四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

大みそかに思う

2016-12-31 07:58:31 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『私は、恩師の新井助信先生との出会いによって法華経に導かれて目を見開かされ、そして妙佼先生という、またとない修行の友に磨かれて、今日の幸せに導いていただきました。それにさらに佼成会というサンガのみなさんに助けていただいて今日を迎えさせていただいているわけです。

 その私と同じように、みなさんもまた、さまざまなご縁によって今日があるわけで、その縁のありがたさをもういちど振り返り、かみしめていただきたいと思うのです。

 自分をこの世に生みだしてくださった両親、この法に遇いえたその縁をつくってくださった導きの親御さん、そして、どんな人も幸せに導く法をお説きくださった教主釈尊の大恩……考えていくと、自分がどれほどの大恩によって生かされ、支えられ、導かれているか思い知らずにいられません。

ふだん、つい忘れがちな過去をあらためて検証し直して、自分が受けた恩をかみしめる瞑想修行がありますが、一年の終わりを迎えて、一日、じっくりと自分を振り返ってみたいものです。

 そこから真の自他一体感がわき起こって、さらに新たな精進の決意が湧いてくるのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

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お陰にさま気付こう

2016-12-30 06:10:56 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『今年も無事に一年を過ごさせていただいて思うのは、「この身に、どれほどのご守護を頂戴してきたことか」という感慨です。

「タンポポが一輪咲きました根のお陰です葉のお陰です」という、どなたかの詩の一節があります。とかく私たちは、タンポポの花にだけ気をとられて、その花が、根のお陰、葉のお陰で咲いていることに気づかずにいることが多いのですね。

 それと同じで、お互いさま、ご主人のお陰、奥さんのお陰、親のお陰、子どものお陰、まわりのみなさんのお陰を、ごくあたりまえのことのように思い、見過ごしてはいないでしょうか。この世の中でいちばん大事なものは、よほど心の眼を見開いていないと見えてこないのです。

 百七歳の天寿をまっとうされた清水寺貫主の大西良慶師は、「ありがとう言うて生きることが極楽やの」という言葉を残しておられます。

一年の終わりに、もう一度、まわりのお陰さまをかみしめたいものです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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仏の慈悲のはからい

2016-12-28 06:36:03 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『今年も無事に年の暮れを迎えさせてもらえましたが、景気の停滞や、天災、病気などで、素直に「無事、この一年を過ごせました」と言えない方もおられるかもしれません。

けれども、その苦労の多かった一年を、どう受け取るかが大事だと思うのです。仏さまは私たちのすべてをわが子として、「必ず私が守ってあげます」とお約束くださっています。そのお言葉を、信じきるのです。

 この一年、みなさんがどのような苦しみに遭い、どうがんばってきたか、そこから立ち上がるみなさんの懸命な努力を、仏さまはいつも見守ってくださっています。

仏さまは、わが子がそれだけの力を具えているのを、信じきっておられるのです。

親が子どもを強く育てるために、その願いとは違うように見えるものを与えることがあるように、仏さまは、いま私たちにいちばん必要なものをお与えくださいます。

 安穏無事とは、なにごとも起こらないことではなく、どんなことが起ころうと、それを乗り越える力を具えていることです。

非情の試練とみえることが、その力をつけてくださる仏さまのおはからいだったと分かるときが、必ずきます。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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人間は本来善である

2016-12-26 04:51:34 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「人間なんて、当てになるもんじゃない」とか、「いくら教育したって、しょせん人間なんて変わるものじゃない」と、なにごとにつけても、ひねくれた見方をする人がいるものです。

そういう人は、「人間というものは、どうにも救いようのないものだ」と決め込んでしまい、そういう一面しか見ようとしません。そんな人を見ると、私は気の毒で仕方がないのです。

