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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

『君自身に還れ』 大峯顕さんの言葉

2015-11-07 14:28:47 | 本を読んで
信心という言葉で、もう受け付けない、読む気にならないという人は多いと思う。

私もそのうちの一人だ。

この本でも神さまという言葉についてもそういうことが書かれてあった。

それはその言葉に溜まっている長年の手垢やほこりの臭いで

いわば、受け付けないというのは人間的な悪い匂いに対しての拒絶反応であって、

その悪臭は神さまの匂いじゃない、というのがあった。

今までの人間が作って来た臭いだ。

だから、神さまやら信心やら宗教やらの言葉が出て来たら、

長年の人間のくさい臭いを払って払って払って読まないといけないと思う。

で、

108ページ・・

「信心というのは『そうだったのか、もう救われていたのか』と気づくことです。

われわれがこれからなにかやるんじゃない、もう済んでいたのかと気づくこと。

今までそれに気付かないでいただけのことで、

気付いたということが、助かったことです。

・・・気付くということには二つある。われわれは絶望だと気付く・・・

普通我々は絶望だということを思っていないわけですよ。

なんとかなるだろうと思って生きている。

ほんとうに絶望だということに気付いたということが、もう救われたということだ。

・・・

109ページ・・

生き物は皆、気づくと仏は言っているわけです。

けれどもその前に、

何が善いことで何が悪いことかも全然わからないという、

そういう自分だということに気付くんですよ。

救われるということに気付くんじゃなくて、救われないということにまず気付く。

そのように救われないということに気付くということが、

救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです。


この本の151ページに・・

「真理に出会うということは、思い込みが全部いらなくなったということだと思いますよ。

浄土真宗は信心を強調するけれど、

少なくとも浄土真宗の親鸞が言っている信心とは

人間のあらゆる思い込みは空しいということ、

思い込みがいらなくなった世界のこと。

それを仏さまからもらった信心と言っているんですね。

それを言うとなんだか非常に擬人的な世界のようになるけど、

要するに、はっと気づいた世界というか。・・・

それを信といっている。」

・・・引用は以上。


こういうことって、本当に不思議なんだけど、

こんなにひどい自分だったのか・・と驚きと共に気づいた時に、ある。

もうどうにでもなれ、と絶望的な気持ちになった時にも、ある。

それは非常な暗さのはずなんだけど明るい。

何の行為も行動もするわけじゃなく、

ただ気付くという経験で起こる。

とてつもない経験、という感じ。

気付くということはどんなこと、物でも、

元々在るものに気付くということだ。

あ、こんな所に探してた鍵があった、昔のノートがあった、という気づきと一緒で。


既にそこにそれは在ったのだ。


気付きが起こるということは

既に救われていた、ということなんだと思う。


救われないということに気付くということが、

救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです・・・

とあったけれど、

浄土真宗というものを知っていても知らなくてもそれは起こる。

浄土真宗が生まれる以前から

全ての人間は救われているということなんだろうと思う。

ただ救われていることを知らない人がいるだけで。







お嬢さまことば速修講座

2015-10-07 16:58:40 | 本を読んで
さっき皮膚科に行って待合室にあった「お嬢様ことばの速習講座」という本を読んだ。

とても面白かった。

文章もお嬢さま向けの言葉遣いで書かれてある。

もう15年も前に出た本みたい。

「ございます」という言い方は元々「ごぜえますだ」から来ていて、

(ホントかなぁ!?)

それは目下の人が目上の人に言う言葉で、

お嬢さまが使うコトバじゃないのだそうだ。

なので、お嬢さまは・・・「存じます」。


そして、なにより重宝する言葉遣いは・・「恐れ入ります」と、

「わたくし」。


「すみません」という言い方は謝りでもなく、お礼でもないので、

使うことはないそうです。


上に書いたように、お礼の言い方も「ありがとうございます」ではなくて、

「ありがとう存じます」か、

ただの「ありがとう」か、

「どうもありがとう」。。


それに、決して「わたし」や「あたし」ではありませんの。

そうそう、このありませんの、の「の」が美しいと存じますわ。

それが『ことのて』という章に載っていて面白く存じましたわ。

「この絵のなんと素晴らしいこと」の 語尾についている『こと』。

「他に何かありますの」の語尾の『の』。

「これでよろしくて」の語尾にある『て』。

こういうものを上手に使うとお嬢さまの香りぷんぷんでありますの。


それとなにより、ゆっくりとしゃべること。


この本を読んでいる間中、朝の連ドラ、いいえ連続ドラマの花子とアンに

出演されていた柳沢白蓮役の仲間由紀恵さまのお顔が浮かんで来て

しかたありませんでしたの、わたくし。

 
言葉というのは不思議なものでございます。

荒くれ男にこういうものの言いようをすると、

あっという間に大人しくなってしまうものですわ・・・


宇宙の相互作用と同じかと存じますことよ。

保ち合いの理とも言うのでしょうか。


影響されやすいわたくしのこと、なんだか途中から速修の効果?が・・・


けれど、元が元ですので、まだまだ練習が必要かと存じております・・・

ではまた後程 ごきげんよう・・・



村上春樹さんとハルキスト

2015-06-19 13:36:56 | 本を読んで
風邪をひいていると読書が進む。特に小説が風邪に合う。

いや、わけのわからない難しい本もいいかもしれない。

この前夫が読んでた村上春樹さんの初期の作品を読んでる。

『ノルウェイの森』だ。

名前は有名だから知ってたけど今までなんだか読もうという気にならなかった。

まだもう少し残ってるけど、上手いなぁと思う。

読ませる。


ハルキストという人たちが

カフェでノーベル賞受賞の知らせを待っているのをテレビで見たことがある。

ハルキスト・・ねぇ・・

私は決してハルキストじゃないから思うのかもしれないけど、

あのテレビのシーンを見たとき、恥ずかしくないのかなぁ・・なんて思ってしまった。

いや、それぞれの受賞候補の関係者がとある場所に集まって

知らせを待つ、ということがよくあることなのかもしれないけど、

ハルキストといわれる人たちが集まっていた場面は何か異様な感じがしたんだよ。

村上春樹さんがそれを見たらなんと思うだろ。

嬉しく思うということはない気がする。

なにかな・・・なんでそう思ったんだろ・・・

自分たちは他の人たちと違う、特別な選ばれたものなのだ・・みたいな、

変な優越感みたいなものが臭ってしまった。

そんなふうに感じた私が本当は臭ってるんだろうか、そんな気もするぞ。


介護百人一首 

2015-04-29 13:58:39 | 本を読んで

「あのころの君の笑顔を見たいからひょっとこも踊るピエロにもなる」

「笑えない母を何とか今日こそはどじょうすくいを毎晩おどる」

「脳トレに交換日記始めた日夫の誤字見て涙がにじむ」


NHKハートプロジェクトという奴の介護百人一首というのを夫が頼んで

小さな冊子が届いた。

介護にまつわる句が並んでいる。

読んだその晩は何故か、涙が出て止まらなかった。

今は、読んでも涙は出ない。面白いもんだ、私の心。

上に記したのは涙が出た奴じゃないけど、

私をこの世に発生させてくれた母とのことを思い出した句。

重い脳梗塞で倒れ、そのまま寝たきりの7年を過ごし一昨年亡くなった母。

脳梗塞による失語症、半身まひ、感情失禁、視野狭窄…

他にも20位病名があったみたいだった母。

喋れず、動けず、口から食べれず・・・

そんな母に私もよく踊った。母の所に行く度に踊った。

私の得意なでたらめ踊り。

すると母は笑った。なに、馬鹿なことしてるの・・みたいな笑いの表情を見せて。

何か表現してほしかったんだろうな、わたし。

母の思いを感じたかったんだろうな。

なんでもいいから。


上に引用したもう一つの句は夫が元気だった頃は

字が上手で誤字なんか書かなかったのに、

こんな字に、こんな文を書くようになってしまって・・・

という説明みたいなのがあった奴。

私がまだ東京に住んでた母の最期から数年前のこと、

退屈そうな母に何かしてほしくて娘二人の洋服作りを頼んだことがあった。

そのために私の家にミシンを買い、布を買い、デザインブックを買った。

出来上がったワンピースを見て驚いた。

人から料金をもらって洋裁をしてた母が作ったものだとはとても思えなかった。

母がそんなに衰えていたのかと愕然とした。

せつなくなった。

それでも娘たちは喜んでいたけれど。

でも当時の母は服を作ることが喜びでもなかったようで、

私は深く反省したのだった。

余計な事ばかりしてたな・・・と今では思うよ。















ストレスの誘因・・・仲のいい夫婦は・・・

2015-03-29 11:00:47 | 本を読んで
この前読んだ本からの抜粋・・・・

・・・トーマス・ホームズ、リチャード・ラーヘ両博士は

発病の可能性を見るために、

ストレスの誘因となる43の項目を表にしてその物差しとした。

配偶者の死後1,2年以内にガン、その他の重い病気にかかりやすい。

伴侶を失った悲しみは免疫力を一年以上の間弱めることが明らかになった。

別の研究でコントロールできないストレスは、

その日のうちに病気と闘うT細胞の力を弱めることがわかった。・・・

・・・以上。


仲のいい夫婦の死期は近い、というのを聞いたことがあるけど、

こういうことなのかと思ったよ。

私の母は父の死後32年間生きた。

その事実は何を物語るか!?

そう、その通り母の場合、伴侶を失った悲しみ・・ではなく、

伴侶を失った喜び・・だったからだと思う。

父の死後、母の免疫力はぐんと高くなったんじゃないかしらん。


父はいろいろと問題を起こす人だったので、

その父が亡くなって、母は本当にせいせいしたんだろうと思う。

そんなことを言っていた。

父の葬儀の際、ある時母が泣いているのを見て、

あんな父だったけど、母も泣くんだなと思って、後でそう言ったら、

即座に「もらい泣きしちゃったよ」と言ってた。

悔やみを言ってくれた人が泣いてたもんだから・・・って。

そう言った母の様子を見て、その言葉に嘘はなかった気がした私だ。

父がちょっとかわいそうだけど、母がそう思ってしまったのも本当に無理はないと思っている。

そんな夫婦なら離婚してしまえばいいのにと若い頃は思ったこともあるけれど、

大正生まれの母はそういう選択肢を選ばなかった。

いいとか悪いとかそんなことは一切言えないし、ない。

夫婦という人間関係は人間関係の中で一番密度の高い関係かなと思う。

全ての人間関係はひとを成長させるためにあるのかと思っている私だけど、

配偶者の言動が自分にとってあまりにハードルが高い(受け容れられないことが多い)と、

生きる気力もしなびてしまう。

ハードルの選手もいきなり高いのを飛ぶ練習をするわけじゃないだろう。

今の自分の能力よりちょっと高いハードルから始めるんじゃないかと思う。

私も前の夫は当時の私にとって、本当に高いハードルだったなぁ。

そのハードルを越えようとホント頑張ったなぁ・・

その頑張りが無駄だったとは全然思わないし、

今の自分に繋がっていると確かに思うけれど、

別れたその晩、帰って来て、明かりが付いていない(夫が居ない)のを見たとき、

解放感で胸ははちきれんばかりだったことを思い出す。


そんな解放感が人生に一度もない方がいいに決まっているんだろうけど、

今の夫がもしも、私より先に亡くなるようなことがあったら、

解放感なんか絶対ないと思う。

免疫力も下がってしまう気もする。

多くの幸せを与える人は多くの悲しみも与える。


多くの人にすごく嫌われている人間は最後に多くの人に大きな喜びを与えられる。

何故ならその人は居なくなること(死ぬこと)が出来るから。

こういう話も何かの本で読んだことがあるよ。

ガンとストレス ストレスと人生

2015-03-19 17:21:40 | 本を読んで
同じ「神秘」という小説なんだけど、

これ何か月か前の毎日新聞の書評に載っていて、

どうして読みたいと思ったのかすっかり忘れてしまったのだけど、

この前やっと読み始め、読み終えた。

この小説の主人公は膵臓がんの末期とある日突然言われて・・・

そこから始まる。

結末は書かないね。

主人公が興味深く読んだ本として出てたのが「奇跡的治療とは何か」。

・・・ストレス学説の提唱者である科学者のハンス・セリエは

網状細胞肉腫というガンに罹って、余命何年とか言われた・・・

一年を泣き暮らすか、そうではないか、

人生最大の闘争のチャンスをガンは与えてくれたと彼は思った。

泣き暮らさないことを決めると不思議なことが起こった。

三年経ってハンスはラッキーな例外になっていたという。

ストレスとガンの関係はかなり複雑で、

ガンは肉体が自分自身の肉体を拒否する病気だと説明する人もいるようで、

ハンスはその前提をさらに一歩進めて、

人間が基本的な要求をひどく拒否するとき

ガンになる可能性がより高いと言えないだろうか?と考えた。

言葉を換えると、

“人間が自分自身の要求をはねつけると身体が身体に反抗する”

と言えないだろうか?と彼は言っている。

自分自身の要求をはねつけるって、自分が在りのままでいることをしないで、

無理しちゃうことなんだろうなと思う。

さっき書いた、否定的に評価するとストレスになる、って奴。

あれ?恐いと思って狭い所を通ること自体ストレスになるんだろうか??

いや、やっぱりどんな肉体的に辛いことでも、

それをしたくてしてればストレスにはならないんじゃないか・・な。


こういう記述もあった・・・肉体的疾病の非常に多くが、程度の差こそあれ、

もとをただせば心身相関に源を発するということだ。

・・・そうなんだろうなと私も思ってる。

日本には病は気からという言葉があるけど、

同じことだと思ったよ。

心身相関というので分かりやすい例として

梅干しを見ただけで唾が出ることがその証拠だと

海原純子ドクターが新聞に書いてた。

梅干しが身体に物理的に入らないのに身体に作用してしまうんだもんね。

梅干しだ、って心で思うだけなのにね。

若いかっこいい男が担任のクラスでは、

女の子は月経になる時期が早いとかいうデータもあるとかいうのも読んだ記憶があるよ。





「和」のウォーキング」 能楽師 安田登さんの

2014-11-24 13:44:55 | 本を読んで
いま、読んでる本、『体と心がラクになる 「和」のウォーキング』

サブで“ゆっくり歩き”で全身協調性と深層筋が目覚める、とあった。

著者は 下掛宝生流 能楽師 の 安田 登さんというひと。

能楽師というものがどういうものなのか無知な私は何も知らない。

友人に誘われて15年位前に、薪能というのを一度見に行ったことがあって、

いいなぁ、と思ったけど、どんなことがいいと思ったのかも忘れてしまった。

雅楽もいいなぁと思ったなぁ。


その本の1章までしか読んでないんだけど、

たったったと大股で歩かない、ゆっくり歩く、

肩甲骨、肩関節、筋肉をゆるめる、

すり足で歩く、ゆっくり歩けば大腰筋が目覚める、

楽しみながら歩く、・・・

ゆっくりその歩き方で歩けば一日八時間だって歩ける、・・・

それを読んだら、なぁ~んだ、ゆっくり歩けば八時間だって歩けるんだ♪

とすぐに思ってしまった。

いつもたったったったと大股で歩いているウォーキングを変えてみようかと思った。

全く私はすぐその気になる、なぁ。

それともう一つの発見、私は、歩くとき頑張っていたなと気づいた。

朝、雨が降っていると、今日は歩かないで済む、

なんていう思いが浮かんでいたのは頑張っていた証拠だ。

筋肉を落とさないため、元気でいられるため、みたいな目的に縛られていたような気がした。

昨夜、布団の中でその本を閉じたら、今日歩くことを楽しみにしてた自分だったよ。




「街場の共同体論」内田樹さん

2014-09-11 14:18:19 | 本を読んで
本を読んで面白いと思うのは、知らなかった考えにあたって、

なるほどなるほど・・そうだよね、うんそうそう・・ってなることと、

今まで自分なりにこういうことかなって思ってたことが

別の表現で書かれていることなんかだ。

この本を読んだ。特に面白かったのは

「コミュニケーション能力とは何か」という章と、

「弟子という生き方」の章だった。

『コミュニケーション失調からの回復の一番基本的な方法は、

いったん口をつぐむこと、

いったん自分の立場を「かっこにいれる」ことです。

コミュニケーションの失調を回復するためには、自分の立場を離れて、

身を乗り出すほかにありません』

ほんとうにそうだよね~

この著者の本はなるほどなるほどってよく思う。

数学的思考をするから面白い。

弟子という生き方・・・以下引用です。

『師に就いてものを習うとき、弟子は自分がこれから何を学ぶことになるのか、

修業を始める時点では知らないのだ。

弟子のわずかな知見や経験の範囲には、

とても収まりきらないようなスケールの知識や技術を学ぶわけですから、

それが何であり、どういう意味を持ち、どのように活用されるかものであるかを、

稽古開始時点で見通せるはずがない。

自分はこれから「自分の手持ちの物差し」では

その価値が考慮できないような種類のことを学ぶのだ、ということです。

自分がこれから学ぶことの価値をはかる「物差し」は、

修業を通じてこれから自分で手作りしてゆかなければならない。

だから今はわからない。わからなくて当然である。

今はわからなくてもよい。

師弟関係というのは、双方向的というより、

師の叡智、師の技量に対する〈帰依〉がないと成立しない。

師の一挙手一投足、片言隻句すべてが

叡智に満ち満ちていると信じている弟子からすれば、

先生が何をしても、それこそくしゃみをしても、あくびをしても、

「先生はそうすることによって何を伝えようとしているのだろう」と

我が身に引きつけて、食い入るように見つめて、

無限の解釈運動を開始してしまう。

「師の一挙手一投足、片言隻句すべてが叡智に満ち満ちている」

という信憑がいったん成立してしまえば、

もうあとは学びの運動はエンドレスなんです。

「あなたはそう言うことによって、何を言おうとしているのか?」というのは、

ジャック・ラカンが「子供の問い」と名付けたものですけれど、

