「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

東京紀行9 湯島聖堂と西遊記と孔子像と猫と斯文会2

2006年01月09日 11時39分30秒 | 紀行
 大成殿を出て石段を下りて左に曲がって庭園の中を歩きます。湯島聖堂はご存じの通り、江戸時代に昌平坂学問所として、武士の子弟の教育機関でした。そのころのことを想像して歩くと、僕の脇をチョンマゲを結って袴をはいた若者達が通り過ぎてゆきます。
 そのまま路なりに行きますと正面にやや大きめの立像が目に入ってきます。

 孔子像です。

 昌平坂学問所は、江戸初期の漢学者林羅山の建てた私塾「弘文館」が前身だったといわれています。

 羅山の私塾には孔子廟もあったようで、それがそのままくっついてきたようです。

 まあ漢文学を勉強するものにとって儒学は避けて通ることの出来ない分野ですから当然と言えば当然なのでしょう。






 僕が勝手な想像をしながら歩いていると、その想像を打ち破るように孔子像の足下を見ると何か動くものが見えました。

 そ~っと近づいてみると

 

 実に哲学的な顔をした猫君でした。

 孔子像を守るように端然として座っております。

 僕の存在なぞ全く意に介さず、何事かの命題に深く思考を及ばせているご様子。

 僕はこの後彼の1メートル先まで近づいたのですが、視線を一点に集中させたまま微動だにしませんでした。

 この孔子像を左に見ながら更に進みますとコンクリート製の重厚な建物が見えてきます。
 史跡湯島聖堂,財団法人斯文会

の建物です。

 湯島聖堂を史跡として長く後世に伝えるために、様々な活動をしていらっしゃいます。
 ただ保存すればいいと言うのではなく、積極的にその存在をピーアールして世間における認知度を上げることもその活動に入っています。

 その最も特徴的な活動は文化講座です。

 内容は漢文に関するあらゆるものといった方が適当かもしれません。

 所定の手続きをすれば誰でも受講できます。

 一番高い講座で年間授業料が6万円弱ですから、中学校の塾よりうんと安い。

 そうすると講師の方は高等学校を引退された方がボランティアでやっているのかなと思うのですが、これが東大をはじめとする、北海道、茨城、筑波、の国公立大学や、早稲田、二松学舎といった私立大学の現役バリバリの名誉教授の方々が教えてくださる。

 こういった方々が、論語の素読、史記解説から、漢詩の朗読、作成、吟詠、書道、漢字の起源から、中国画、中国楽器の演奏、健康太極拳(これが一番高い)までを選べます。


 一番おやすいコースで

 論語素読土曜コース 松川 健二 昼 第一土曜(年10回) 5,250円

 てのもあります。

 有朋自遠方来、不亦楽乎

 朋遠方より来たる有り、亦た楽しからずや

 なんてのは学生のころは、全然ピンと来なかったわけで、なに当たり前のことを言っているんだという気持ちぐらいだったのですが、

 故郷を離れて都会で一人暮らしをして、たまに実家に帰ると、すぐに友達から電話があって、「なーに~?帰ったきとったん?げんきしとったとね?今あいとる?すぐいくけん、ちょっとまっちょってよ」なんて電話をもらうと実感として理解できてしまったりしますね。

 論語学而編のその前の部分である

 學而時習之、不亦説乎

 學びて時に之を習う、亦た説ばしからずや

 だって、自分が本や雑誌やネットで見つけて「これってちょっと良い感じかもしれない」って思ったことが、全く別の場面で、それが仕事の話であったり、友達との会話であったりしても、「そう!それってこういうことでしょ、私も気になっていたんだ!」って得た知識が実際の場面でタイミング良く使えたときって、もの凄くうれしいって思うでしょ。

