「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

「紅の豚」

2005年04月22日 23時20分27秒 | 日記
 「紅の豚」を見てました。途中からですが…。

 カミさんと娘が「金スマ」見ていたものですから、見れませんでした。

 途中からでも、最後まで見てしまいます。

 宮崎作品の中で一番好きかも知れません。

 映画館で見ましたし…!

 あれ?誰と見たんだ?

 カミさんじゃなかったような気がするぞ。

 危ないからよしておこう。


 ビデオでも何度も見ました。

 テレビから落とした奴ですけどね。ノーカット版って言ってましたし、坂上みきさんのナレーションで番組直前予告から録れましたから気に入ってます。

 何度でも繰り返し見ることの出来る作品だと思います。

 子供のアニメじゃありませんね確かに、興行収入も他の作品と比べるとたいしたこと無いようですが、繰り返し放映されてますね。

 「もののけ姫」とか「ハウルの動く城」より息の長い作品になりそうな気がします。

 勝手に言ってます。

 ちなみに、この作品のサウンドトラックも好きで持ってます。

 また聞きたくなってしまった。 

「ユンカース・カム・ヒア」    デフォルメされた日常

2005年04月20日 23時47分25秒 | BLOG論
 NHKBS2でやっていた「ユンカース・カム・ヒア」
 というアニメを見ました。偶然見つけたんですけどね(阪神が負けてたせい)、家族3人で最後まで見てしまいました。しかもお父さんは涙ぐんでいました。アホです。

 人間の言葉を話せる犬と、できが良くて、何でも我慢してしまう女の子が、誰でもが遭遇する可能性のある出来事を通して、悩み、苦しみ、自分の本当の気持ちを口にすることで家族に奇跡をもたらす物語です。

 お話は極めて日常的、ホテルで働くバリバリのキャリアウーマンの母と、CM制作の第1線で働く父を両親にもってるところは、ちょっと贅沢な設定だけど、そこで起こっている出来事は、年上の男性への恋いに似た感情や、両親の離婚の危機と日常において極めてありふれている。

 最初のうちは「これ、わざわざアニメにしなくてもいいんじゃないか」と思っていました。
 充分実写でもいける内容でしょとか、カミさんに言ってました。

 まあ最後は犬と一緒に空飛びますから実写じゃ嘘っぽくなりますけどね。

 カミさんが、「こういうアニメは日本じゃないと成立しないよね。」とか言ったので

 僕が「『耳を澄ませば』『おもひでぽろぽろ』とか、日常だけを描いて映画に出来るって日本だけかも知れないね。アメリカはエンターテイメントにしないと気が済まないし、なにせこのくらいの非現実(犬がしゃべる、空を飛ぶ)だったら実写とCGでなんとかしようとするだろうね。(超知ったかぶり)」

と答えた。そしたら

 小4の娘が「アニメで現実と空想をつなげちゃうのがいいんでしょ」とのたまわった。



 アンタが一番えらい!




 
 娘の言葉につなげて書けば


 今の実写映画はバーチャル(仮想現実)CGの発展とともにバーチャルの一線を超えて、映画を見る我々を必要以上に刺激する方向にあるのではないかと思う。

 昨今のアメリカ映画がバーチャルを駆使しながら舞台を非現実においているのは9・11以降が生み出した国家的トラウマが原因かと思われる。

 

 その点アニメはある意味で安心できる。どんなに精巧に書かれていて、どんなにCGを駆使しようともアニメはデフォルトされた現実である。

 本物とは一線を画している。

 世の中には「エロゲー」なる世界が存在し、億を超える市場だという。

 アニメの美少女がエロチックな世界を展開しているようだが、僕が最近学習した「秋葉系」なる現実的な美少女達の基本コンセプトもアニメに登場するキャラクターが具現化したものになるのだろうか。

 ひょっとしておじさんが立ち入る領域じゃないかもしれないと、やや逃げ腰になり始めているが…。

 要するに理解できなかった。なんでこんな市場が成立するのか分からなかった。

 バーチャルはバーチャルで五感のうちの視覚と聴覚しか満足させられないよ。

 そんなバランスの悪いことしてたらおかしくならないかい?

 って思ってました。

 でも何となく分かり始めたことはバーチャルで満足してるんじゃなくて、満足させているのではないかってことで、



 つまりそこには自分をバーチャル化させて、自分をデフォルメして高いレベルを持とうといてるのではないかと疑い始めてる。


現実世界に自信の持てない人たち。持つ努力をした人もいるだろうし、そうでない人も


どこで何があったか知らないが、現実を諦めかけている人たち。

 
 敵を多く作りそうな発言だなあ。

 
 僕もアニメ世代だ。

 だからデフォルメされた世界に浸るのも悪くないと思っている。



 ブログだっていわばデフォルメされた日常だ。

 寸秒も書き逃さない記録など資料にしかならない。

 デフォルメされてこそ人間のドラマになる。


 描写されるのは「動き」でも伝えられるのは「人間の真理」なのだと思うからだ。


 おとなになってからの日常は数珠玉のように変わらない。自覚されるのは老いて行く自分と、唐突に気付かされる子供の成長のみということになりかねない。

だから自分をデフォルメしてネットの世界やアニメの世界にひととき自分を投げ出してもいいが、そこに逃げ込んじゃ駄目じゃないかい?


