読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

まずその人柄を知りたい、「近代美術の巨匠たち」(高階秀爾著/岩波現代文庫)~前編~

2008-08-13 09:16:37 | 本;エッセイ・評論
<目次>

モネ:「私は生まれた時からきかん坊であった……」
セザンヌ:「動いちゃいけない.林檎が動くか!」
ルドン:「私はただ芸術を創造しているだけなのだ……」
ルノワール:「乳房とお尻にたいして優れた感覚を持っている画家は……」
ユトリロ:「何も飲まずに描くなどということは考えられない……」
モディリアニ:「さあ,一枚五フラン……」
ゴーガン: 「これからは絵を描くんだ……毎日ね」
ピカソ:「何百という鳩がいるんだ……」
ゴッホ:「赤と緑で人間の恐ろしい情念を……」
ロートレック:「自由を奪われた者はすべて死に向かう……」
ボナール:「その娘たちの顔を思い出して……」
デュフィ:「色彩の魂である光のための闘い……」
ルソー:「今ほんとうに画家と言える人は君と僕だけだ……」
あとがき/参考文献


本書は、2008年1月16日第一刷発行となっています。ただ原文は、モネからデュフィまでが1967年の「美術手帖」誌の1月号から12月号、ルソーが1968年秋に「ルソー展」のカタログのために書かれた文章だそうです。今からおよそ40年前、著者35歳のときの仕事になります。

本書は、画家と鑑賞者の関係について、「ある芸術家の作品が好きになれば、つぎにその芸術家がいったいどういう人間で、どういう生活をしていたかということを知りたくなるのは、人間の然らしむところで当然のことだと言ったのは、ドラクロワである」といった立場から、同じくドラクロワの「絵画とは作者の魂との間に架けられた一本の橋だ」という言葉にインスパイアされ書かれた短い伝記群といってよいと思います。

そして、ここに取り上げられる画家たちは、「印象派以降いわゆるエコール・ド・パリにいたるまでの近代画家」です。まず印象派とエコール・ド・パリについてウィキペディアでチェックしておきましょう。

印象派(仏:Impressionnistes)または印象主義(仏:Impressionnisme)は、「19世紀後半のフランスに発し、ヨーロッパやアメリカのみならず日本にまで波及した美術及び芸術の一大運動である。1874年にパリで行われたグループ展を契機に、多くの画家がこれに賛同して広まった」。

この印象派には、モネ、ルノワール、(後期)にセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン(ゴーガン)が属します。

エコール・ド・パリは、「『パリ派』の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちの総称。1928年、パリのある画廊で開催された『エコール・ド・パリ展』が語源だといわれる。 印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、『パリ派』とはいっても、一般に言う『流派』『画派』ではない」。

パリ派には、ルソー、ユトリロ、モディリアーニが属します。

本書の編集ではほぼ活躍した時代の時系列になっていますが、ここでは生年別に並べ替えて簡単なプロフィール記述していきますが、前編、中篇、後編に分けて、画家たちの作品にはほとんど言及せずに、その人柄を中心に取り上げていきます。本書を読んで、著者には「画家たちが愛した女性たち」というテーマでも書いて欲しいとも思いました。


①ポール・セザンヌ (Paul Cézanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日)はフランスの画家。ポスト印象派の時期に活躍し、「近代絵画の父」として知られる。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムに大きな影響を与えた。

「セザンヌ自身に気質の中には、北方の暗いバロック的表現に惹かれるものが生まれながらにしてひそんでいたが、同時に明快な表現と構成的秩序を求めるラテン的精神も住んでいた。古典主義的なものとバロック的なものと、この相矛盾するように見える二つの性向が同時にひとつの魂の中に生きているということが、セザンヌを理解する鍵だとルネ・ユイグは語っている」(P27)



②オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840年4月22日 - 1916年7月6日)は、19世紀-20世紀のフランスの画家。1840年、ボルドーの生まれ。本名はベルトラン・ジャン・ルドン。父ベルトラン・ルドンの名からもらい命名されたが、母マリーの通称「オディール」に由来する「オディロン」の愛称で呼ばれ、本人も周囲も終生オディロンと呼ぶことになる。

「彼が、そのデッサンや版画において、黒を巧に使って驚くべき深い効果をあげていることはよく知られており、あの口の悪いドガですら、『ルドンのやろうとしていることは大体たいしたことではないが、ただあの黒だけは、あれ以上に美しく表現することは不可能だ』と感嘆している」(P62)

「彼は自分の作品が『論理』にかなうものであることを望んだ。ただ彼自身言うように、彼は『眼に見えるものの論理を、眼に見えぬもののために』使ったのである」(P63)


③クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、「印象派を代表するフランスの画家。『光の画家』の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった」。

「生涯を通じて彼が実現しようと求めたことは、自分の眼で見た清新な外界の印象をそのままカンヴァスの上に定着することであった。」(P17)

「モネの絵画世界からはまず人物像が消え、ついで建物や樹木も消えて、純粋に光だけの世界が展開されるようになって行くのである」(P19)

「20世紀に入ると、モネの絵筆は、かつての中心課題であった『光』よりも、その光の表現の手段であった『色』によって支配されるようになってくる」。(P21~23)


④ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir、1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、「フランスの印象派の画家。長男のピエールは俳優、次男のジャンは有名な映画監督である。(後期から作風に変化が現れ始めたので稀に後期印象派の画家とされることもある。)フランス中南部のリモージュにて生まれる。3歳の時、一家でパリに移住する」。

「13歳で磁器の絵付職人となるが、産業革命、機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、職人としての仕事を失うこととなったルノワールは画家を目指した。1862年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。のちグレールのアトリエ(画塾)に入り、モネ、シスレー、バジールらと知り合っている」。(ウィキペディア)

「印象派のグループのなかで、ほんとうに『伝統的なもの』を愛好し求めるのは、セザンヌとルノワールだけだったろう・・・・。それでいてセザンヌは誰よりも先鋭的な革新者となり、ルノワールも他の仲間たちと同じような『革命家』と見られるようになった・・・・。セザンヌが造形的な面でその天才を発揮したとすれば、ルノワールは感覚的な天才だったのである」(P68)

「ルノワールの外光表現は、モネやピサロたちとはいささか異なっていた。彼は、何もさえぎるもののない広い戸外の明るい光よりも、たとえば『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』や『ぶらんこ』などに見られるように、木の間を通して人物の上に点々と落ちかかる光の多彩な効果を追求した。そこにわれわれは、色彩画家としての彼の本領と、人物表現にたいする彼の執着とを見ることができる」(P77)


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