雨宮日記 8月14日(日) 暑いので涼しい博物館へ行こうよ
今日も暑いです。猛暑日(気温35度以上)かな?
暑いので、午後3時から浜松市博物館へ特別展示「銅鐸から銅鏡へ」を3人で見に行きました。今日は車です。公共交通で行くと,電車で浜松駅へ出て、バスで…となるので。
ぼくは2回目ですが、銅鐸をいっぱい見て、会場で貸してくれる懐中電灯で神戸の絵画銅鐸の生きものの絵をたっぷり見て、銅鏡をじろじろ見ました。
神戸の絵画銅鐸は、アメンボ・亀・トンボ・鹿・シラサギ・魚・スッポンなど田んぼと里山の生きものと弓をもった人と織物を織る人など、弥生の生活と生きものが多様に描かれています。
則子さんは「細江でこんなにいっぱい銅鐸が出てるのね」とビックリしていました。弥生の「銅鐸王国」「銅鐸の谷」、こういうことは浜松市民の常識にしたいですね。
「銅鏡文明=銅矛・銅剣文明」に滅ぼされた「銅鐸文明」の話も。われわれ浜松市民は、もともと「銅鐸文明」の原住民だったのですから。そういうアイデンティティすら無くしてしまい、過去のない住民に、未来など有りません。
あ、過去がなければ未来はない、というのは「コクリコ坂」の主人公の一人・シュンの大演説の柱でしたね!
今日は、則子さんとIさんのお二人を蜆塚遺跡とその横にも案内しました。
元々、博物館は、全国的にも有名な縄文時代の貝塚のある蜆塚遺跡の横に立てられました。蜆塚遺跡の中に、あんまり有名ではない(というより,ほとんど知られていない)「蜆塚古墳群」があって、「1号墳」「2号墳」「3号墳」があります。
さらに、遺跡の駐車場の横に神社のうっそうとした森があります。「山神社」といって、日本列島で出雲族や天孫族よりもっと古い「オオヤマツミの神さん」を祭っています。
どれくらい古いかというと『古事記』で、高天原から追放されたスサノオさんを出雲で迎えたのは、アシナヅチさん・テナヅチさんの夫妻ですが、そのアシナヅチさんの父親がオオヤマツミさんです。
さらに、高天原から「天孫降臨」したニニギさんが出会った少女・コノハナノサクヤヒメさんの父親がこのオオヤマツミさんです。
つまり、スサノオ=出雲王国系統にも、ニニギ=天孫族(→未来にヤマト天皇家になる)系統にも、自分の娘を婚姻させている日本列島の大実力者です。
つまり「山神社」のオオヤマツミさんは、名前にもあるように、日本列島=「山」の本来の支配権を持った主神ということでしょうか。
この「山」という名前は、「記紀」の「山幸」にも受け継がれ、さらに3世紀の「邪馬台国」の「やま」にも受け継がれていると思います。
このオオヤマツミさんは、やはり縄文時代からの日本の主神と考えて良いのではないでしょうか。
それと、遺跡・古墳と神社との一致、あるいは神話と神社の一致というのは、これまでときどき書いてきましたが、もっと研究していきたいと思います。
となると、問題は、日本列島全体での「オオヤマツミの神さん」の分布、「山神社」の分布ですね。
夜になって、則子さんが「結婚式用の白いネクタイを買いにいかないと」と言うので「うん、行こう」と言って、車で長女のTさんのアパートへ郵便物を届けて、カーマへ古紙を下ろして、ハルヤマへ白いネクタイを買いに行きました。
いま、これを書いているのは午後8時ですが、近所で花火が鳴っています。さっき見たところでは、隣町の早出町のどこか、たぶん、ヤマ発の駐車場あたりでしょうか?
日本人にとって、夏は花火、なぜか郷愁を覚えるのはなぜでしょうか?小池一夫さん原作・平野仁さん絵の「少年の町 ZF 3巻」にも印象的な花火とリーダーの典明さんの印象的な独白が描かれています。是非、お読みください。いま、ネットで第1巻と第2巻を注文しましたので、手に入ったら、浜松の人にはお貸ししますので、申し出てください。まず、次女に読んでもらい、次に則子さん…。
今って、わりあい「自分だけの本」になってますが、雨宮家では、いい本は、ぼくと則子さんとIさんの3人のあいだを流通しています。