損【東日本大震災】>

http://matome.naver.jp/odai/2130072889754692501

 

岩手県宮古市にある本州最東端のが魹ヶ崎(とどがさき)。あの大津波を最初に受けたのがこの岬だったのでしょうか?宮古市田老地区(旧田老町)は「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多かった、ということを3・11以前は知りませんでした。チェックしてみると・・・

 

1611年(慶長16年)10月28日 -慶長三陸地震津波で村がほとんど全滅。死者数千人。

1896年(明治29年)6月15日 - 明治三陸地震で発生した高さ14.6m津波が襲い1859人が死亡。

1933年(昭和8年) 3月3日 - 昭和三陸地震による大津波では911人が死亡。

 

本書は、3・11で被災した東北各地のうち、これまで津波と最も闘ってきた田老地区の人々の艱難辛苦と起死回生のドキュメント。特に、昭和三陸地震を中心に描かれています。

 

復興の先頭に立ったのは、明治では扇田栄吉氏。昭和では、後藤新平の帝都復興計画をこの辺土において実現させていった関口松太郎氏。そして、今回この難事業に立ち向かっているのが、現宮古市長の山本正徳氏(1955年 - )。山本市長は奇しくも田老町の出身。先頃行なわれた6月9日の岩手・宮古市長選で無投票再選が決まっています。

 

さて、昭和三陸地震の復興に尽力した関口松太郎氏。彼については本書以上にその人となりを伝える資料はネット上になく、その意味で本書での高山さんの仕事は有意義なものです。当時の復興に先立ち、70歳だった関口村長は、被災から2ヶ月半後の村議会などで次のように主張したことが引用されています。

 

~高地移転ということになれば500戸もの家屋をいっせいに高台へ移すことになるが、どこにそれだけの場所があるか。山を切り崩して平坦地をつくる方法もあるが、これはとてつもない難工事となるだろう。津波にのまれたところは、たいていが漁師だ。漁師が海を離れて高台に移っては仕事にならぬ。だいいち、どこにもそんな場所はない。したがって現地復興をはかり、防波堤を築いて村を守る」(P148)~

 

当時内務省が打出した復興計画方針は高所移転。これに対し、関口村長がタッグを組んだのが、元内務省の高級官僚だった岩手県知事の石黒英彦氏。この二人の念頭にあったのは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東地震を受け、第2次山本内閣内務大臣に就任した後藤新平が構想した帝都復興計画。著者は次のように述べます。

 

~後藤新平の帝都復興計画との共通点は、いちはやく移転や移住を否定し原地復興を宣言したこと、100年の大計として抜本的な市街地の改造と最新の都市計画の採用、地主をまとめ耕地整理組合をつくったうえでの区画整理の断行--すなわち、後藤新平の構想がそのまま田老に移され、実現していったのである。(P171)~

 

関口 松太郎 - 岩手県立図書館

http://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/05.html

 

しかしながら、この二つの計画は、肝心な構想の形を変えて実現されていきました。著者は次のように描いています。

~昭和九年からながい年月をかけて完成をみた「万里の長城」は、北と西からほぼまっすぐに延びて、南側にもっとも近づいたところで、ブーメランの弧のようにカーブしている。そこから海岸線沿いに東に向って第二の防潮堤も建設がはじまったのは昭和37年のことである。完成したのは四年後の昭和41年。

 

この第二の防潮堤は、過去の教訓を見殺しにして築かれたものである。国家事業なのだから、せっかくの公共事業費を一円でも多くつかって町を潤そうと、その思惑ばかりが先に立ち、田老はなりふりかまわず突進した。

 

この第二の防潮堤は、長内川をまたぎ、漁港の裏を通って、田老湾のいちばん東端にひろがる青砂里という集落を守るようにして、海面からの高さ10m、長さ582mの規模で岬の崖の直下までをつないだ。

 

青砂里とは反対の田老湾の西の山側には、田中という集落がある。「万里の長城」と呼ばれる第一の防潮堤の起終点はここなのだが、新しくできた第二の防潮堤がこれとつながったために、青砂里と田中が東西に一直線で結ばれることになったのである。

 

・・・そもそもこれは、関口松太郎が当初構想していたもので、津波を「受け流す」必要性を構想した国によって、変更させられた計画なのであった。関口もそれをよく理解し、国の方針にしたがった。ようするに関口は、田老の東西を一直線でつなぐようなことをしたら、津波を正面から受けてしまうので、ふたたび大きな災害を招いてしまいかねないと判断したのだ。(P187)~

 

~残念ながら警鐘を鳴らす者はひとりもいなかった。そうして、平成の大津波で第二の防潮堤は木端微塵に打ち砕かれ、守られていたはずの野原の家々は、ことごとく根こそぎにされ、瓦礫の荒野と化してしまうのである。(P189)~

 

自然の猛威を前に、人間の抗いは虚しすぎる。破壊力を受け流す、真っ向勝負ではなく往なしてかわすことが人間の智恵。それにしても、物事には益、不益は表裏一体。台風が巻き起こす荒波は、海底を綺麗にするように、大津波にも何か効能はないものでしょうか。著者は、この田老の防潮堤にかけた人々の心をなでるように、次のように述べています。

 

~当初、「巨大防潮堤はなんの役にも立たなかった」というのが多くのメディアの論調であった。しかし、かならずしもそうではない。関口松太郎以来、防潮堤のみならず、隅切りや道路の拡幅、基盤の目の町づくりをして大津波に備えてきた田老は、街並みこそすべて失ってしまったが、数多くの人命を救い、立派に打ち勝ったのだと私は思いたい。(P195)~

 

求められる防災事業の見直し~「間合いを置く、往なす」土木技術~

http://ameblo.jp/asongotoh/entry-11012243592.html

 

【著者に聞きたい】高山文彦さん 『大津波を生きる』 - MSN産経ニュース

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130303/bks13030308010001-n1.htm

 

高山文彦;

1958(昭和33)年、宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年、ハンセン病で早世した作家の評伝『火花―北条民雄の生涯―』(飛鳥新社、のちに角川文庫)で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と、第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、「解放の父」と呼ばれる松本治一郎の生涯を描いた『水平記』(新潮文庫)や、作家・中上健次の評伝『エレクトラ』(文春文庫)、「差別自作自演事件」を追った『どん底』(小学館)などのノンフィクション作品のほか、『父を葬る』(幻戯書房)や『あした、次の駅で。』(ポプラ文庫)などの小説がある。



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