 ブログに登場する自分もデフォルメされた自分。半ばアニメチックに自分を演出している人もいる。
 でもまだ前向きかもね。何てったって情報を発信してるんですから。

 受身じゃ無いですから、追っかけてないですから。

 気構えだけは世間相手に一人で立ち向かってますから少々のデフォルメは許されるべきでしょう。


 でだ!

 結論は、明日も朝が早いんだ。寝るぞ!家庭を持つ社会人はってことだよ。


 なんだってこんなに長く書いちゃったんだ!    

花粉症は終わらない。 そのうち鼻がもげるぞ

2005年04月20日 00時13分52秒 | 日記
 ゴールデンウイークも花粉症で悩まされるのか?

 一向に治まりませんな。

 ぼくの住んでるところは、東に牧ノ原台地、西に小笠山山塊、北に南アルプス連邦へと続く山脈、南に南山。
 要するに小高い山に囲まれたすり鉢状の一帯なのです。

 で、地域では有名な遠州の空っ風っていう奴の終点でありまして、強い西風が吹いてくる、仕事は別の街で、引きこもってしてるからそれほどでもないけど、家に帰ってくると途端に青春感動巨編の滝涙状態!

 この間なんざ、朝っぱらから一陣の黄色い風を自動車で突っ切ってしまったぜ!


 ホント寒気がした。放射能浴びるときもこんな気分なんだろうか。

 病院で処方してもらったクスリなんざ効きはしないし、鼻の粘膜が炎症起こして、季節はずれの赤鼻のトナカイになっているし、

 今日は隣のおじさんと国の農林政策に関して損害賠償を求める訴訟を起こそうかって所まで激昂していた。
 
 
 それで来週から「富士山山の村」(豊かな国有林に囲まれた研修施設、富士山2合目)に2泊3日で行って来いってか!
 

 目と鼻預かっておいてもらえますか?

 なら行きます。

 大丈夫ですよ。今年の新人は自分たちだけでやれます…きっと…。

 部屋に籠もっていていいですか?

 
 気晴らしのハイキングですか?遭難届けを用意してください。

 だって先頭行く私は目が開けられませんから

  
 分かりましたよ、行きますけど外でカレー作るのやめましょう。何を好きこのんでそんな刺激物を体内に入れようとするんですか。

 よしましょうよ~。


 去年杉の木に蹴り入れて粉だらけになった奴いたでしょ、それでウチの部署、5人ほど症状が出始めましたから…。


 業務命令ですか。いつもそうですね。

 こっちが家のローン抱えてると思って、足も見てるな~

 
 いえ!指導研修がきらいなんじゃないんです。

 花粉がきらいなんです。

 諦めます、行きます。いえ、行かせて頂きます。

 たかが、目のかゆみとのどの渇きと、鼻水と咳と、集中力の低下と、クスリの副作用で眠いのと
 報酬が雀の目の涙程度ってことだけですから、たいしたこたあありません。

 マスク5枚重ねで窒息死 斬り!

 拙者、ゴーグル付けると跡が残りますから 切腹!

静岡県人はみるべし。

2005年04月19日 23時01分47秒 | BLOG論
 はあちゅう主義
 でも紹介されていたから知ってる人も多いと思うけど、静岡県に住んでる人なら一度は見ておかなくちゃいけないのがセキネさん
 だと思う。
昨年「サザエさん」のオープニングテーマを久々に静岡県が飾ったのはご存じだと思う。前回はいつだったか覚えていないけど御前崎とか出てた。
 昨年は「花博」の宣伝も兼ねてたから、今年は「地球博」だろうなと思っていたら、やはりタイアップしてたのね。

 まあそういうことも静岡県人であるなしにかかわらず見ていて面白いから1回は見てください。

 情報発信てのは色々な形があるもんだと思いました。

春雷?!

2005年04月18日 23時01分52秒 | BLOG論
 さっき突然雷が鳴った。

 春雷って奴ですか?

って違うよ!