弟子の問いでもあるのです。

この問いは、師がどう答えても、終わらない。

仮に師が「私が言おうとしたのは、コレコレこういうことである」

と正直に答えたとしても、その時には

「どうして先生は、あんなに正直に答えを教えてしまったのだろう。

先生はそうすることによって私に何を伝えようとしたのか…?」

という次なる問いが生れてくる。そういうものなんです。

師が答えを隠せば、弟子は「なぜ答えを隠すか」を問い、

師が答えを明かせば、弟子は「なぜ答えを明かすか」を問う。

弟子とは師が何をしても、そのすべてを

自分に向けられた「問い」として、「暗示」として、

「叡智へのヒント」として受け止めてしまう、そういうポジションのことなんです。

ですから、いったん弟子のポジションを取ったものは、

無限の解釈運動に巻き込まれてしまう。

弟子になったものは、自学自習のサイクルに入り込んでしまう。

学ぶというのは、なんらかの実定的な知識や技術や情報を教わることではなく、

「学ぶ仕方を学ぶ」ということなんです。

師を持つ弟子のポジションというのは大きなメリットがある。

それは、自分を守る必要がない、ということです。

自分の今の手持ちの知的なフレームワークや、

今の自分が使える技などは、いつ捨てても平気なんです。先生がいるから。

「お前のその知識や技術は使い物にならない」と

誰かに言われても、全然気にならない。

だってまさに自分の手持ちの知識や技術が使い物にならないからこそ、

師に就いて学んでいるわけで、

「そんなこと、先刻ご承知だい」ということです。

あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいものを知らないか、

技が使えないか、誰よりも自分が知っていますよ。

だから師匠に就いて学んでいるじゃないか」という話です。

弟子はいくらでも間違えることが出来る。

いくらでも失敗することが出来る。

この広々とした「負けしろ」が弟子というポジションの最大の贈り物です。

今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。

この開放性が弟子であることの最大のメリットだと思います。』


・・・ね、面白いでしょう。

奇跡のりんごの木村さん

2014-07-18 10:07:00 | 本を読んで
『奇跡のりんご』を読み終えた。久しぶりに一気に読んだ本だった。

もう何年も前に出版された本だけど、

NHKのドキュメントみたいなのでも取り上げられたそうだし、

この話は多くの人に知られたんだろうと思う


本の中で特に印象に残ったのは、

彼は奥さんが農薬で体調を崩したことがきっかけで、

無農薬、無肥料でりんごを栽培しようと思ってやり始めたんだけど、

虫や病気を殺してくれる農薬に代わる何かを探していただけだった、と気づくところ。

堆肥を入れ、草取りをし、りんごの木を周囲の自然から切り離して栽培しようとしていた・・


りんごの木の命とは何かということを考えなかった・・・


それは農薬を使っていたのと同じことだと気づいた・・

病気や虫のせいでりんごの木が弱ってしまったとばかり思っていた・・

それさえ排除できればりんごは健康を取り戻す、と思っていた・・

そうではない、虫や病気は結果なのだ・・

自然の中には益虫も害虫もいない・・

自然が織る生態系という織物とりんごの木の命を調和させることが

自分の仕事なのだ・・

病気だけをなんとかしようとしていたんだな・・

病気も自然の一部なのだ・・

9年目にりんごの花を咲かせたのは私じゃない、りんごの木だ・・・


・・・これ全部、彼木村秋則さんの気づきだ。

一生懸命一生懸命頑張ってやってきたことの方向が間違っていたと気づいた時の嬉しさったらない。

一生懸命やってきたからこそだ。

こうして自分のしてきた間違いに気づくこと位嬉しいものはない。

人は気づくこと以外で基のところが変わることはないな。

「百万人のエジソンを・・千万人のシャカ、キリスト、カント、マルクスに優る人を」

2014-07-16 15:38:29 | 本を読んで
青い本の知的革命私案のところで、山岸さんはこう表現している。

「百万人のエジソンを・・・

そして行を改めて小さな活字で

―――千万人のシャカ、キリスト、カント、マルクスに優る人をーーーー」


エジソンについては百万人でいいらしいし、“優る人を”が付いていない。

それ以外の人には“優る人を”が付いて、そういう人が千万人要るようだ。

当時の世界人口は30億人くらいだから、

千万人は総人口の0、33%だ。

1000人のうち3、3人がそうなったら世界はあっという間に変わるということだろうと思う。


一字一句を読み取って欲しいと言ったらしい彼の、

ここでの真意はどういうことなんだろう???