 こういうのはやっぱり学生の時、ワケがピンとこなくても覚えた経験があって、それが反復されたときに、実感として理解されるわけですね。

 斯文会の文化講座にはテストもなければ偏差値もないし成績も落第もないんですね。そういった教室にいる学生さん達の顔ってどんな表情なんでしょうね。

 僕は家が遠いから断念せざるを得ないんですが、いつかきっと参加してやろうと思ったりしてます。

 これで僕の東京紀行は終わりです。



 次は番外編で「裏東京紀行 秋葉原メイド喫茶潜入編」ははじまりません。

 
 ご精読ありがとうございました。
 

東京紀行9 湯島聖堂と西遊記と孔子像と猫と斯文会1

2006年01月08日 01時53分02秒 | 紀行
 神田明神からお茶の水方面に引き返してきて、東京医科歯科大学と道路を挟んで反対側の入り口から中に入ります。
 
 東京医科歯科大学の湯島通りに面した場所には以前テニスコートがあって朝から爽やかな大学生達がテニスをしている風景が見られたんですが、今は校舎を建ててしまってなくなってしまいました。

 少し残念です。

 関係ないですが、先日の北町奉行所は現在の東京駅新幹線ホームだったって知ってました?トリビアに出してみようかな。



 湯島聖堂の西側の門をくぐってすぐに左手に大成殿がありますね。

 始めてこの場所に来たときの印象はとても強くて「初めてじゃない!」って思ったんですね。

 なぜならこの場所はテレビドラマ「西遊記」の撮影でよく使われていた場所だったからなんですね。
 といっても香取慎吾君じゃなくて、堺正章さんの方ですけどね。
 町の支配者とか、政治が絡んでくると必ず役所とか政庁として使われていた見たいなんですね。
 だから僕でも覚えていられる。

 中国ロケを何遍もやれるほど予算はありませんからね。

 三蔵法師は今度は深津絵理ちゃんでしょ。夏目雅子さんの印象が非常に強いだけに、難しい演技力が要求されると思うけど、頑張って欲しいものです。

 沙悟浄はちょっと役不足になる心配があるんですけど、大丈夫かな。
 

東京紀行8 神田明神2 銭形平次の肖像

2006年01月07日 01時01分41秒 | 紀行
 うわあぁ~こりゃあやばい~銭形のとっつぁんだあ~ってルパンが逃げていくラストシーンが有名なのは「ルパン三世 カリオストロの城」ですね。
 インターポールの銭形警部は神田明神下で活躍した銭形平次の子孫と言うことになっています。

 とにかく銭形っていう音は響きが良くて一種の愛嬌を持って親しまれていますね。

 元は大衆小説であって実在の人物ではございません。



 でも神田明神境内にお墓がありますね。

 銭形平次は1931年発行の『文藝春秋オール読物号』創刊号に銭形平次を主人公にした「金色の処女」が掲載され、これが『銭形平次捕物控』の第1作目となった。これ以降、第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編が発表された。

作者の野村胡堂は、文藝春秋から、「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され、構想を練った。そのとき、たまたま建設現場で見かけた銭高組の看板と社章から「銭形」の名前と投げ銭を思いついたという。また、『水滸伝』で登場人物のひとりである没羽箭張清が投石を得意にしていたというエピソードも、投げ銭のヒントとなった(出典: 株式会社 銭高組「『銭形平次』誕生秘話」)。


 テレビ時代劇では、1958年に若山富三郎、1962年に安井昌二、1966年から1984年に大川橋蔵(フジテレビ系列)、1987年に風間杜夫(日本テレビ系列)、1991年から1998年に北大路欣也(フジテレビ系列)、2004年以降に村上弘明(テレビ朝日系列)が平次役を演じている。とくに、大川橋蔵主演のシリーズは高い人気を誇り、18年888回放送された。2005年9月からは、時代劇専門チャンネルで再放送されている。

