こういうタイトルの本を読んだ。とてもよかった。
著者は中村 仁一さん。京都大学医学部出身の医師で、病院院長等を経て、
今は老人ホームの付属診療所院長職。
16年くらい前から「自分の死を考える集い」というのをやっているそう。
以下は章から抜粋。
医療が”穏やかな死”を邪魔している。
「出来る限りの手を尽くす」は「出来る限り苦しめる」
食べないから死ぬのではない「死に時」が来たから食べないのだ。
家族の事情で親を生かすな。
・・これ、みんな章のタイトル。
こういう文章もあり、これも凄く印象的だった。以下。
「たしかに、見殺しにするようで辛い。
何もせず見ているだけなんてことは出来ないという気持ちもわからないではありません。
しかし、こちら側の都合だけで、何かをするというのはエゴといっていいと思います。
その行為は誰のため、何のためなのか、
やった結果、どうなるのかを考える必要があります。
本人は嬉しがるか、幸せに感じるか、感謝するか、
あるいは自分だったらしてほしいことなのかなど、吟味してみなくてはなりません。
たしかに私たちは、なにもせずに見守ることに慣れていません。辛いことです。
だからといって、自分がその苦しさや辛さから免れるために、
相手に無用な苦痛を与えてもいいという道理はありません。
そっとしておく思いやりもあるのです。
フランスでは『老人医療の基本は本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、
医療の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です』といわれているそうです。
辛くとも「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが
“家族の愛情”というものでしょう。・・・・
『自然死』はいわゆる“餓死”ですが、その実体は次のようなものです。
飢餓・・・脳内モルヒネ様物資が分泌される
脱水・・・意識レベルが下がる
酸欠状態・・・脳内モルヒネ様物質が分泌される
炭酸ガス貯留・・・麻酔作用あり
・・死に際は、なんらの医療措置も行なわなければ、夢うつつの気持ちのいい、
穏やかな状態になるということです。これが“自然のしくみ”です。
自然はそんなに過酷ではないのです。
(“ ”は私が付けたものです)
私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです。
ところがここ30~40年、死にかけるとすぐに病院に行くようになるなど、
様相が一変しました。
しかし、死を止めたり、治したりすることは出来ません。
治せない「死」に対して治すためのパターン化した医療措置を行ないます。
鼻チューブ、胃ろう、人工呼吸器、点滴、輸血、昇圧剤・・・
これらがせっかく自然が用意してくれている、ぼんやりとして、
不安も恐ろしさも、寂しさも感じない幸せモードの中で死んでいける過程を、
ぶち壊しているのです。」以上引用。
ここのところを読んで青い本のこれを思い出した。
「・・死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします。」という一行。
ようするに青い本に書かれてあるのは、
本来、人間は“こうなっている”のですよ、という人間の実態についての記述なので、
これもそういうことなんだと再確認した感じだ。
同居していた義母の最期はこんなふうだったのかと思う。
本人の意志もあり、延命医療措置はとらないで、この家の自分のベッドで最期を迎えた。
亡くなってから主治医に来てもらった。
死亡診断書に老衰とあった。
その何日か前に診て貰った時、体温とか血圧とか酸素濃度とか測ったけれど、
様子を見て、本人はちっとも苦しくないですからね。
あと数日かと思います、と言っていた。その通りだった。
そしてその検診日もナースはこのままでいいのですね、と確認は忘れなかった。
延命治療しないでと言ってた人も気が変わることもあるから、
後になって、何もしてくれなかったなんてことにならないように、
とのことだったのだろう。
この本を読んで、義母がやっぱり幸せな気持ちで今生を終えたのだと思えて
よかった。
著者は中村 仁一さん。京都大学医学部出身の医師で、病院院長等を経て、
今は老人ホームの付属診療所院長職。
16年くらい前から「自分の死を考える集い」というのをやっているそう。
以下は章から抜粋。
医療が”穏やかな死”を邪魔している。
「出来る限りの手を尽くす」は「出来る限り苦しめる」
食べないから死ぬのではない「死に時」が来たから食べないのだ。
家族の事情で親を生かすな。
・・これ、みんな章のタイトル。
こういう文章もあり、これも凄く印象的だった。以下。
「たしかに、見殺しにするようで辛い。
何もせず見ているだけなんてことは出来ないという気持ちもわからないではありません。
しかし、こちら側の都合だけで、何かをするというのはエゴといっていいと思います。
その行為は誰のため、何のためなのか、
やった結果、どうなるのかを考える必要があります。
本人は嬉しがるか、幸せに感じるか、感謝するか、
あるいは自分だったらしてほしいことなのかなど、吟味してみなくてはなりません。
たしかに私たちは、なにもせずに見守ることに慣れていません。辛いことです。
だからといって、自分がその苦しさや辛さから免れるために、
相手に無用な苦痛を与えてもいいという道理はありません。
そっとしておく思いやりもあるのです。
フランスでは『老人医療の基本は本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、
医療の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です』といわれているそうです。
辛くとも「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが
“家族の愛情”というものでしょう。・・・・
『自然死』はいわゆる“餓死”ですが、その実体は次のようなものです。
飢餓・・・脳内モルヒネ様物資が分泌される
脱水・・・意識レベルが下がる
酸欠状態・・・脳内モルヒネ様物質が分泌される
炭酸ガス貯留・・・麻酔作用あり
・・死に際は、なんらの医療措置も行なわなければ、夢うつつの気持ちのいい、
穏やかな状態になるということです。これが“自然のしくみ”です。
自然はそんなに過酷ではないのです。
(“ ”は私が付けたものです)
私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです。
ところがここ30~40年、死にかけるとすぐに病院に行くようになるなど、
様相が一変しました。
しかし、死を止めたり、治したりすることは出来ません。
治せない「死」に対して治すためのパターン化した医療措置を行ないます。
鼻チューブ、胃ろう、人工呼吸器、点滴、輸血、昇圧剤・・・
これらがせっかく自然が用意してくれている、ぼんやりとして、
不安も恐ろしさも、寂しさも感じない幸せモードの中で死んでいける過程を、
ぶち壊しているのです。」以上引用。
ここのところを読んで青い本のこれを思い出した。
「・・死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします。」という一行。
ようするに青い本に書かれてあるのは、
本来、人間は“こうなっている”のですよ、という人間の実態についての記述なので、
これもそういうことなんだと再確認した感じだ。
同居していた義母の最期はこんなふうだったのかと思う。
本人の意志もあり、延命医療措置はとらないで、この家の自分のベッドで最期を迎えた。
亡くなってから主治医に来てもらった。
死亡診断書に老衰とあった。
その何日か前に診て貰った時、体温とか血圧とか酸素濃度とか測ったけれど、
様子を見て、本人はちっとも苦しくないですからね。
あと数日かと思います、と言っていた。その通りだった。
そしてその検診日もナースはこのままでいいのですね、と確認は忘れなかった。
延命治療しないでと言ってた人も気が変わることもあるから、
後になって、何もしてくれなかったなんてことにならないように、
とのことだったのだろう。
この本を読んで、義母がやっぱり幸せな気持ちで今生を終えたのだと思えて
よかった。