仏教のことは殆ど知らないと言ってもいいくらいだけど、
ちょっと知るだけでなかなか興味深いものだと思う。
玄有さんの本で知ったけど、
仏教で「十二因縁」とは人の苦悩が成立して変化する姿を12につなげて言っている、
そのことらしい。
その中に「行」がある。
それは目も耳も心が求めている方向に合った材料を集めていることだという。
表現を変えれば、
私たちがが五感を通して得ている情報は客観的ではなく、
既に「行」に染まっている、という。
つまり客観的に入ってくる情報は存在しないと仏教は言い切っているらしい。
情報は主観的なものだということを云っているんだろう。
「行」の奥にあるものを「無明」というらしい。
それは「アーラヤ識」と云って、膨大な、という意味だということ。
ようするに潜在意識の一つの層のことなんだろう。
これから適当な材料を探して来ることが「行」ということのようだ。
私がよくこのブログで言っていることは、
仏教で言ってることと同じなのかと思った。
情報は五感を通してしか認識出来ないものだし、
見るという五感の一つで言っても、
私を産み育ててくれた人のことを私の目は、
母だというふうにしか見ることが出来ないのも、
そういうことだろうと思う。それは既に客観的とはいえない情報だ。
空から見るみたいに客観的に見れば(ある女の人)だろう。
「六根」というのが既に「行」でそまっている、というふうに仏教では言うらしい。
仏教で「六根清浄」という言葉があるけど、それは・・・
以下ネットから・・・「「六根」とは、
人間が迷いを生ずる原因となる眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官。
六根は人間の認識の根幹である。
それが我欲などの執着にまみれていては、
正しい道(八正道)※を往くことはかなわない。
そのため執着を断ち、魂を清らかな状態にすることを言う。
そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、
味わわない、触れない、感じないために
俗世との接触を絶つことが行なわれた(山ごもりなど)。」
・・・以上引用。
「六根清浄」が山ごもりで実現するなら結構なことだと思うけど、
なかなか難しいんじゃないかと思う。
「不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、
味わわない、触れない、感じないために・・・」
これはガンジーの三猿の話と似ているね~。
でも、「不浄」と見たらそれは既に「行」に染まっている、と云えるんじゃないかな。
やはり、事実はどうなのか、客観に立つとどうなのか、
それが六根清浄への道のような気がする。
哲学的思考も有効なように思う。
(八正道とは・・
釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳のこと)
ちょっと知るだけでなかなか興味深いものだと思う。
玄有さんの本で知ったけど、
仏教で「十二因縁」とは人の苦悩が成立して変化する姿を12につなげて言っている、
そのことらしい。
その中に「行」がある。
それは目も耳も心が求めている方向に合った材料を集めていることだという。
表現を変えれば、
私たちがが五感を通して得ている情報は客観的ではなく、
既に「行」に染まっている、という。
つまり客観的に入ってくる情報は存在しないと仏教は言い切っているらしい。
情報は主観的なものだということを云っているんだろう。
「行」の奥にあるものを「無明」というらしい。
それは「アーラヤ識」と云って、膨大な、という意味だということ。
ようするに潜在意識の一つの層のことなんだろう。
これから適当な材料を探して来ることが「行」ということのようだ。
私がよくこのブログで言っていることは、
仏教で言ってることと同じなのかと思った。
情報は五感を通してしか認識出来ないものだし、
見るという五感の一つで言っても、
私を産み育ててくれた人のことを私の目は、
母だというふうにしか見ることが出来ないのも、
そういうことだろうと思う。それは既に客観的とはいえない情報だ。
空から見るみたいに客観的に見れば(ある女の人)だろう。
「六根」というのが既に「行」でそまっている、というふうに仏教では言うらしい。
仏教で「六根清浄」という言葉があるけど、それは・・・
以下ネットから・・・「「六根」とは、
人間が迷いを生ずる原因となる眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官。
六根は人間の認識の根幹である。
それが我欲などの執着にまみれていては、
正しい道(八正道)※を往くことはかなわない。
そのため執着を断ち、魂を清らかな状態にすることを言う。
そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、
味わわない、触れない、感じないために
俗世との接触を絶つことが行なわれた(山ごもりなど)。」
・・・以上引用。
「六根清浄」が山ごもりで実現するなら結構なことだと思うけど、
なかなか難しいんじゃないかと思う。
「不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、
味わわない、触れない、感じないために・・・」
これはガンジーの三猿の話と似ているね~。
でも、「不浄」と見たらそれは既に「行」に染まっている、と云えるんじゃないかな。
やはり、事実はどうなのか、客観に立つとどうなのか、
それが六根清浄への道のような気がする。
哲学的思考も有効なように思う。
(八正道とは・・
釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳のこと)