今朝の「梅ちゃん先生」で、梅ちゃん先生がこんなことを言っていた。
『神さまのご褒美』という言葉。
「生きていればきっといいことがある、
きっといつか神さまがご褒美をくれる」・・・
・・戦後すぐの頃、戦災孤児のヒロシに梅子は言ったのだった。
ヒロシ青年はその言葉で頑張って来た。
「でも、神さまは何もご褒美をくれない。だから、もっともっと頑張らないといけないんです。」
・・そう青年は言う。自暴自棄みたいになってる。
梅子は、もういい、もういいのよ、頑張って来た。立派だった。言いっ放しでごめんなさい、と言って涙をこぼす。
「他に何をしたらいいか思いつかなくて・・・
お母さんのおはぎ美味しいのよ・・・
こんなご褒美じゃダメかな。」梅子は母親に来てもらっておはぎを作ってもらっていた。
それをヒロシ青年と食べる。
こういう梅子の言葉の奥に在るもの、を感じたんだろうと思う、わたし。
涙が勝手に出て来た。
自暴自棄になっていたヒロシに向かってその言葉を発したのは、
梅子に在る愛が表現を求めて、「神さまのご褒美」という言葉になって出て来たんだろうし、
今日も梅子に在る愛が表現を求めて、
「他に何をしたらいいか、思いつかなくて・・・おはぎ・・・」
という言葉になって出て来た、そんなふうに思った。
それにしても、神さまのご褒美ってなんなんだろう?
いわゆる神、GODはご褒美をくれない。そう思う。
お前はこうしたから、これを褒美にやる、こうしなかったら罰をやる、
そんなことはGODは出来ない。
愛が表現される時、そういう表現の一つとして暴力的な言葉遣いというのもある。
馬鹿野郎!や、アホ!という言葉が愛の表現の場合もこの世にはある。
昔、兄に「何やってんだ!」という非難、怒りの言葉を浴びた事があるけど、
その言葉をその時、発さなくちゃならなかった兄に、私に対する愛を感じて、
すごく嬉しく思ったことがある。
愛を表現する時、愛を表現されたと受け取った時、愛の表現を見たと受け取った時、
その意識、心がご褒美そのものなんじゃないのか・・
大文字の“GOD”ではなく、小文字の“god”である人間。
(聖書には厳然とその違いが記述されているようで)
ご褒美は小文字のgodである自分の心が、
自分にくれるものなのかと思った今朝の私でありました。
『神さまのご褒美』という言葉。
「生きていればきっといいことがある、
きっといつか神さまがご褒美をくれる」・・・
・・戦後すぐの頃、戦災孤児のヒロシに梅子は言ったのだった。
ヒロシ青年はその言葉で頑張って来た。
「でも、神さまは何もご褒美をくれない。だから、もっともっと頑張らないといけないんです。」
・・そう青年は言う。自暴自棄みたいになってる。
梅子は、もういい、もういいのよ、頑張って来た。立派だった。言いっ放しでごめんなさい、と言って涙をこぼす。
「他に何をしたらいいか思いつかなくて・・・
お母さんのおはぎ美味しいのよ・・・
こんなご褒美じゃダメかな。」梅子は母親に来てもらっておはぎを作ってもらっていた。
それをヒロシ青年と食べる。
こういう梅子の言葉の奥に在るもの、を感じたんだろうと思う、わたし。
涙が勝手に出て来た。
自暴自棄になっていたヒロシに向かってその言葉を発したのは、
梅子に在る愛が表現を求めて、「神さまのご褒美」という言葉になって出て来たんだろうし、
今日も梅子に在る愛が表現を求めて、
「他に何をしたらいいか、思いつかなくて・・・おはぎ・・・」
という言葉になって出て来た、そんなふうに思った。
それにしても、神さまのご褒美ってなんなんだろう?
いわゆる神、GODはご褒美をくれない。そう思う。
お前はこうしたから、これを褒美にやる、こうしなかったら罰をやる、
そんなことはGODは出来ない。
愛が表現される時、そういう表現の一つとして暴力的な言葉遣いというのもある。
馬鹿野郎!や、アホ!という言葉が愛の表現の場合もこの世にはある。
昔、兄に「何やってんだ!」という非難、怒りの言葉を浴びた事があるけど、
その言葉をその時、発さなくちゃならなかった兄に、私に対する愛を感じて、
すごく嬉しく思ったことがある。
愛を表現する時、愛を表現されたと受け取った時、愛の表現を見たと受け取った時、
その意識、心がご褒美そのものなんじゃないのか・・
大文字の“GOD”ではなく、小文字の“god”である人間。
(聖書には厳然とその違いが記述されているようで)
ご褒美は小文字のgodである自分の心が、
自分にくれるものなのかと思った今朝の私でありました。