 映画もテレビも何度も制作されているものなんですね。

 全てを合計すれば水戸黄門に続く長寿番組と言えるのではないでしょうか。

 で、伝七捕物帖の伝七にしても人形佐吉捕物帖の佐吉にしても岡っ引きといわれる人達ですけど、この人達って武士じゃないんですね。

 民間の警察の役目を負ってる人と言えば聞こえは良いけれど、専門職でもないんですね。

 江戸の街を公式に守っているのは南北両奉行所にいる同心達です。100万都市でEDOで、それぞれ100人ずつ、それに岡っ引きが400人で、その手下の下引きが不特定にいたらしく、だいたい1000人ぐらいでEDOの治安を守っていたらしいんです。

 で、武士でもない民間人がどういう風に岡っ引きになったかというと、どうも罪人らしいんですね。

 幕末近くになると、天領というところで、代官の政治的権力が弱まり、土地の支配を、街の顔役いわゆるヤクザに任せて十手を預けたともいいますが、最初のからそうだったわけではないようです。

 銭形平次のドラマを見るとかなりしっかりした家があって、長火鉢にすわっている姿が浮かびますね。
 町火消しの親方か、やくざの親分みたいな感じなのですが、彼等の収入は同士達の小遣いで賄われているわけですから、たいしたことないはずなんです。
 
 当時の同心の年収は30俵1人扶持です。

で、単位は

 1斗の4倍 1俵 =60kg
        ↓
1斗の10倍 1石 =約150kg
=180.39リットル

となってますから、年収は1800㎏=1.8トン

 高級米が今だいたい、10㎏で7,000円ですから年収126万円ということになります。

 白米の価値観が今と全然違いますから、一概に比較できませんがそれにしても少ないですね。

 その中から岡っ引きに渡しているのですから、とても一家を養えるようなものではありません。
 ですから岡っ引きも下引きも副業だと言われています。

 「岡っ引き」の「岡」という字は、「岡っ引き」の「岡」とは“外からひっぱる”の意で、正当でないものを言います。すなわち、「岡っ引き」とは、正当でない者が犯人を引っぱることを意味したんですね。最初は目明かしと読んでいたんですが、そういった人達が職権を濫用して「ちょっと来い!」とかいって小さな犯罪を賄賂をもらって目をつぶるようになったり、自分の犯罪を他人に押しつけたりするものだから、何度も禁止令が出たそうです。
 で、そうすると同心の方は自分で捜査しなくちゃならないから面倒くさくなって結局元の木阿弥になってしまうという状態になっていたようです。
 「岡っ引き」という名称も名前を変えただけの「目明かし」なんですね、結局。

 だからホントに非公式な立場なんです。

 十手も同心の持つ房のついた奴ではなくて、しかも事件があると奉行所に取りに行かなくちゃ行けない。
 で、武器ですからいざというときに出すもので、いつもは懐に隠していたようです。

 だから銭形平次が銭を投げて犯罪者を追い詰めるなんてことはできっこないんですね。

 この「銭形」という名前は作者の野村胡堂という人が、文藝春秋から、「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され、構想を練ったとき、たまたま建設現場で見かけた銭高組の看板と社章から「銭形」の名前と投げ銭を思いついたといわれてます。また、『水滸伝』で登場人物のひとりである没羽箭張清が投石を得意にしていたというエピソードも、投げ銭のヒントとなったようです。

 銭形平次の息の長さの秘密っていったい何なんでしょうね。

 



東京紀行8 神田明神1 将門様もIT関連に進出してます。大変です

2006年01月05日 23時59分51秒 | 紀行
 神田明神へはわきのちょっとした公園から入りますよ。僕はだいたいこの公園でトイレに行きます。
 以前はトイレの中にホームレスの人がいたりしてビックリしてオシッコもせずに逃げ帰ったものでしたが、今では平気です…じゃなくていなくなりましたね、あんまり。

 で脇から正面に回って門をくぐりますよ。平将門を祀っているんでしょ。相当怖いイメージなんです境内はとても明るい雰囲気です。
 結婚式場が神社の脇にあるんですが、人気があるみたいで、しょっちゅう花嫁さんやお婿さんに出くわします。

