読書と映画をめぐるプロムナード

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西洋音楽の日本への受容を描く、「国家と音楽~伊澤修二がめざした日本近代~」(奥中康人著/春秋社刊)

2008-10-26 08:56:48 | Weblog
<目次>
第1章 鼓手としての伊澤修二 明治維新とドラムのリズム
第2章 岩倉使節団が聴いた西洋音楽 ナショナリズムを誘発する合唱
第3章 洋学と洋楽 唱歌による社会形成
第4章 国語と音楽 文明の「声」の獲得
第5章 徳育教育と唱歌 伊澤修二の近代化構想

<内容紹介>
~現在日本には様々なジャンルの音楽があふれているが、その基礎になっているのは、ドレミファソラシド、いわゆる七音音階だ。しかし、アジアの音楽や日本の伝統音楽をはじめ、全ての音楽が必ずしもドレミでできているわけではない。七音音階は西欧の伝統なのである。では、いつから、なぜ、日本人はドレミを歌いはじめたのか。実は明治維新期、アメリカから必死に新しい音楽教育を学んだ人物がいた。伊澤修二である。~

~維新まで幕藩体制による地方分権下の日本人は、国民意識に乏しく、方言もまちまち、国語も統一されていなかった。また、ドレミが歌えない国は、当時西欧諸国から未開とみなされていたらしい。七音音階を歌えるようにしつつ、歌に国家意識を盛り込んで発音を標準化すること、テレビのようなメディアもなかった時代、国際的に先進国家と認められ、各人に国民意識を持たせる為の政策として、「唱歌」に代表される「音楽教育」はうってつけだったのである。~

~伊澤は西洋芸術音楽の礎を築いた人物として著名であるが、本書では明治政府の有能な官吏としての伊澤像に焦点をあてている。出身国の高遠藩で鼓笛隊のドラマーをしていた頃から、東京に出てフレーベル主義教育に出会い、アメリカ留学で電話機の発明で有名なグレアム・ベルに「視話法」を学び、帰国後、唱歌によって中央集権国家を急進的に築こうとした生涯から、近代日本をつくるために必要とされた「西洋の音」、統治技術としての音楽教育のありようを綿密に解析した新しい洋楽受容史である。現在でも残る鼓笛隊、幼稚園で踊るお遊戯、小学校でならった「蝶々」などの懐かしい歌などのルーツもあわせて理解できる。~


山田洋次監督が、藤沢周平さんの小説「隠し剣」シリーズを映画した「隠し剣 鬼の爪」(2004年)だったと思いますが、藩士たちが鼓笛隊として訓練を受けるシーンがありましたね。その鼓笛隊の鳴らすリズムに左手と左足を同時に動かすことができず歩きづらそうな場面や走るシーンを含め、当時の侍たちの歩き方、走り方を知るいい機会でした。

この幕末の時代に起こっていた鼓笛隊を編成するという計画こそ、本書が解き明かす、日本の西洋音楽の受容の原点。時は、ペリーの黒来航から2年後の1855年の長崎海軍伝習所。幕府はオランダから献呈された艦船を用いて、その操縦法をオランダ人から実際に学ぶために、ここでそれとは関係のなさそうなドラムのレッスンが始まったのです。

日本初の軍楽隊は薩摩、長州、土佐の藩による軍楽伝習隊で、結成は1869年であった。日本においては、1871年に日本陸軍及び日本海軍に軍楽隊が発足し、1872年の鉄道開通式では早くも公の場での演奏を行っている。明治期には鹿鳴館での奏楽なども担当した。

「当時、兵隊を作り出すための訓練は『調練』とか、『操練』(英語ではドリルdrill)と呼ばれた。いわゆる軍事教練である。調練は何よりもまず『足並み訓練』、つまり行進の練習や銃の扱い方のような基礎的な動作にはじまり、隊列や陣形の展開など実戦に直接かかわる訓練までをも含んだ」。

「そもそも、大勢の人間が左右の足をそろえて整然と行進をすることは、人間が本来持っている歩行スタイルではない。しかし、一人ひとりの一歩の単位、つまり一歩あたりの歩幅や歩調が定まらずバラバラであれば、隊列を組んで行事をしたり、緻密な戦術を展開したりすることはほとんど不可能であった」。

