佐野眞一さんは広津和郎さんの言葉を受けて、こう言っている。
散文精神で書かれる作品は「動詞と名詞だけで書かれる文芸」とも言いかえられる。
形容詞や副詞はほとんど必要ない。
動詞と名詞は時代が変わっても、決して腐らないからなんです。
・・以上。
ノンフィクションに形容詞と副詞は必要ないというのはよくわかる。
散文というのがノンフィクションという作品と
イコールなわけではないのかもしれないけど、
佐野さんがこういうことを引用してるということは、
広津流散文精神がノンフィクションを書くのに役立っている、
ということなのかもしれない。
けど、動詞は腐らないんだろうか・・!?
「走った」という動詞は昔でも現代でも、
人間の身体の動きを表わす動詞だから腐らないと言える。
走った は 走った で、食べた は 食べた だ。
走った は 食べた じゃない。
心を表わす動詞はどうなんだろう・・・
例えば「嫉妬した」「後悔した」「反省した」「蔑んだ」・・
こういう動詞の言葉の意味はその言葉が誕生したときから、変わらないし、
変わらないからこそ使えるわけなんだけど・・・
私は走った Aさんは走った どちらもその事実は見た通りかと思うけど、
私は反省した Aさんは反省した これは微妙だ。
「私は反省した」そう表現することは出来るけれども、
実際にその言葉通りかは正確には私しかわからない。
「Aさんは反省した」これも同じことかと思う。
Aさんは反省しているように見えた、反省しているのかと窺えた、
Aさんでない人はこのようにしか表現できないはず。
すると、ノンフィクションでのこういう動詞の使い方としては、
反省したのではないかと自分には見える、ということになるのかな。
勿論、そう表現できるからにはかなりの観察がなければ出来ないことだとは思う。
でも、そうなると、それはノンフィクションではなくなるんだろうか・・?
いや、やはりノンフィクションか・・?
散文精神で書かれる作品は「動詞と名詞だけで書かれる文芸」とも言いかえられる。
形容詞や副詞はほとんど必要ない。
動詞と名詞は時代が変わっても、決して腐らないからなんです。
・・以上。
ノンフィクションに形容詞と副詞は必要ないというのはよくわかる。
散文というのがノンフィクションという作品と
イコールなわけではないのかもしれないけど、
佐野さんがこういうことを引用してるということは、
広津流散文精神がノンフィクションを書くのに役立っている、
ということなのかもしれない。
けど、動詞は腐らないんだろうか・・!?
「走った」という動詞は昔でも現代でも、
人間の身体の動きを表わす動詞だから腐らないと言える。
走った は 走った で、食べた は 食べた だ。
走った は 食べた じゃない。
心を表わす動詞はどうなんだろう・・・
例えば「嫉妬した」「後悔した」「反省した」「蔑んだ」・・
こういう動詞の言葉の意味はその言葉が誕生したときから、変わらないし、
変わらないからこそ使えるわけなんだけど・・・
私は走った Aさんは走った どちらもその事実は見た通りかと思うけど、
私は反省した Aさんは反省した これは微妙だ。
「私は反省した」そう表現することは出来るけれども、
実際にその言葉通りかは正確には私しかわからない。
「Aさんは反省した」これも同じことかと思う。
Aさんは反省しているように見えた、反省しているのかと窺えた、
Aさんでない人はこのようにしか表現できないはず。
すると、ノンフィクションでのこういう動詞の使い方としては、
反省したのではないかと自分には見える、ということになるのかな。
勿論、そう表現できるからにはかなりの観察がなければ出来ないことだとは思う。
でも、そうなると、それはノンフィクションではなくなるんだろうか・・?
いや、やはりノンフィクションか・・?