 

 ここで毎回僕が買っていくのが写真の右上の方にある「勝守(かちまもり)」というもので、攻めているのか守っているのかよく分からないお守り何ですが、このお守りは僕には直接効き目があった試しがありません。

 じゃあ何でこんなに三つも購入したのかと言いますと、これは僕を経由して頑張る女性が持つと何故か抜群の効き目をもつという力があるようです。

 だましじゃありません。

 ただし縁結びではありませんので、あしからず、仕事とか資格試験とかそういう類のものに効きます。

 本音言ってしまうと、偶然がそういう風に続いただけですけどね。

 それとも僕の中年下心パワーが将門様パワーで昇華されるのか知りませんが

 とにかく、そういうわけでとりあえず三つストックしてあります。

 欲しいですか。

 来月まで待って需要がなかったら、一つ差し上げてもよござんす!

 ただし住所とか教えても良いという人に限ります。

 個人情報は他に流すことはありません。


 で、縁結びの方も凄いのがありますが、これはまたの機会にしましょうね。

 もうひとつ画像にあるのは、

 「IT情報安全祈願」守りでありまして、個人情報が漏れないように、ハッカー達にやられないように、パソコンに貼り付けておくタイプのものです。

 いあやあ神様もハイテク化してゆかないといけなのですから大変です。

 次は銭形の親分は親分?

 というテーマで書きます。

東京紀行7 嬬恋神社の迷惑

2006年01月05日 00時24分26秒 | 紀行
 湯島天神からの帰り道、僕はいつも少しだけ脇道にそれて、嬬恋神社に寄ります。
 道路の上の方に「初詣は嬬恋へ神社」っていう横断幕があって気になったのが最初なんだけどね。

 この湯島は湯島聖堂や湯島神社や東京大学、東京医科歯科大学といった文教に関係している雰囲気が支配してると思いきや、結構ラブホテルの多い地域だったりする。
 嬬恋神社のあるからっていう訳じゃなくて、上野の歓楽街が下にあって、それが湯島の上にまで伸びてきてしまったというのがホントのところなのではないだろうか、嬬恋神社のために弁護しておきたい。

 この嬬恋神社はラブホテルを横目で見ながら脇に入り、少し階段を登った狭い社域のコンクリート製の神社であるが由来は古い。

 何てったって日本武尊(やまとたける)の東征の際に三浦半島から房総半島に渡るとき、自分を人身御供にして海を鎮めた女性にちなんで建てられたってんだから話が古い、その後この社は枕の下に敷いておくと願いが叶うという七福神の絵をうって霊験あらたかと言うことで有名になったらしい。

 一度だけ偶然宮司さんのお話を聞くことが出来て、年末にもかかわらず枕絵を売って頂いた。
 家のどこかにあるはずだ。

 霊験はあらたかかどうかは意識していない。でも大過なく過ごせただけでも立派な霊験ではなかろうかと思える。

 一度だけカミさんを連れてきたことがあるが、さほどの感動はなく、ラブホテルに囲まれた雰囲気に居たたまれないような感じで早々に引き上げた覚えがある。


 ちなみに昨年末に行ったら曲がり角のラブホテルは取り壊しの最中であり、むき出しになった、バスルームや極彩色の壁が一つの哀愁を誘っていた。それとそのホテルが築後何年かは知らないが、コンクリートには網の目のように鉄筋が入っており、設計が姉歯さんではないなと言うことが分かった。
 ビルの取り壊し現場を、ビルの取り壊しに関する見方がそういう目になっていることや、何よりそういう自分に驚かされて改めて事態の深刻さを思ったりしている。

 

