荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

「徳川黎明会」なるものが在った。

2020年02月02日 | 散文

目白の街に来ています。初めての街なので何処をどう走ったのか、鬱蒼と大木が繁る屋敷に出くわしました。

 

正面から見ます。立派な屋敷です。

 

「社団法人徳川黎明会」との文字がありました。

 

見学しようと覗いたら、正面左手に「見学は行っていない」旨の小さな表示がありました。

 

門前から写真を撮って去りました。

 

帰宅後、ウィキペディアで調べてみました。

1929年(昭和4年)に尾張徳川家の家令となった鈴木信吉は、同家の第19代当主・徳川義親侯爵の美術館設立構想を具体化させ、1930年(昭和5年)9月13日尾張徳川家の御相談人会で、同家の名古屋大曽根邸敷地の一部を名古屋市に寄付し、そこに財団法人として徳川美術館を設立することが可決された。検討の過程で、財団法人の名称は、漢文の素養があった阪本釤之助により「尾張徳川黎明会」と命名された。また美術館のほかに、書籍を収集・保管する「蓬左文庫」を併せて設置し、徳川生物学研究所および徳川林政史研究室も財団法人に移管することになった。

 

 

 2016年(平成28年)現在の会長は尾張徳川家第22代当主の徳川義崇。財団は、徳川美術館と徳川林政史研究所を管理・運営し、美術史・林政史などの研究、展覧会や公開講座の開催、所蔵資料の整理・公開などの事業を行なっている。本部・総務部は東京都豊島区目白に所在。

こんな建物でした。世の中まだまだ知らない世界があるんですね。出逢ったというか、遇ったのですね。

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「讃岐うどん 根の津」の閉店

2020年02月02日 | 散文

こんな貼り紙が出ていました。

 

場所は根津神社の表参道です。小さな店ですが、いつも行列ができるうどん屋です。四国生まれの私は、ちょっと違うなと思いました。もう一度確認して、それ以降行っていませんでした。

 

でも、TVでも雑誌でも紹介されて、行列が絶えない店でした。そんな店なので、貼り紙にあったように、早く次の店で商売を再開したいとの思いは強いでしょう。

 

でも普通、退去するならそれなりに準備する筈です。賃貸物件にしても、家主は前もって賃貸借契約を継続しない旨を通知する必要があります。

 

隣の家はもう更地になっています。

 

この店も更地になるのでしょうか? つまり、それなりの通知期間があったのに、次の店を出す場所が見つからなかったのでしょうか?

 

もう看板がありません。

せっかくあれだけの集客をしてきたのに、、残念でしょうね。

・・・また街の景色が変わります。

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節分準備が完了した宇迦八幡宮で、

2020年02月02日 | 散文

下町の路地に提灯が飾れられています。これは特別の事ではなくていつもこうですが、神社の裏手です。

 

正面に回ります。暖かい冬の陽射しが注ぎます。

 

有名ではない下町の神社です。

 

節分の準備が整っていました。

 

宇迦八幡宮の節分飾りです。

 

冬の陽射しに照らされて鮮やかです。

 

どんな節分行事が行われるのか興味はありますが、町内会でもないので来ません。

 

でも、この神社は時々覗きます。ここには「軍馬盛敬号の碑」があるのです。馬の記念碑は他で見た記憶がありません。しかも大きな石碑です。

 

余程の戦功を挙げた馬だろうなと裏に刻まれた文字を読みます。初めて見た時はとても驚きました。

「軍馬盛敬号は元騎兵伍長榊原平三氏の乗馬たり。
同氏は明治二十七八年日露戦役中選ばれて永沼騎兵挺進隊に参加す。
挺進隊は特別任務を帯び敵線内を潜行、遠く敵の背後に侵出。
明治二十八年二月十一日夜、長春南方新開河の鉄橋を爆破し第一の目的を達成し得たるも、大砲二門を有する敵の急追を受け、二月十四日夜張家窪子付近に於いて之を逆襲し月下に格闘戦を開始した。
盛敬号はこの戦闘中鼻頭に大傷を蒙りしも屈せず奮戦中腹部に敵弾を受け遂に斃したり。
軍馬と雖も長期の劇しき行動に堪え困苦欫乏を忍び、能くその任務を全うし君国に盡せる霊を慰むる為、明治四十一年十月有志相謀り碑を御影堂境内に建立せり。
大正十二年九月大震災の際破壊したるに依り、戦役当時の挺進隊長永沼秀文閣下に題字を請い茲に復旧せるものなり」

 

・・・そうなのです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれた、主人公の一人である秋山好古率いる騎兵隊が当時世界最強のコサック兵団と互角に戦った史実が、こんな処に残されているのです。

ここに軍馬盛敬号の碑がある理由は分りません。
榊原伍長がここ宇迦八幡宮の氏子だったのでしょうか?

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