「それゆえ『足並み訓練』は、訓練のなかでも最も基礎的な訓練なのである。それまでの日本の兵学思想は、わずかな例外をのぞけば集団で戦うという観念に乏しかったため、幕末の人々が最新式の小銃とともに、調練によって獲得する身体動作を全く新しいものとして受け止めたことは想像に難くない。この訓練を効率よく行うために用いられたのがドラムである」(P5)


本書の主人公である伊澤修二は、大変優秀な人材であったようです。まず、彼の生涯を概観しておきましょう。

伊沢修二(いさわ しゅうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日)- 1917年(大正6年)5月3日)は、「日本の教育者である。明治から大正にかけて、近代音楽教育や、吃音矯正などを行う。妻は徳島藩士の森重氏の娘ちよで、子に1男4女。幼名は弥八。政治家の伊沢多喜男は弟、教育者の遠藤隆吉は娘婿である。信濃国伊那谷、高遠城下に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。父は20俵2人扶持の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった」。

「1861年(文久1)から藩校の進徳館で学び、1867年(慶応3)に江戸へ上京。京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。同年には藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学する。1872年(明治5)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874年(明治7)には愛知師範学校校長となる。1875年(明治8)には師範学校教育調査のためにアメリカへ留学、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、グラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。同年10月にはハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。1878年(明治11)5月に帰国」。

「1878年(明治11年)帰国を前にした4月8日、伊沢修二は、留学生監督の目賀田種太郎(1853 - 1926)と連名で音楽教育の意見書『学校唱歌ニ用フベキ音楽取調ノ事業ニ着手スベキ、在米国目賀田種太郎、伊澤修二ノ見込書』を文部大臣に提出。1879年(明治12年)、文部省に伊沢修二を御用掛とする音楽取調掛が設立され、日本国の音楽教育に関する諸調査等を目的とした。翌年以降、師範学校付属小学校生や幼稚園生への教育、音楽教員の育成を行い、音楽専門教育機関の役割を果たすようになった」。

「1879年(明治12)3月には東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。田中不二麿が創設した体操伝習所の主幹に命じられる。1887年には初の国産オルガンを持って上京した山葉寅楠(ヤマハ創設者)に調律の乱れを指摘し音楽論を教授している。1888年(明治21)には東京音楽学校、東京盲唖学校の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める」。

「内閣制度が発足し、1885年(明治18)に森有礼が文部大臣に就任すると、教科書の編纂などに務める。1894年(明治27)の日清戦争後に日本が台湾を領有すると、台湾へ渡り台湾民生局の学務部長心得に就任。1895年(明治28)6月に、台北北部の芝山巌(しざんがん)に小学校『芝山巌学堂』を設立。翌1896年(明治29)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)」。

「1897年(明治30)には勅選貴族院議員。晩年は吃音矯正事業に務め、楽石社を創設。67歳で死去。墓所は雑司ヶ谷墓地。紀元節、皇御国などを作曲。『生物原始論』を翻訳し、進化論を紹介する。著作に『教育学』、『小学唱歌集』、『学校管理法』ほか。アメリカ留学中の1876年には留学生仲間の金子堅太郎(1853 - 1942)とともに日本人として初めて電話を使っている」。(ウィキペディア)


本書では、師範学校教育調査のためにアメリカに留学した彼が、日本が国際的に先進国家と認められ、各人に国民意識を持たせる為の政策として、「唱歌」に代表される「音楽教育」を学び、その関連でグレアム・ベルに「視話法」を学ぶことによって、帰国後、唱歌によって中央集権国家を急進的に築こうとしたことに、著者の焦点が当てられています。なぜ、国民意識の構築と唱歌が結びつくのか?伊澤は次のように考えていたようです。

「伊澤や目賀田が関心をもっていたのは、ただ鳴り響く音声だけではなく、音声を発する身体器官そのものと、声にかかわる技術一般、つまり、口腔内の軟口蓋や咽頭や口唇、舌等の器官とその運動にもおよんだ。日本人には特定の音がうまく発音できないこと、特定のピッチが出ないことをまず確認し、近代教育を受けていない日本人の発声器官が、教育を受けている先進諸国の西洋人にくらべて野蛮で未発達であると考えた」。

「洗練された話し言葉をもち、あるいは歌うことのできる欧米の国民のように、日本人が文明的な国民の声をもつためには、その身体能力の差を解消することによって可能となる。つまり、音声器官が改良・矯正の対象となり、その解決のために有効な方法として学んだのが、ベルの視話法やメーソンの唱歌教授法なのである」。

