荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

大使館を訪ねて-19(オーストリア)

2016年05月20日 | 散文
「オーストリア共和国大使館」
暗闇坂を下りて行きます。

凄い名前ですね。
鬱蒼と茂った森の中にあったのでしょうね。

その坂の途中にオーストリア共和国大使館が在ります。再訪したい国です。
国の説明は、次のとおり手抜きします。
中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていました。

1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となりました。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られました。
1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツに併合されましたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国化により現在につづく体制となっています。

音楽を中心に文化大国としての歴史も有しています。

EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われています。

国名の Österreich は、ドイツ語で「東の国」という意味です。
フランク王国のころにオストマルク東方辺境領が設置されたことに由来します。
OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味します(デンマーク(Danmark)の「マーク」と同じ)。
ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものです。

狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領であり、現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク司教領やケルンテン地方、シュタイアーマルク地方、チロル地方は含まれません。

オーストリア大公を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」を呼ぶようになり、時代が下るにつれ同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになりました。
1806年のオーストリア帝国の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されませんでした。

1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるがこれは一地方の名前(あるいはオーストリア家というかつての王家の通称)を国名に使用したことになります。
現在のオーストリアの行政区画ではかつてのオーストリア大公領は上オーストリア州、下オーストリア州に分割継承されています。
(ウィキペディアより)

振り返ると、丘の上に麻布ヒルズがあります。


一旦この坂を下りて、左の坂を上ります。
ホントに坂の多い街です。

地図で見ると、当たり前ですが平坦な街なんですよ。

・・・次回に続きます。

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