東京紀行6 飛び梅の伝説 湯島天神

2006年01月04日 00時53分00秒 | 紀行
 湯島天神への参道付近の写真です。
 
 この時期湯島天神は訪れる人もまばらですが、境内は結構活気があります。

 お正月の準備をしてるんですね。

 参道脇には屋台が並びます。

 飴やさんが有名かな。

 拝殿もなかなか賑やかですよ。



 本殿脇からはご祈祷用の時に配られるものが次々と段ボールで運び込まれていますよ。

 正月三が日はどういう状態になっているのでしょうか、想像もつきません。

 

 売店では色々な受験アイテムを売っております。

 僕は格言が入った鉛筆を買ったことがあるんですけど、これは持ってるだけで実際には使えないんですね。

 センター試験でも一般試験でも格言が入るとカンニングの材料と見なされますから使えません。

 それとこの鉛筆以外と脆くてポキポキ芯が折れてしまうんですね。

 お守りとして持ってるだけが妥当かと思います。

 売店でよく売れるのは絵馬でしょうね。

 でも例えば12月26日に絵馬をかけてもお正月用に全て外されてしまいますから寿命は短いと言わざるを得ません。
 
今年は娘用にランドセルのお守りを買いました。




 写真は本殿付近です。

 ブルーシートが敷いてありますが、これはここまでが賽銭箱になると言うことなんでしょうね。

 菅原道真公をお祭りしていますから、学問の神様なんでしょうが、神様になった経緯は、もっと怖いお話であって道真公は政争に敗れて九州の太宰府に左遷されたわけですね。
 そこで自分の身の上や、政敵を恨んで憤死するわけですが、その後京都で異常気象が続いたんですね。雷とか大風とか、随分被害が出たらしい。