シャカやカント、キリスト、マルクスはいわば思想家だ。

エジソンは思想家とは言わない。

エジソンは自分の頭に浮かんだアイディアを形に表わした。

物理的アイディアを形に表わすのは百万人も要れば御の字で、

今の時代、エジソンのような物理的アイディアを考え付く人はもう百万人くらい居るのかもしれない。


思想家は千万人も居ないと幸福革命は成就しないということになるのか。

それも、そういう思想家に優る人・・と云ったのは、

それらの人が表わした書物や、口伝えとしてある言葉が

あまり一般的とはいえない難解なものだったからじゃないか・・・

誰でもがすぐわかるという感じじゃないと思う。

結構わかりやすく、多くの人が到達できる方法が、

彼が云った研鑚方式で、

それによって人口の0,33%位はシャカやキリストなんかに優る人になれる、と

彼は確信していたんじゃないかなぁと思う。



『残酷人生論』

2014-07-05 10:38:53 | 本を読んで
池田晶子さんの「残酷人生論」をまたまた読みなおした。

えらく威勢がいい文章だなぁとまた思ったけど、それが彼女。

いろんなことがストンストンと入ってくる。

彼女の短気さについての彼女の見解について

なんやらあれこれ思った私だったけど、そういう自分を経て、

あれこれ思わない今の自分がある。

それがいい事でも悪い事でもないのはもちろんだけど。

最後の方の「宇宙を絶対受容する」が特に今回入ってきた。以下。

・・・このように感じているこの状態こそ、

おそらく「最終的な」幸福と呼ばれる状態であろうと、私には予想される。

苦しみも喜びもまた努力も、

そのように認められているというそのことにおいて、

じつはいまだに不自由なのである。

「なんでもアリ」ということは、なんでもあり、

なにがどうであろうと構いやしない絶対自由なのだから、

苦しみは別に喜びではなく、喜びがとくに喜びというわけでもない。

善くなるための努力とて、とりたてて努力というほどのことでもないであろう。

幸福とは、要するに、なんでもいのである。

あれ、振出しに戻ってしまった。

けれども、振出しに戻っても、これだけは違うのは、

「なんでもいい」と思っているというまさにこのことであって、

絶対自由とは、別名、絶対受容ということになる。

何がどうであろうと宇宙がそのようであるということを受容しているその状態の幸福は、

宗教的には、「至福」と呼ばれているようである。

禅仏教のクソ坊主は、「大悟」などとヌカして舌を出している。

したがって、大悟して振出しに戻ったそのような人は、

とくに何をも為さないだろう。才能の人は才能を発揮し、

凡庸の人は凡庸を為し、

各々自分の職分と持分において為すべきことを為し、

とくに何を為すということではないだろう。

・・以上。

その通りなのかと思う。

釈迦も山岸さんもこういう状態、こういうスタンス、

こういう境地、こういう立ち位置に在ったからこそ、

自分から何かをしようとはしなかった。

だけど、何かをしようという顕在意識を働かせることのない状態、いわゆる、

常に在るがままで在れたんだろうか・・・

何かをしようとしない、まさにそのことが全人が幸福になるキッカケになる。

そのことが論理的にわかることとそれを実践できるかは別の事。

山岸さんの「自分では行えてありませんが・・」という文章からもそれがわかる。

幅る辱しさを知る。補佐の役。それが身に付くようになるには体験に基づいた実践が要る。

体験しやすい環境ってあるんだろうか・・・

それは一人一人全く違うだろうと思う。

唯一であるその人その人の人生なんだろうと思う。

それぞれの人にとって一番相応しい環境が今ここで営まれているそれぞれの人生なのかと思う。

人生には上に書いたような状態になるために必要なことがちゃんと起こる。

コレコレこういう人生でなきゃ出来ないなんてことはない。



『永訣の朝』

2014-07-04 16:15:52 | 本を読んで
宮沢賢治の詩集を借りてきてよんだ。

「永訣の朝」という詩…彼の妹さんのトシさんとの別れの日に作ったものらしい。


きょうのうちに

とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ

みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

うすあかく・・・


・・・最初の5行です。

なんだろう・・詩集を最初から声に出して読んでいたんだけど、

この詩を読みだしたら急に嗚咽みたいに泣いてしまった。

思ってもみないこういうことに自分でびっくりする。

声を出して読んでいる私に宮沢賢治の魂みたいなのが来ちゃったんだろうか・・と後になって思った。

そして、こんなことを思う私なんだとそれにもびっくりした。


嗚咽しながらずっとよんでるとき、

自分の弟を何故か思う自分になってしまった。

(こうなるともう宮沢賢治の魂は居なくなってるね。)