 春雷は春が近づいたことを知らせる2月上旬に鳴る雷のことで、別名「虫起こしの雷」とも言われます。

と、一人ツッコミ。

 肝は小さいくせに雷が持っているパワーに憧れがあるのか知らないけど、雷をみてるのは好きです。

 仕事が新規に始まって、新人さんのお世話やら何やらで4月は神経を使いますな。

 ドランクキャット君も配属が決まったようで、張り切っておられるが、張り切っているのは新人の方だけでなく、在来種も4月は何故だか張り切ります。



 どこの職場もゴールデンウイークまで突っ走るんでしょうな。


 問題はその後で、無我夢中が、ちょっと冷静になって、周りが見え始めると考え込む人が出てくる。

 さあて今年はどんな悩みを抱えることやら…。

 現職17年目の先輩がお相手致しましょうぞ。


 と余裕してるわけにはいかなくて、このブログの本筋ともいえるブログ論がなかなか書けません。

 ブログ論もここまで続けると、結構に詰まってきてる部分もあって、半端な構えで書くと、迂闊に人を傷付けることになる。

 これでも重心を低くして、よしって気合いを入れてテンション高めて書いてるつもりなんです。

 

 アクセスは経る一方です。1日50件くらいかな。

 チェ・ジウさんの画像を削除してから、徐々に減って行きましたね。


 検索ワードでもチェ・ジウさんの名前がほとんど無くなりました。

 後は七尾藍佳さん関係の検索で訪れるかたが少しだけいらっしゃる。


 だからいい加減でいいやって訳じゃありません。

 よぶんな肩の力は抜いても良いかなって気がします。

 アクセス数関係なし。

 ブロガーだと誰もが一度は踏むステップのようでして、アクセス数にこだわった人々が、あることを契機に雲が切れたみたいに気持ちが抜けてしまうらしい。

 誰のためのブログか?

 原点に戻る時期が誰にでもあるようです。

 さてそれでは僕も次のブロガーステップに行きましょうか。

歓迎会ナイト 連ちゃん 飲み会の引き際

2005年04月17日 00時55分49秒 | 日記
 更新できてません。

 二日続けて飲み会です。

 今月だけで4回目だ。


 財布が薄くなっていく。

 酔うと気が大きくなって良いかっこしいになるからいけませんね。

 今日も帰り際に、2次会に若い人たちを連れていく、ちょっと年下の人に5千円渡して「若い衆を頼むな!」とか言ったりしてる。

 そのわりにその少し前に、1万円を5千円札に両替してたりして、自分ながらケチくさかったりする。

 1万円ぐらいスパッと渡せばよかったとか思うけど、多すぎてもいかんかなとか、思ったりもする。


 何せ、小遣いはひと月4万円なのである。


 せこい、せこい。


 札びらを切るって言うのを一度でいいからやってみたい。

 ところで「びら」って何だろう。

反日感情について考える  プライベートとパブリック

2005年04月15日 00時10分45秒 | BLOG論
 オーストラリアに本部を置く団体から発した、日本の常任理事国入りの反対署名運動は、いつの間にかデモ参加運動に変化し、今回のような破壊行動にまで発展してしまった。



 今週末も各地でデモが予定されているらしい。

 参加しようとしているのは25歳以下の若い人たち、いずれも急速に普及したインターネットで過激な情報を仕入れて、それを行動に移そうとしている人たちである。

 中国は社会主義国である。
 一部経済特区を設けているが、基本は農業国であり、いわば巨大な農協が一括管理している国である。

 中国を太陽の日蝕に例えた人がいた。

 日蝕になると太陽のプロミネンスが見えるが、それが輝く経済特区や特権階級であり、真ん中を構成しているのは12憶とも言われる農業貧民層の暗闇であると言われている。

 それらの層を抑えるためには今後とも社会主義体制は維持されるはずである。

 これまで中国では情報を極度に制限してきた。それは体制維持に欠かせないものだった。

 しかし、ここに来てインターネットの普及により、様々な情報がダイレクトに都市部の青年に
伝わるようになってきた。




 インターネットの普及の大きな意味の一つに相互発信という考え方がある。

 情報を一方的に受け取るだけでなく、情報を発信することが出来るのが特徴といえる。

 このことは無数の情報発信者を生み出す結果となった。

 そして、この情報には検閲者が存在しない。

 本を出版する際の編集者、もしくは編集会議。

 番組を放送する際の、放送倫理規定や、上司の決裁。

 どんな情報にも複数の人間の常識のフィルターを通過して濾過されたものが(たとえ形式上のものではあっても)世に出てきたはずである。

 そして最大のフィルターは売れるか否か、視聴率が取れるか否かであり、それはより多くの大衆に受け入れられることを目的としているので、大衆そのものも一つのリミッターとして機能することになる。

 でもHPにもブログにもフィルターはない。

 どんなに過激な意見でも、どんな誹謗中傷でも、どんな偏った思想でも、それが削除されるまではそこに存在し続ける。

 プライベートならいい。

 でもインターネットは極めて高いと言わざるを得ないパブリックな一面をも保有している。

 