 なかでも雷が人々の恐怖を煽ったと言うことなんですね。
 雷って天候が崩れる前兆みたいなものでしょ。

 人々は気象学的に説明できなかったものだから。菅原道真公が怨霊になった災いを起こしていると考えたんですね。

 雷が鳴るとき「くわばら、くわばら」って言うでしょ。あれは桑原って言う地名の土地が、道真公の所領だった関係で、そういえば雷も落ちないと考えた庶民の知恵なんですな。

 で、そういう風になると当時の政府ってのは調伏(退治)せずに神様にして祀るから、勘弁してくださいってことにして、荒ぶる魂を鎮めようにしたんですね。

 当時の日本人ってあんまり死刑とかしてないでしょ。
 天皇も貴族も僧侶もみな流してしまう。

 怨霊になられるのが余程怖かったんじゃないでしょうか。

 平将門は処刑されましたが、首塚作ったり、やはり神様にして鎮めようとしてますね。

 よほど怖い祟りがあったのでしょうか。

 僕はそのまま上野方面に行っても良いのですが、もと来た道を引き返しますよ。

 次は嬬恋神社です。
 

東京紀行5 ニコライ堂にて

2006年01月02日 22時31分16秒 | 紀行
 12月26日になってます。

 僕は毎年この時期に東京に来ると、朝から同じコースをたどってから帰ります。

 新宿で軽く朝食を採った後、僕は一路、お茶の水駅を目指します。

 御茶ノ水駅に降り立った僕はまず神田駿河台にそびえ立つニコライ堂を目指しますよ。



 東京復活大聖堂って言うんですね。

 日本ハリストス正教会って書いてありますが、ロシア経由のギリシャ正教会のことですね。

 この教会がここに建った経緯はよく知らないんですが「司馬遼太郎 神田界隈」に出ている話があります。




 山本琢磨(やまもとたくま)(1835年~1913年)と言う人のことなんですが、坂本龍馬の縁者なんですね。

 山本琢磨は土佐藩白札郷士(土佐は山内家の直臣を上士、旧領主長宗我部氏の家臣を郷士と読んで身分を作りました。白札は郷士と上士の中間層です)山本代七の長男として生まれました。山本家は龍馬の父 八平の実家で、龍馬と琢磨は再従兄弟の関係にあたります。安政年間に江戸の桃井春蔵の鏡新明智流士学館にて剣術を学びました。龍馬は千葉道場ですね。桃井は位で押すのを信条としてましたね。業は千葉、力は斉藤と呼ばれて時代です。安政四年、酒に酔ったあげく商人から時計を収奪するという事件をおこしたが、龍馬と武市半平太の計らいによって藩を脱走しました。この辺の次第は小山ゆう「おーい!龍馬」に詳しいですね。その後、彼は前島密と知りあい、箱館神明社の宮司沢辺悌之助の婿養子となりました。函館にも行ったと言います。慶応元年、ギリシャ正教会の神父ニコライを殺害しようとして訪ねたところ逆に説き伏せられ、深くギリシャ正教を信仰するになったそうです。。
 明治元年、日本初のギリシャ正教徒として洗礼をうけ「パウエル」の洗礼名を授かり以後、ニコライを助けて伝道につとめました。一時、禁教化の地で布教をおこない入獄することもあったが屈せず、全国を精力的にまわり、日本人として初めて司祭へとのぼりました。明治十七年、東京神田へニコライ聖堂を建設するにあたり、種々の尽力をしたそうです。 最終的には大司教になったようです。

 なんか数奇な運命ですね。

 でも土佐出身の郷士の人々がほとんど幕末の時期に非命に倒れたのに対して、寿命を全うし、キリスト教の布教に尽力した人生は違った意味で重きを感じて良いのではないかと思ったりします。

 

 写真を見て頂くと分かると思いますが、キリスト教の教会ですからクリスマスを祝うんですね。
 イイストハリストスなんて言われると僕達にはなじみがないんですが、確かにやってます。
 僕は以前偶然この25日の午前10時ぐらいにここを通りかかったことがあって、若い神父さん達が、中を覗いた人々を誘っている風景に出くわしました。

 教会ですから祈るつもりの人は誰でもが中に入ることが出来るのです。

 ホントですよ。

 ろうそくを買って中に入るんですが、何か雰囲気に押されて入信してしまいそうな勢いなのでやめにしました。
 その後、凄く後悔しています。

 ギリシャ正教:東方正教会、ニコライ堂についての Q&Aを見て頂ければ分かると思います。

 ただ、ゴスペルもお説教もなく、ひたすら荘厳にお祈りして、2時間を過ごす覚悟がある方はどうぞ、といったところでしょうか。



 でも、一生に一度くらいは本気で神に抱かれるクリスマスってのも良いかもしれませんね。

 エイメン!

東京紀行4 空を見上げる田舎者

2005年12月29日 20時33分07秒 | 紀行
 新宿高層ビル群ですね。

 小学校の頃、全国の県庁所在地を覚えさせられました(以前ブログにもあげましたね)。
 で、その時、東京は何て覚えましたか?当然のことながら「東京は東京」って覚えましたよね。
 今は何て覚えるんでしょう?
 新宿って答えるべきなんでしょうか、それともやはり東京でしょうか。もし新宿が正しいのだとしたら、以前は千代田区もしくは大手町?とでも覚えるのがせいかだったのでしょうか。

 不思議なところですな。
 他の政令指定都市は名古屋とか大阪って言いますでしょ。

 東京だけ新宿って言うのもおかしな話ですね。

 かといって東京っていっても東京と全部が東京ではなくて23区全部で東京市なんでしょ。

 ん?「市」でいいのかな?

 三多摩は神奈川から譲ってもらったって言うし、この際もう一度返しちゃって区だけで独立しちゃえば財政的にも楽になるんだそうですが、小笠原諸島とか他の県じゃ養えないってことで東京にしてもらっているらしいね。

 まあ南海の自然の宝庫、亜熱帯の楽園っていってもなかなか厳しいようです。

 田舎人は高層ビル群を見上げながら空想しています。

 どうしても上見ちゃうんだよな、東京来ると。


画像は西口チャンスセンター(宝くじ売り場)からホテルを撮ってます。
 こういう場所ででかめのデジタルカメラで写真撮ってるのは、イマドキアジア系観光客ぐらいなものでしょうね。

 日本人はまずしません。

 一眼レフのでかいレンズを構えているなら別ですよ。

 結構開き直りが肝心です。

 いっそのことと思いカメラを首からぶる下げたら根性が決まりました。

 高度経済成長時代の後半に「コードネームJAL」と怖れられ、ニューヨーカー達をびびらせた通称「ノーキョーダンタイ」さんの血を受け継いでるのは、僕だー!