 仏教では、人はみな仏になれる性質を持っていると教えます。貪欲(とんよく)によって表面が垢(あか)で覆われているだけで、煩悩(ぼんのう)の垢の奥に、磨けば光るすばらしい素質がそなわっているのだと見るのです。だからこそ、その素質を磨き出す修行に意味があり、そこに宗教の存在価値があるわけです。

 人間が生まれつき救いようのないもので、決して変わることのないものであるのならば、教育とか教化(きょうけ)活動はなんのために行なわれるのでしょうか。人間は教育により、磨き方によってよりよくなるものだと信じているからこそ、教育に情熱を注げるわけです。

 信頼は相手が善なるものと思えばこそ成り立ちます。私たちは、すべての人の仏性(ぶっしょう)を信じて、それを育て上げる努力を惜しまずに続けてまいりましょう。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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だまされるとも

2016-12-19 07:51:09 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『自分がなにごとに対してもあくまでも正直であれば、必ず人を信じられるようになります。逆に、「智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり」という言葉があるように、あまり利口すぎて才覚が過ぎると、その反面に偽(いつわ)りが生じて、ついうそを言うようになりがちです。

そして、自分がうそをついていると他人の言うことも素直に聞けなくなって、人の言葉の裏を勘ぐり、だれも信じられなくなってしまうのです。

結局、うそをついている人は自分さえも信じられなくなるわけで、それが怖いのです。かりに人にだまされても、自分を信じていられる人は、怖いものはありません。

そう言うと、「こんな生き馬の目を抜くような世の中で、そんなことを言っていたら、みんなにだまされてしまう」と言う人がいるかもしれませんが、私の祖父は、「人をだましたら人さまに迷惑をかけるが、自分がだまされる分には、自分だけのことだからよいではないか。だから、決して人をだましてはならんぞ」と、いつも言って聞かせてくれたものです。

こちらがそういう心になってしまうと、人をだまそうというような人は、そう近づいてくるものではないのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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すべては自分次第です

2016-12-15 06:29:00 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『善と悪とを区別して悪に近づかないというだけでは、道徳にすぎません。「この人は善人で、あの人は悪人だ」と裁き、排除するだけでは、この社会の本当の浄化はできないのです。悪事をなす人も善人に変えていく、悪い条件も善い条件に変えていく。それが宗教の世界です。つまり、悪縁を善縁に変えていくところに仏教の真価があるといえましょう。

すべてのものは、使い方次第で善なる存在にもなれば悪なる存在にもなります。たとえばお金は、うっかり使い方を誤ると不浄なものになってしまいますが、上手な使い方をすれば、またとない貴重な働きをしてくれます。

たとえば、いまの十円のお金は、たばこ代にも地下鉄代にもなりませんが、その十円を真心の布施に結集すれば、アジアの多くの難民を救うことができるのです。

人も同じです。かつて悪事に向かっていた人が心を改めて立ち直り、命がけで精進するようになった例を、私はたくさん見ています。どんな悪条件も、生かし方で幸福の素材になるのです。一滴の水をも生かす。仏教の知識を現実生活に生かす。すべてを生かすのが仏教の真精神です。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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お命をいただきます

2016-12-13 07:07:44 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、現在の日本の状態は、ぜいたくに慣れきって、足りれば足りるほど逆に礼節を忘れ、道義心がすたれる一方のように思うのです。

かつては、どこの家庭でも「米粒一つでも粗末にするとバチが当たる」と教えたものです。それは、ただ倹約のためだけではなく、仏教でいう不殺生(ふせっしょう)の考え方、あらゆるものの命を大切にすることを教えていたのです。

 食事をするときに「いただきます」と合掌するのは、お米を作ってくれた農家の方や、魚を獲(と)ってくれた漁業の方たちへの感謝にとどまらず、「米よ、野菜よ、魚よ、私の命をつなぐためにあなた方の命を頂戴(ちょうだい)させていただきます。ありがとうございます。どうか成仏してください」という感謝と供養の心を込めた礼拝なのです。私たちがいただくお米の一粒は、もみ種として田にまかれれば何百粒もの実をみのらせます。

