歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

トリニティ・クワイヤのハイドン速報

2008年03月12日 | 音楽について
■現地時間で3月11日夜、日本時間で12日午前、トリニティ・クワイヤのコンサート。以前から継続的にとりあげているハイドンのミサのシリーズ。今回は『テレジア・ミサ』と『天地創造ミサ』。ハイドンのことはよく知りませんし、ましてやまだ最初の10分くらいしか聴けていないので、いつにもましてえらそうなことは書けません。指揮はJane Glover、ソリストは、最初の曲ではNacole Palmer、Kirsten Sollek-Avella、Daniel Mutlu、Andrew Nolenの4人が、最初から合唱団の前に出て歌っています。ゾレク-アベラもアンドルー・ノレンも、トリニティ・クワイヤで見るのは久しぶり。ジェーン・グラバーって人は名前だけは何度か見た憶えがありますが、はじめて聴きました。ASVにモーツァルトやハイドンを中心に録音している人のようです。ってことで今回は情報のみ。しばらくは落ち着いて聴けないかもです。

なぜアメフト部ばかりが胴上げするのか

2008年03月10日 | メモいろいろ
■大学の合格発表で合格した男の子が胴上げされている写真が、新聞記事によく添えられていますけど、あれって胴上げしてるほうはほとんどアメフト部ですよね。なんでですかね。

■手近でちょちょいと検索してみたんですが、神戸新聞(神戸大学)でも中日新聞(名古屋大学)でもアメフトの学生が写ってますよ。ただし神大ではめづらしく女の子を胴上げし、名大の記事ではキャプションには「アメフット部」とあって、写真を見るとこれまためづらしく試合用のユニフォームではなく揃いのジャンパーで胴上げしてますけどね。

■合格発表の胴上げはアメフト部の担当、みたいな全国的な不文律でもあるんでしょうか。あるいは胴上げ自体はラグビー部も柔道部もやってるけど、写真に載せるのはアメフト部にしようや、なんて、新聞協会?の取決めでもあるのかしらん。まさか。

PCA『15-16世紀のイギリスの歌』

2008年03月09日 | CD ルネサンス-イギリス
Altenglische Lieder
Liebe, Lust, und Frömmigkeit - Englische Songs zwischen 1410 und 1530
Early Music Consort of London
Pro Cantione Antiqua
Bruno Turner
CC33-3831

1974年録音。44分44秒。EMI-deutsche harmonia mundi。国内盤タイトルは「15-16世紀のイギリスの歌─ヘンリー5-8世時代の宮廷娯楽音楽─」。まあなんとも男っぽく、酒くさく、いい調子で聴かせてくれます。わたしはこの雰囲気好きですねえ。マンロウが参加。マンロウはプロ・カンツィオーネ・アンティカとも仕事をしていたんですね。ここでのプロカンは、James Bowman、Keith Davis、Paul Esswood、John Elwes、James Griffett、James Lewington、Brian Etheridge、Michael George、David Thomasの9人の歌い手がクレジット。

威勢のよい'Deo gracias Anglia'からはじまって、コーニッシュが3曲、作曲者不詳の曲もたくさんあって、最後はヘンリー8世の'Pastime with good company'で締めています。アンサンブルの妙味とかではなく、プロカンのメンバーたちの美声とノリのよさを楽しむアルバム。

プロ・カンツィオーネ・アンティカのCDとしては、これと、ハイペリオンから出ていたラッススの2枚組をよく聴きます。キングズ・シンガーズやヒリヤード・アンサンブルと比べると、プロカンのはいつもなんとなく素人っぽさがただよいます。いやもちろん素人なんかぢゃないんですよ。それこそプロなんですけどね。真っ正面から攻めていく。持って回った聴かせ方をいっさいしないグループなんですな。

わたしはプロ・カンツィオーネ・アンティカが古楽の旗手として活躍していたころをリアルタイムでは知らないんですよ。(わたしが古楽を聴くようになったのはヒリヤード・アンサンブルが国内盤で出だした時期です。)今となっては、プロカンのCDって、ものによっては聴くに堪えなくなってしまったものも多いのではないかと思います。とくにアルヒーフへの宗教曲のシリーズなんか、わたしはたしか3枚ほど聴きましたが、もうまったくダメだと思いましたね。プロカンのCDは安くで手にはいることが多いけれど、慎重に品定めをしなければなりません。

番号からも分かるように、これはCD一枚がまだ3300円していたころに買った国内盤です。むかしはEMIからdhmレーベルが出てたんですね。録音時間もむかしの録音らしく短めですが、この手の曲をそう長々と聴いていても飽きるでしょう。ちょうどいいくらいの時間です。