 てな感じで威張っておりました。



 写真真ん中の茶色いホテルが「スターホテル新宿」です。僕らの集合場所ですね。ていうか僕の定宿だったんですけど、みんな便利だって言うんで集合場所になってしまいました。
 新宿駅に一番近い、歌舞伎町にも一番近い、健全なビジネスホテルです。

 
 ホテルのロビーに入る直前です。

 ビジネスホテルですから極めてクリスマス意識しておりません。

 してないよね。花瓶の花がクリスマスローズだなんて言わないでくださいよ。

 

 お部屋です。

 考えてみればダブルの部屋なんて初めてじゃないかな。

 贅沢だね。

 でも僕は高校時代から結婚するまでずーっとダブルベッドで寝てたんですね。

 僕がわがまま言って買ってもらった訳じゃありません。

 父親と母親が営業セールスに引っ掛かって買っちゃったんです。

 腰に良いとか何か言われて買ったんでしょうけど、実際に寝てみるとどちらかが動くとベッド全体が動くのでまともに眠れないということが、体験して分かったみたいです。で、もう一つシングルでも買えばいいのですが、そういうスペースがある訳じゃないんですね。

 無理矢理部屋に入れると今度は押入だのタンスだのが開かなくなってしまうんですね。

 なにせ6畳の畳の部屋に入れてましたから、
 そういうのを一通りシュミレーションして僕の2階の6畳間に来たんですね。

 どうやってあげたのかは謎です。

 部屋なんですが狭いですよ。ダブルだから広く感じますが。

 それからトイレはシャワートイレに改装してますね、3年ぐらい前かな。

 エアコン入れると、えらく乾燥して次の日、喉をやられるのが嫌だったんですが、それも改善されてますね。

 えー、写真ではダブルかどうかちっとも分かりませんね。



 失礼しました。


 

東京紀行3 アナウンス

2005年12月28日 23時54分58秒 | 紀行
 写真は東京駅です。

 ここで不思議に思う方はかなりのツッコミ上手か常連さんでしょうね。
 なにせ私今日の目的地は新宿ですから、品川で降りて山手線で上がっていけばいくらか安いだろうにと思っていらっしゃる?

 その通りなんですね。僕がそれに気が付いたのは多摩川越えてからでして、人々が動き出して、なぜだ?なぜ東京駅で降りるのにそんなに早く動き出す?と思った瞬間に品川停車のアナウンスがありました。

 あっ!

 そういうことね。

 乗車券買うときに品川の文字がちゃんとあったのに全然眼中にありませんでした。

 これだから中途半端な田舎者は困る。

 自分の知ってる東京とは違うのだよ。ってことを強く認識しました。

 あれまあやってもうたわと思いましたが品川で降りもせず、そのまま東京駅まで行きました。

 品川も東京ですけど、窓に顔を付けるようにして、一瞬の風景である芝増上寺と東京タワーが直線で見えるビューポイントや、モノレールと平行して走る瞬間や、ゴジラが壊した銀座マリオンを見ないと東京に来たという旅愁に不足を感じてしまうのです。

 んなことは言い訳に過ぎないのですが、とにかく東京駅に着きました。

 で、新宿へ向かうべく中央線のホームに向かいます。一番橋の方なんだよね。しかもえらく長いエスカレーターに乗るんでしょ。
 エスカレーターは右端に乗って左側は急ぐ人のために空けておくのが礼儀なんですか?
 恋人同士も一列かと思いきや、何のことはない、しっかりくっついていらっしゃる。
 その手があったかあ!って、その手は並みのカップルでは使えないと見た!

