そうしないで居ることが出来ない、そうしないと気が済まない、という意識の状態は
不自由と言えば言えるけど、って昨日書いたけど、
ひとは本質的にそういう不自由な点があると思う。
「生命よ 自由であれ」って福岡伸一ハカセの動的平衡の本にサブタイトルだったかな、あったけど、
生命に不自由なところがあるからこそ、そう表現できたんだろう。
本質的に、元々的に、どうしても不自由なところがある。
愛さずにはいられない というアメリカの歌があったけど、それ。
人を傷つけたりすると心が苦しむ。
一生懸命あれはそうするしかなかったんだ、なんて、
そうした行為を正当化させようと頑張って思うけれど、
何故そんなふうになるのかといえば、
本当はそうしたくなかった、というのがあるからだ。
あいつがあんな事しなかったらオレだってしなかった・・って思うのは、
オレがそう行為したことをオレが引き受けられないと心の底ではわかっているから。
ひとに優しくしたことならそういう自分を容易く引き受けられるけど、
ひとを傷つけた自分を自分は引き受けられない。
ひとは元々ひとを傷つけるようになってないからだ。
ひとを傷つけたことを他の誰からも非難されなくても、同じだ。
そんな事に関係なく、心はそうなっている。
「存在自体に幸福になるという本質が具えられている」と昨日書いたけど、
幸福になるには、幸福になってないという状態がその前にあるということだから。
なってない状態からなっている状態になれるわけで。
存在って状態だから、止まってない。
本質っていうと動かないものみたいに思ってしまうけど。
不自由と言えば言えるけど、って昨日書いたけど、
ひとは本質的にそういう不自由な点があると思う。
「生命よ 自由であれ」って福岡伸一ハカセの動的平衡の本にサブタイトルだったかな、あったけど、
生命に不自由なところがあるからこそ、そう表現できたんだろう。
本質的に、元々的に、どうしても不自由なところがある。
愛さずにはいられない というアメリカの歌があったけど、それ。
人を傷つけたりすると心が苦しむ。
一生懸命あれはそうするしかなかったんだ、なんて、
そうした行為を正当化させようと頑張って思うけれど、
何故そんなふうになるのかといえば、
本当はそうしたくなかった、というのがあるからだ。
あいつがあんな事しなかったらオレだってしなかった・・って思うのは、
オレがそう行為したことをオレが引き受けられないと心の底ではわかっているから。
ひとに優しくしたことならそういう自分を容易く引き受けられるけど、
ひとを傷つけた自分を自分は引き受けられない。
ひとは元々ひとを傷つけるようになってないからだ。
ひとを傷つけたことを他の誰からも非難されなくても、同じだ。
そんな事に関係なく、心はそうなっている。
「存在自体に幸福になるという本質が具えられている」と昨日書いたけど、
幸福になるには、幸福になってないという状態がその前にあるということだから。
なってない状態からなっている状態になれるわけで。
存在って状態だから、止まってない。
本質っていうと動かないものみたいに思ってしまうけど。