読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

極東の島国で「日本人はなぜ頑張るのか~その歴史・民族性・人間関係~」(天沼香著/2004年)

2011-01-13 05:06:33 | 本;エッセイ・評論
<目次>
第1章 日本人の行動と思考(「水と安全はタダ」神話と日本人の「頑張り」/いつでもどこでも頑張る日本人 ほか)
第2章 「頑張り」再考(「頑張り」論の嚆矢としての『「頑張り」の構造』/家永三郎からの拙論への論評を基に考える ほか)
第3章 時代相の変化とコア・パーソナリティー(「頑張り」に変化は生じたか/「頑張る」を解釈する ほか)
第4章 日本的人間関係としての「思いやり」(日本人の「思いやり」に対する「思い入れ」/「思いやり」とは何か ほか)


しばらくぶりの投稿であり、今年初めての記事。今年もよろしくお願いします。

以前SMAPの木村拓哉さんが、ご自分がMCを務めるFM番組で、「僕は『頑張る』という言葉が嫌いです。『頑張る』は本来『我を張る』という意味で、他の人に向ける言葉ではない」というようなことを言っていました。また、「がんばらない」(鎌田 實著)という本も出版され、特に心理医療の世界では禁句とされています。

しかしながら、メディアの世界や市井の私たちも日常的に「頑張る」「頑張ろう」「頑張って」と無意識に使っているのも事実。この「頑張る」という言葉を、その発生から負の意味づけとしてもはじめて世に問うたのが、本書の著者が1987年に刊行した「『頑張り』の構造」であったようです。

本書では、この「頑張る」という言葉に加え、さらに「思いやり」という日本民族の特質を示す日本語についても考察が加えられています。日本民族の特質というのは、英語に翻訳しにくいということでもあり、次のような英語が当てられますが、やはり、ニュアンスが若干違うと。

頑張れ
DO YOUR BEST、GOOD LUCK、HANG TOUGH、NEVER GIVE UP

思いやり
COMPASSION、SYMPATHY、CONSIDERAYION

~「頑張る」は「我ニ張ル」からの転で、全体に対して個たる我が異を唱えることを意味していた。そこから派生して、耐えてやりぬく意をもつようになり、今日ではそちらの方が一般化し、第一義的になっている。いずれにせよ元来は、自らの意志、行動を他者に明示する意味合いを有する言葉だった。「頑張れ」は、自らを鼓舞する表現で、自らに向けられる言葉なのだ。であるから、他者に対して「頑張れ」というのは本来的には誤まった用法であることは明らかといえよう。~(P132)

さらに、この「頑張り」を著者は、次のような分類に分けます。

~日本人の「頑張り」は、集団内における二つのタイプの「頑張り」と集団外に対する一つのタイプの「頑張り」とに三分類することができる。①集団内の<ウチなる他者>に負けまいとして発揮される「頑張り」、②集団内の協調的な人間関係(あるいは同調的な人間関係)のなかでの「頑張り」、つまり<ウチなる他者>同士、「共に頑張ろう」といった意識のもとでの協調的(ないしは同調的)な「頑張り」と、③<ソトなる他者>に対して発現する「負けるものか」といった意識のもとでの「頑張り」とである。~

~「共に頑張ろう」というもの言いは、「我ニ張ル」からの転であることからも明らかなように、本来は個に密着した行動であるはずの「頑張る」という営為が、近代に入っていずれかの時点以降、徐々に、集団ないし全体の営為をも示す言葉に転化していったことにより初めて可能になった表現である。このように、すぐれて個に帰属するはずの営為だった「頑張り」が、集団そして全体をカバーする営為を意味するまでに敷衍するところに、この語が今日まで命脈を保ち、国民的支持を得ている理由があることは再三述べた通りである。(P110)~

そして日本人の行動原理としての「頑張り」を、水田稲作農耕にその淵源を見、「周縁」文化の性(さが)としてのハングリー精神がさらに「頑張り」を育み、支配層と被支配層との間に暗黙の了解とされた共同幻想に反映させていったと述べています。

~・・・弥生時代の日本人は、田植えに、草とりに、稲刈りに短期的に集中的に力を傾注した。必ずしもその生育に向いているとは思われない日本の気候風土の中で、人びとは稲を育て収穫することに専心、耐えてやりぬいた。そうして、日本に稲作を定着させていった。

生産力の低い時代であるから、当然、共同作業、共同労働が基調だった。土地の私的所有などということもありえなかった。共同体的土地所有という形態のもと、当時の人びとは共同で、この原産ではない植物を栽培するために、短期的に集中的に力を傾注してやりぬいた。この精神力こそが日本人の「頑張り」の淵源のひとつではないかと考えている。(P34)~

~・・・日本は歴史的、文化的に常に「周縁」的存在であったがゆえに、その時どきの「中心」を志向して、その文化を摂取すべく「頑張って」きたのである。(P37)~


~今、「日本は・・・『頑張って』きた」と国家を擬人化した表現を用いた。これは、正確にいうなら「地域としての日本ないしは日本国家を支配する層は、自らの支配をより堅固なものにするために、より進んだ文化を摂取すべく『頑張っ』てきた」という表現になろう。そうした脈絡で付言するならば、被支配者層は、支配層の目的達成のために「頑張ら」されたということになる。

現在においても、時に個々が「頑張る」場合でも、実は自らの主体性を欠落させていることは少なくない。主体性を欠落させたまま、外在的な条件に突き上げられて「頑張ら」されているケースがないとは言えないのだ。

しかし、そうした場合でも、単に「頑張ら」されているのではなく、自ら主体的に「頑張っ」ているんだという幻想を人びとは持っている(あるいは持たされている)。その幻想を支えているのが、(共に、みんなで、一緒に)「頑張ろう」という集団的思考であり、また、先にも少々触れた日本の社会のある程度のモーヴィリティの高さである。(P37)~

この「頑張り」の構造の中で、次のような現代の社会現象が表出していると述べます。

~能力は、本来的には個々人が出した結果によって判断されるものである。けれども未だに日本における諸々の社会システムにあっては、最終的な結果が個人の責任に帰されることは極めて少ない。そのあたりは、きわめて曖昧に処理されてしまう。個人の能力の欠落が厳しく追及されることはなく、何となく、集団全体の連帯責任といったところに落ち着いて行く。

私は、このように日本社会においては、結果に関連する能力よりも、その結果に至るまでの過程に関連する努力が重視されるところに、日本人の「頑張り」が発揮されるひとつの基礎があるのではないかと考えている。結果にまつわる「能力差」よりも、その結果を出すまでのプロセスで「いかに努力したか」という「努力差」が問われるとなれば、努力していることを示すべく大いに「頑張る」ことになる。

日本人が「頑張る」背景には、「能力差」よりも「努力差」のほうが称揚されるという社会現象が横たわっているのである。(P102)~


天沼香(アマヌマカオル);
1950年、京都に生まれる。探検家、歴史家、医学博士、東海女子大学教授。筑波大学、愛知県立大学、東京学芸大学、明治学院大学講師、ブリティッシュ・コロンビア大学、ハワイ大学客員研究員、国連地域開発センター委員等を務める。歴史人類学と社会医学の学際的領域の研究に従事している

著書に『ある「大正」の精神』『日本人と国際化』『「男と女」の構図―その共感的相互理解のために―』『日本史小百科/近代 家族』『日本人はなぜ頑張るのか―その歴史・民族性・人間関係―』『団塊世代の同時代史』など。


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