お局さまの名前

2008年03月08日 | 気になることば
■大奥だとか身分のある家に仕える奥女中の、名前というのか呼び名というのか、幾島とか滝山とかそういうのね、あれには昔から興味がありました。あれは、その人のもともとの名字ぢゃない場合が多いようですね。徳川家綱の乳母の矢島はもともと矢島さんの奥さんだったようですが、幕末の幾島もそれから滝山も、もちろん夫の名字でもなければ生家の名字でもないそうで、あの手のもっともらしい呼び名は後からつけるそうですね。今のところNHKの『篤姫』には、今和泉島津家の菊本、島津本家の広川、高山、それから近衛家から出向してきた幾島が出てきてますけど、「菊本」っていうのは多少もっともらしく、「広川」「高山」はややもっともらしく、それから「幾島」になるとこれはかなりもっともらしく、仕えている家柄に準じた感じがするのは不思議ですねえ。あのもっともらしさはどこから来るんでしょうか。そういえば講談社学術文庫の『女官通解』に、宮中に仕える女官の呼び名については、なんか書いてあったような気がしますわ。

マルゴワール『ヘンデル/リナルド』

2008年03月07日 | CD ヘンデル
Handel
Rinaldo
Cotrubas, Watkinson, Scovotti, Esswood, Brett, Cold
La Grande Ecurie et la Chambre du Roy
Jean-Claude Malgoire
SM3K 34592

1977年録音。63分53秒/57分16秒/50分04秒。SONY CLASSICAL。悪口を言う人はいるでしょうが、わたしはこの演奏好きです。古い録音なので、遅いし、正直なところ緊張感が途切れてしまったようなところもある。でもヘンデルの時代のオペラ演奏ってこんな感じだったんぢゃないかなあ。むやみに早いけれど情感にとぼしい演奏よりも、30年前のこの録音のほうが、よほどヘンデルオペラの本質に近づき得ていると思います。

何と言っても歌い手の粒がそろっているのが強み。主要な6人の歌手がヘンデルの世界に違和感なく溶け込んで、端然と音楽が進んでいく。どの人もとてもいいんですが、とくにヘンデルのオペラはCDでは確かこれだけしか聴けないコトルバシュ。それからガーディナーの『メサイア』ではおとなしすぎたブレットがここでは軽快に歌っていて、株を上げてます。

『リナルド』ってオペラはつまり十字軍の時代のお話で、ヨーロッパのどっかの国から娘連れで乗り込んでいった将軍の軍隊が、異教徒の魔女とそのヒモの連合軍と戦って、最後には二人を降参させてキリスト教徒に改宗させるって筋ですよねおおまかに言や。

それにしてもマルゴワールって人は、『アグリッピーナ』『リナルド』『ジュリオ・チェーザレ』『タメルラーノ』『セルセ』といった、マストアイテム的なオペラを選りすぐって録音してきた、なかなかよく分かってる指揮者なんぢゃないでしょうか。『リナルド』や『セルセ』ではエスウッド、『タメルラーノ』ではヤーコプスとルドロワ、『チェーザレ』ではボウマン、そして最近の『アグリッピーナ』ではジャルスキと、起用してきたカウンターテナーも時代を反映していて面白い。

「しょうがい」を辞書で引いてみた

2008年03月06日 | 気になることば
■昨日の障碍の話のつづきですが、「碍」は「礙」の俗字なんだそうです。そういえば漢字辞書にそんなこと書いてありましたわ。思い出した。ここで例の『日国』でこの「しょうがい」を調べてみました。漢字は【障害・障碍・障礙】としてあります。これは常用漢字優先なんですな。で、「しょうがい」の意味は、(1)として「さまたげをすること。じゃまをすること。また、そのさまたげとなるもの。さわり。しょうげ。」とあり、この用例として近代のものでは鴎外の例が挙がっています。鴎外の用字は「障碍」。次に(2)として「精神や身体の器官がなんらかの原因でその機能を果たさないこと。また、その状態。」とあり、長谷川如是閑の用例(1915)が載っています。写すと、「生理的発達に伴ふ心理的変化から来る道徳機能の障碍」云々。以下、派生語の用例の用字を見ても、戦前の例では軒並み「障碍」ですね。「障碍競争」「障碍物」「障碍物競争」。やっぱりどうも、明治以降の用字としてはもっぱら「障碍」と書くのが当たり前だったようですよ。大修館の漢字辞書によると、「碍」というのは石を前にして人が立ちつくしているところを現した字だそうです。人が動くのに妨げとなるバリア、の意味にぴったりのイメージをもった字だと思う。『日国』では「しょうがい」の下位に「しょうがいしゃ」の見出しも立てられていますが、用例はありません。「しょうがいしゃ」って言葉自体、使われるようになったのは戦後なんでしょうね。