 これまで中国の人たちの受け取ってきた情報は極めて高い公共性を帯びていた。

 一般的な(経済特区以外の)中国には日本のワイドショーや、習慣大衆、フライデーや東スポはないのである。



 だから彼等は情報慣れしていない。

 情報の信憑性に関して免疫は無いに等しく、少なくとも我々日本人よりもピュアに情報を受け取るはずである。

 社会主義は人々を公平に導くことを主眼としている。

 それは同時に、高い拘束感と、脱却の望みのない安定した日常を提供してくれる。

 全国民の9割以上が予感している変化のない明日に、国が黙認する変化を与えたとしたらどうであろう。

 たまったストレスにはけ口を与えることができ、相手国の内政を政府が直接関与することなしに有利に運ぶ手があるとしたら…。


 上海でも届け出されたデモが予定されている。

 日系企業なしには生活できない人達もデモに参加するという。

 彼等は自分等の生活を追い詰めることになっても、我が国の歴史認識を改めさせたいのであろうか?

 だとすれば、我々日本人も歴史について情報の発信と受信を相互に行えるよう準備すべきではないかと考えられる。 

BLOG上の人格 自分探しの旅

2005年04月13日 23時16分16秒 | BLOG論
 今まで僕はブログを、新しい自分とか、本当の自分とか、飾らない自分を表現することだと書いてきた。

 そしてその根底にはいつも本物じゃない、偽りの自分がいるような気がしていて、ブログを書いている自分も何かしら偽った自分を表現している気持ちになっていた。

冷静になって見ると八方ふさがりである。

でも、それならば本当の自分って何処にあるのだろう。偽りのない自分になれる日が来るのだろうか。


 そいつはどうも心許ない。


 自分を探している人がいる。いっぱいいる。


 じゃあ今生きているあなたは誰ですか?今ここにいる僕は誰ですか?


 考えてみたら自己否定しかしていない自分に気付く。

 自分は今の自分しかないのに…。

 他の何処にもいない。

 今ここにしかいない自分を認めないでどうするのだろう。 



 時々過去のブログを読んでみると

 自分に驚かされることがある。

 こんなこと考えていたんだ。

 こんなことを言っている。

 まだ半年に満たないブログなのに…。


 そこには今の僕ではない僕がいる。




 友人や後輩から「あのときの言葉を覚えています」みたいなことを言われて、ビックリすることがある。

 なんでそんなこと言ったのか覚えてないのに、他人の中に僕の知らない、僕が忘れた自分を発見することがある。
 

 探さなくても発見できることはあるし。

 記事にコメントをもらって、喜びと共に自分に対する違った見方を発見する。

 
 つまりはこうなんだ、リアルタイムの自分しかいないから、追い詰められる。


 時を隔てた自分や他者がいて初めて僕という人間が確認される。


 

 見る人も訪れる人もいない、そして読み返すことすらないブログを書き続けるのは苦しい。


 注目してくれる人がいなくても

 せめて自分は振り返ってみることはしよう。


 そこにニコニコしていて元気な自分を見るだけでも気分が違う。


 


 
  

BLOG上の人格    鏡よ鏡、世界で…。

2005年04月12日 23時23分42秒 | BLOG論
 鏡には霊力があると信じられてきた。

 人はどうやって鏡を手に入れたのだろう。

 最初は水面に映る自分の姿だったろうことは、ナルシスの神話にも見られる。

 日本の古墳から出る副葬品の多くも鏡だ。

 八咫鏡(やたのかがみ)は皇位継承の印である三種の神器の一つとして伝えられている。

 他にも地獄で裁きを受ける際に使われ、一瞬でその人の全生涯を映し出すことの出来る浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)がある。

 鏡は何も包み隠さず真実を映し出すものとして扱われる。


 そういえばスノウホワイト(白雪姫)の鏡はよくしゃべる。

 しかも勇気がある。

 世界一美しいのは白雪姫です。


 割られるかも知れないのに…

 それはあなた、お后様が一番に決まってるじゃないですか。

 僕ならそう言うかも。


余談にそれた。

 金属を磨いただけの鏡にどれほどの画像力があったかは知らないが、人は鏡に驚き、畏れを抱いたであろうことは想像できる。
 

 僕らは真実を知りたいという欲求が常にある。

 そして鏡にはそれに応えるだけの力がある。


 だけど反面真実を知りたくないという畏れも同時に持ち合わせているのではないか。

 ブログを書くのも同じことが言える。

 僕らは自分のことを知りたいがためにブログを書いている部分を持っているのではないか。

 でも同じぐらい自分のことを隠したがる。

 偽ると言っても良い。

 でも…。

 中途半端でごめんなさい。


 続きはまた明日…。