弟は生きている。

ついこの前、母の一周忌で会った。

それなのにそんなことを思う私なんだと思った。


声を出して読むというのは黙読と違って何かあるのかもしれない。

いつの頃の昔か、忘れたけど、

日本では 本を読む=音読 だったということが書かれた本を読んだことがある。





奇跡のりんごスープ物語

2014-07-01 10:25:15 | 本を読んで
う~ん、久しぶりのカテゴリー『本を読んで』だなぁ。

これは「奇跡のりんご」という本で有名な木村秋則さんがらみのお話だった。

とてもよかった。

なんとも素朴な感想だけど、その通り。

「奇跡のりんご」は読みたいなぁ・・と何年も前から思ったことがあるのに、

本屋に行ったり、図書館に行ったりしたその瞬間は

それを思い出さないという有り様で、

今日に至ってしまったもの。

何故だかそういう巡り合わせだった。

この本には奇跡のりんごの木村さんが宇宙人に出会ったり、

この本の著者の山崎隆さんと前世で縁があったとか、

とても素直にそういうことも書かれてあった。

木村さんという人がとても素直なんだ。

勿論情熱的!でもあるけれど。

何もしない農法、農薬なし肥料なしでやろうとして始めたりんご栽培が

やり始めて8年もの間・・・

以下、本文から・・・

「りんごは実らず、収入はゼロ。

サラ金から借金をし、夜はパチンコ、キャバレーで働く。

6年目、自殺を決意。向かった岩木山中で気づく。

その栽培方法とは、


『育てず、手助けするだけ』


畑を自然の状態に近づけ、りんご本来の生命力を引き出す。

そこには人と自然の対話がある。

・・引用以上。


『育てず、手助けするだけ』・・・この言葉の深さ。

りんごも生命。人も生命。地球も生命。


最後の章に「メールにお答えして」というのがあり、そこに、

・・そして、宇宙人の意図するところは、地球をリセットすることだと結論しました。

現代の科学は、めまぐるしく発展を続けています。

しかし、宇宙人の目には、人間がしてはいけないことを

自ら解明している過程と映るのではないでしょうか・・・

という文章がある。

“人間がしてはいけないことを自ら解明してる過程”・・

一番してはいけないこと、それが育てようとして、手助けすることなのではないかと思った。

山岸さんの云う、『幅る辱しさに気付いて、他に譲りたくなる、

独占に耐えられない人間になり合うことだと決定しています。』

これを思い出す。


それとこれだ・・・

「具現方式は何にでも」だ。










「いかなる思想も哲学も捨てる」・・経集837 

2014-04-15 15:36:15 | 本を読んで
「君よ、私には「私の考えは○○である」という思想などありはしない。

いかなる思想にこだわり(執着)を持ったとしても、

執着からは苦しみが生じるから。

あらゆる考えとあらゆる思想には、心を乱す性質があると気づいて、

私はいかなる考えをも、つかまない。

私は、哲学や思想を捨てて、坐禅瞑想し、

内面の安らぎを見出したのだから。」

・・・「これも超訳ブッダの言葉」の中からです。

これはこの本の大きな章の『悟る』というもののなかにあった。

タイトルにある、“捨てる”ということが出来るには、

その前に持っていなければならない。

持っていなければ、捨てるということは出来ない。

釈迦はいろんな思想、哲学をたくさん勉強・研究したのだろうと思う。

釈迦が生まれる前からインドには

古代哲学がすでに存在してたんだと思うし。


持ってない状態(子供の頃とか研究以前)だった時を経てから、

勉強研究して、知った考えに共鳴したり、反論が生れたり、の状態になり、

共鳴した考えや研究結果を、

これが正しいとそれに執着し(持ってしまい)、

その考えとは異なる考えに面した時にその考えを受け容れられず、

心が苦しむというような経験を

釈迦もいっぱいしたのだろうと思う。