「唱歌は、科学によって裏づけられている(と考えられていた)七音音階で歌われていることが重要であり、そこに文化相対主義的な価値観が入り込む余地はまったくなかった。トレーニングによって音声器官が改良されると、日本音楽も改良されるだろうという楽観的なヴィジョンが伊澤の頭の中にはあったはずだ」

「これは国語問題を例にすればわかりやすい。伊澤は文明国であるアメリカの国語(英語)を日本に移植しようなどとはまったく考えていなかった。言語障害者への啓蒙活動や地方の方言矯正によって、それまでにあった日本語を改良すれば、標準的な国語によって円滑なコミュニケーションがおこなわれるとかれは信じていた」。

「視話法が、英語普及のための道具でなかったように、メーソンの唱歌教授のメソッドは、必ずしも西洋音楽を普及するための道具ではなかった。日本のさまざまな声の文化を均質化、標準化して、それまでにまったく存在していなかった、全国民が同じメロディで声をあわせて歌うためのメソッドなのである」(P178-180)


また、著者は伊澤修二が東京音楽学校の初代校長であったことで、後世の音楽関係者の一部から、音楽を国家主義の下で埋没させたと批判されていることに対し、伊澤の思想は音楽取調掛に任命されたときから首尾一貫していたと次のように記しています。

「伊澤の思想の一貫性から浮かび上がってくるのは、フレーベル主義(*)の運動遊戯でみられた、社会全体と個人との関係性、そしてその関係を有効に機能させるための唱歌という構図と、かれの国家有機体説にもとづく国家と国民、つまり一個の有機体としての国家とそれを構成している個々の細胞である国民の関係性、そしてその関係を有効に機能させるための音楽(唱歌)、というかれの国家教育論の構図とが一致していることである」。

「伊澤がこの類似をどれくらい自覚していたのかはわからないが、近代天皇制に基づいた国家教育主義の原型は、フレーベル主義の影響をうけた『唱歌嬉戯』にある。子どもの遊戯で成立する小さな社会は、近代日本という国家共同体の雛形なのである。各地の小学校でうたわれる唱歌は、国家のレベルに直結した」(P223)

(*)フリードリッヒ・フレーベル(Friedrich Froebel, 1782年4月21日 - 1852年6月21日)は、「ドイツの教育者。幼児教育の祖。ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチに啓発され、彼の初等教育のやり方をより小さい子供たちの教育に当てはめて、幼児の心の中にある神性をどのようにして伸長していけるか、ということに腐心。小学校就学前の子供たちのための教育に一生を捧げた。「幼稚園(Kindergarten)」という造語をつくる」


伊澤修二について、本書で触れえられていない業績について、以前私の音楽のブログで團伊玖磨の講演録「創るということ」からいくつか取り上げていますので、興味のある方は、ご覧下さい。

<「a song for you」の可能性を求めて>
http://blogs.yahoo.co.jp/asongotoh

<「君が代」の成立>2006/1/3(火)
<日本音楽の成立ち(3)/團伊玖磨の講演録「創るということ」から>2006/2/15(水)
<「日本人作曲家の誕生」/日本音楽の成立ち(16/21)>2006/3/28(火)


<備忘録>
「ドラムの必要性」(P6)、「1855年、日本で最初のドラム訓練」(P8)、「ドラムの役割」(P14)、「肥後相良藩の鼓笛隊」(P22)、「軍制改革」(P24)、「唱歌遊戯」(P34)、「共同体感情、仲間意識を喚起させるための音楽」(P35)、「山口蓬春/岩倉大使欧米派遣」(P42)、「World Peace Jubilee and International Musical Festival(世界平和祝典と国際音楽祭)」、「波士敦ノ太平楽会(1872 6/17~7/4)」(P62)、「伊澤修二の学歴」(P100)、「フレーベル主義(幼稚園教育)」(P104)、「ペスタロッチ主義」(P118)、「伊澤の唱歌遊戯」(P115-116)、「ルーサー・ホワイティング・メーソン」(P136)、「五音階と七音階」(P150)、「グレアム・ベルとの出会い」(P156)、「日本留学生の視話法と唱歌の学習プロセス」(P174)、「Vocal Culture」(P175)、「伊澤の狙い」(P179)、「伊澤の思想」(P223)

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