「障がい福祉課」

2008年03月05日 | 気になることば
■札幌市にある食堂で、知的障碍のある4人が「無報酬のまま奴隷のように働かされ」ていた、というニュースを伝えるこの記事。「4人は13~31年間にわたって長時間労働を強いられ、障害年金も横領されていた」そうです。事件が明るみに出たのは去年の6月で、市が経営者に話を聞いたところ「「小遣い程度を除いて給料は渡していなかった」「障害基礎年金は店の運営資金に流用した」と不正を認めたため」、しかるべき措置がとられて、食堂は廃業したとのことですが、札幌市は2001年にすでに「兆候」を察知しながら手をこまねいていた、と朝日は書いています。

■この記事の最後に、「札幌市障がい福祉課」のコメントが引用されています。昨今、お役所の文書や障碍者自身の表記で、「障がい福祉」とか「障がい者」とかいう書き方をときどき見かけますね。しかし私はこの書き換えにはまったく賛成できません。

■この書き換えの意図は、「害」って字はイメージが悪いのでひらがなにしましょう、ってことでしょう? しかし「障害者」を「障がい者」に書き換えたらイメージがよくなるんでしょうか。むしろ、「がい」という無理やりなひらがなによって、かえって背後に隠れた「害」という字の「悪いイメージ」が増幅されてしまうと思います。これ、差別語の問題とおんなじですね。

■もともと「しょうがい」は「障碍」と書くべき語で、「障」も「碍」も「へだてとなるもの」、つまりカタカナ言葉でいうと「バリア」の意味でした。「バリアフリー」の「バリア」ですね。しかし「碍」は当用漢字に入らなかったので、当用漢字の制定以降、もっぱら「障害」と表記されて今日にいたっています。ただ、「障害」という誤表記?がいつごろ発生したのかわたしは知りません。当用漢字が定められて以降の書き換えなのかもしれないし、もしかしたらそれ以前からすでに「障碍」「障害」が併存していて、それが戦後、「障害」に統一させられてしまったのかもしれません。

■「碍」を当用漢字に入れなかった文部省?のお役人はまったく罪作りな人ですよ。いまは常用漢字ですが、常用漢字に「碍」が入ってさえいれば、みんなすんなり「障碍者」「障碍福祉」って書き方をしていたはずで、なんの問題もなかった。

サイモン・キャリントン

2008年03月02日 | 音楽について
こちらのページによりますと、Trinity Choirの、今年5月20日のコンサートのゲスト指揮者はSimon Carringtonとありますが、この名前どっかで見た、たしか、キングズ・シンガーズにこんな名前の人がいたよねえと思って検索してみると、あらまあびっくり、確かにキングズ・シンガーズに1968年から93年までの長きにわたって在籍しバリトンを歌っていたこの人、いまはイェール大学の教授なんですって。この方のウェブサイトがこちら

■ね、この人、見たことあるでしょう? それにしても老けましたよねー。いやまあ、三浦和義元社長も老けてたけどさ、キャリントンさんの老けたのにも驚いた。こっちも年を取るはずだよ。それでこのキャリントンさん、いまは大学の先生としてまた合唱指揮者として活躍なさっているそうで。5月20日のトリニティ・クワイヤのコンサートではフランス・バロックのグラン・モテをあれこれ指揮なさるようですので、みんなで期待しておきましょう。

クラークス・グループ『ジョスカン/ミサ・マルール・ム・バ』

2008年03月01日 | CD ジョスカン
JOSQUIN DES PREZ
Missa Malheur Me Bat
Motets & Chansons
Liber Generationis Jesu Christi
The Clerks' Group
Edward Wickham
CD GAU 306

2001年録音。70分37秒。Gaudeamus。思っていたよりもいい演奏だったですよ。さらりさらりと薄味ですすめていく。もうちょっとメリハリを効かせてほしいと思うところもないではないが、こういう流麗なジョスカンもあっていい。薄味とはいえちゃんと味はあるんであって、無味乾燥てことはないです。参加している歌手は2・2・3・3の計10人ですが、それぞれの曲は、4人から7人程度の少人数で歌っています。

"Ave Maria...virgo serena"はヒリヤードよりも速め。歌う立場からすると、この曲はヒリヤードのようにたっぷり歌いたい気もしますが、少なくとも聴く分にはクラークス・グループくらいのテンポのほうが重たくなくていいかも。しかしそうはいっても、やっぱりミサは、ことにジョスカンのミサは、まちっとがらの大きなたっぷりした演奏のほうが好きだけどなあ。