 みんなが急ぐようですがこっちは急ぐ旅ではありませんので、じーっと機械任せであります。

 ホームに上がるとちょうど前の電車が出たばかりのようですが、反対側のホームには次の電車が既に待機してますよ。

 さっきの人達は何をそんなに急ぐ理由があるのでしょうか。

 まあそれでも座れたからいいか。

 で、目のやり場に困るから本でも読もうかと思っていると、車内アナウンスが響きますよ。

 次は か、ん、だ 神田 で、ございます。お降りの際には足下に気を付けて下さい。

 何それ?

 いまのアナウンスってそういう風に言うの?

 以前だと んんだあんだあ、けいひんとおほくせんのりかえのかたは、3番線3番ホームにお移り下さい。っていう風に流れるように言ってたでしょ。

 情報伝達と言うよりも、名調子と言った方がよい独善的なアナウンスだったのにいつからそうなったのかな。

 在日外国人が増えてきたから、そういう配慮をしたのかな。

 理由は判然としないけどおそらくそういうことでしょうね。

 しかし、次はよ・つ・やでございますって言われると、人をバカにしてんのか!って憤る人も一人や二人じゃないと思うけどどうなんでしょう。

 

東京紀行2 車窓から見る富士

2005年12月28日 00時08分11秒 | 紀行
 新幹線富士川橋付近からの富士山です。僕の出発した掛川駅からも富士山を見ることは出来ますが、やはり意識するとなると港町焼津の東に構える高草山の下をくぐって用宗にでたあたりか、安倍川の橋を越えたところでしょうか。
 面白いのはこの区間だけが上り新幹線の進行方向の右側車窓から富士山が望めることで、今回は見て思いついてカメラを構えたんですが間に合いませんでした。
 この次は撮ります。ほんの数十秒の出来事です。

 この日の富士山には雪が少ししか残っていません。まだまだ富士山は本物になっていないなという感じですが。これは富士山南東側に住むものの勝手な意見で、同じ静岡県でも東麓の御殿場や、山梨県側の人にとって見ればとんでもない話で、随分と積もっているのだろうとお察しします。

 日照時間の違いってこんなにも富士山の表情を変えるのかって思うほど違う顔になってます。

 残念ながら新幹線はその裏の表情をみることは小田原近辺でしか見れないかと思います。

 

 この写真は富士の裾野がうまく出てるんですが、電線が邪魔ですね。

 この富士山も綺麗なんですが、五合目くらいまで雪化粧をしてくれるともっと綺麗になります。
 僕らは写真や絵で見慣れてるように思いこんでいますが、実際はそうでもなくて、雪が積もっていて、空が雲一つない真っ青な空だという光景はまず見られることがなく、20年以上前に新幹線で東京に行く途中、富士川橋辺りで突然車掌さんからアナウンスが入り、『みなさ左手をご覧下さい。今日の富士山は滅多に見られることのない富士山です。私も長きにわたり車掌を務めていましたが、こういう富士山には数えるほどしかありませんでした。しかも今日の富士山は最高です、是非ご覧になって下さい、失礼しました。』と言いまくった。

 僕も東京と静岡の実家を行って帰る日が6年続きましたが、その時の富士山はパーティ会場に集まった人々を圧倒する迫力をもって静かに歩く貴婦人のような姿でした。

 2枚目の写真には煙が一杯写ってます。

 これは富士の伏流水を利用した製紙工場が幾つも操業しているからです。そしてこのパルプ工場から吐き出される臭いが街の臭いとして強い印象を植えつけます。

 でも本来は木なんです。木の臭いを変だという人はありません。でもそれに薬品を添加させると恐ろしく臭います。

 何とかしてください。って言ってもここは菊川の片田舎ですから何とかなるでしょうと気楽に構えています。