荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

屯田川河口から

2024年06月17日 | 散文

帰省すると必ずここに来ます。屯田川河口です。この川が町の境です。左(北)が富田で、右側(南)が桜井です。ちょうど良い具合に干潮です。

いつものように桜井側から砂州が露出した砂浜に降ります。

南側を眺めます。海の向こうに四国山脈が望めます。その下には、新居浜の工場地帯です。

靴で行ける所まで行きます。足元を潮が洗います。沖には「比企島」や「魚島」等々の、瀬戸の島々です。

上流です。川底が露出しています。こんなに潮が引きます。

北側の砂は細かいです。背後は「しなまみ」街道を形作る島々です。

振り向けば私の足跡です。

目を上げれば故郷の山河です。「霊仙山」です。長曾我部元親の四国統一事業で滅ぼされた城がありました。

北側には「日本食研」の工場です。

目を南に向けます。赤灯台の先に「唐子山」、右の山塊が「世田山」、背後に「石鎚山」と四国山脈です。

更に右を見ると、「世田山・笠松山」の連山です。太平記の「世田山合戦」の舞台です。沢山の人が死に、北朝の世になった歴史の転換点となった場所です。特に笠松山の「野々瀬口」の戦いが苛烈で、敵味方の死体が折り敷いて地面が見えない、と記されている場所です。

「唐子山」です。あそこに福島正則が城(国分城)を築き、後に入って西軍に付いた小川祐忠が関ケ原の戦いで敗れ、東軍に付いた藤堂高虎が入領後、取り壊して今治城築城の材料にした歴史があります。「唐子山」の命名者は、その国分城を壊した藤堂高虎です。頂上の松の木が唐人の子供の頭に似ていたそうです。今は数本の木ですが、当時は城を取り壊した後のボウズになった山頂に、1本の松が残っていたのではないでしょうか?関ヶ原の戦い直後の話です。

サイクリングロードを行きます。桜井漁港へ行く道です。

白砂青松の砂浜の向こうの兵市島を望みながら走ります。

故郷の山川海はありがたいです。帰ればいつもそこに居ます。


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