そういう経験を経て、世界中の幸福、人間の幸福を願っていた釈迦は

執着していた自分に気づき、

この経集にあるような思いに至ったのかと思う。

ブッダとなった釈迦のこの境地は彼に接する多くの人たちを癒したと思う。

そのまんま、在りのままでいいんだと

釈迦はどんな人もまずは受け容れたと思う。

どんな考えの人だろうとブッダは受け容れたと思う。

その後で執着のない境地から、伝えたいことを伝えたのかと思う。

世界が再び不幸になることのない、幸福になるように。

人間が再び不幸になることのない、幸福になるように。

人間の行為行動が根本的に変わるのは境地が変わる事によって。

そしてそれはブッダが云うように「内面の安らぎ」を見出すこと。

山岸さんが「百万人のエジソンを、

千万人の釈迦、キリスト、カント、マルクスに優る人を」

という言葉を残している。

釈迦やキリストはエジソンの10倍の数ということも興味深いね。

その章に、『何を置いても、この人間の本質改良に出発せざるを得ないでしょう。』

というのもある。

何を置いても・・・という表現は何を云っているのか・・・

・・・何を置いても、か。

人間の本質改良に成功した釈迦は瞑想坐禅という方法によって・・・らしい。

山岸さんはそれ以外の方法で、

内面の安らぎ(無所有の境地)になる道を探し、みつけた。


「自業自得」 (法句経165)

2014-04-10 13:46:17 | 本を読んで
『「自分」というバケモノは、自分自身が心の中で思い描いた、

欲望・怒り・迷いの思考によって、少しずつけがされてゆく。

「自分」というバケモノは、心の中で

欲望・怒り・迷いの思考を思い描かないことによって、少しずつきれいになってゆく。

こうやってけがれるのもきれいになるのも、すべては各自、一人ひとりの自業自得。

他人が他人の心をきれいにするなどできやしないのだから、

よけいな口出しはしないこと。』

・・・これも同じくブッダの言葉の超訳。

おっ、バケモノと来たね。そう、バケモノかもしれないね。

自業自得という言葉はよく聞く。けど、

こんなふうなニュアンスではないように使われているように思う。


欲望、怒り、迷いは仏教で三毒といわれるものらしい。

“欲望”というのは何も途方もない愚かしい欲望に限らず、

子供が元気に怪我も病気もせず育ってほしいだとか、

家内安全とか、美しくなりたいとか、平和な世の中にしたいとか、

人の役に立ちたいとか、そういったものも含むようだ。

まぁ、そういう欲望がなかったら、苦しみなんかはないだろうし。

子供は元気に育ちたいとか欲望してないけど、

そんなこと自分でいちいち思わなくても、元気に育ってしまう。

赤ちゃんは元気に育ちたい、なんてないから悩まない、苦しまない。

そういうことではあるけれど、

おとなは子供のように行かない。

親は子供のことを幸せであるようにと思ってしまう。

親という存在自体にその欲望は備わっている。

そういうものかと思う。

で、そのような欲望は元々あるものだけど、

その欲望すらその瞬間、捨てる。手放す。どこかに置いておく。

預かっているものなので、所有しない。

そういうことを云ってるのかなと思った。


『こうやってけがれるのもきれいになるのも、すべては各自、一人ひとりの自業自得。

他人が他人の心をきれいにするなどできやしないのだから、

よけいな口出しはしないこと。』

本当にそうだなと思う。

それなのについついやってしまう、余計な口出し。

この人の心をきれいにするためにこう言いましょう、なんて

意識して言う人はかなり少ないと思う。

そんなこと意識したことない。思ったことない。

けど、こういう余計な口出し、ついついやってしまう。

だからブッダの言葉を読んでも聞いても、自分にはあてはまらない、となっている。

そうしていること自体に自覚がないから。

そんなことしてるつもりがないから。