その命を私たちはいただいているのです。

この「もったいない」という気持ちこそ、日本の心だったと思うのです。現代には現代の生き方があるでしょうが、「もったいない」という感謝の心は忘れてはなりません。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

 

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平和のために手をつなぎあう時

2016-12-11 06:31:33 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『心の中で平和を願っているだけでは、いつまでたっても平和は実現しません。それは、たとえば種を納屋(なや)にしまっておいたのでは芽が出るはずがないのと同じです。種は畑にまいてこそ芽を出し、それに水をやり、肥料を施すことで、花を咲かせ、実をみのらせます。平和も、その願いを一つ一つの行動にして積み上げていかなくてはならないのです。

ところが、そんな努力もしょせんはむだなことと、初めからあきらめている人がいるのです。人間の闘争本能は永遠に変わるものではなく、人類の歴史は戦争の歴史であり、それはこれからも果てしなく続くのだと、暗い面だけを見ているのです。

そういう人に出会うと、私はナイチンゲールを思いだすのです。クリミア戦争で多くの看護婦を率(ひき)いて傷ついた兵士を敵味方の別なく助け、クリミアの天使と呼ばれたナイチンゲールの献身が、スイスの医師アンリ・ジュナンを動かして国際赤十字が誕生しました。

私たち志を同じくする世界の宗教者が力を合わせて平和のための世界会議を開くのも、まったく同じ精神です。お互いに出会い、対話を重ねることによって平和の種が芽を出し、多くの共鳴者を集めて大樹に育っていくのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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自然治癒のパワーで

2016-12-09 05:16:19 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『疲労回復に効果があるとブームになっていたある薬が、じつはまるで効能がないことが分かり、問題になっています。

世の中にはたくさんの薬が出回っていますが、名医はむやみに薬を使わないそうです。長いあいだ人間の体を診(み)てくると、人間本来の自然治癒力がどれほど大きいものか分かるのでしょう。その力を信じ、ここぞというときしか投薬しない。ところが最近の患者さんは、薬をたくさん処方しないと「この先生は大丈夫なんだろうか」と不安がる人が多いのだそうです。それほど薬漬(づ)けになっているわけです。

 仏道修行の場合も同様のことがいえるかもしれません。

人の不幸の原因は貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒(さんどく)にあります。さらに突き詰めると「諸苦の所因(しょいん)は 貪欲(とんよく)これ本なり」で、貪欲が苦の根源であることが分かります。自分さえよければ、という自己中心、あり余る物に囲まれながら、もっともっとと欲をつのらせるその心を、人さまの幸せを願い、人さまに施す心に変えることで、その苦が喜びに変わるのです。

他からの救いの手ばかりを求めるのでなく、自分の心の切り換えで奇跡とも見える治癒力が生み出せるのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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今日は成道会(じょうどうえ)にして開戦日

2016-12-08 09:40:24 | 生かされて今日

 6年間の苦行を効果なき修行と放棄し、村娘スジャータが布施した乳粥により生き返り禅定からお釈迦さまは真理(因縁観)をお悟りになりました。インドのブッダガヤの大きな菩提樹の下でのことでした。お生まれは約2500年前ヒマラヤの麓、ネパールです。ご生誕は紀元前463年、ご入滅は紀元前383年だそうです(中村 元教授)。 

 私は昔、釈尊は架空の人物と思っておりました。我々と同じ清濁ある人間にお生まれになり、無上の覚者となられました。釈尊には2つの大恩があります。この成道と足裏が平らになるまで布教伝道された恩です。

 ブッダの教えを学び、科学万能の無知から抜け出て信仰者とさせていただき、今は「常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)」、『実には滅度せず。常にここに住して法を説く。』と法華経あるように日々釈尊と共にある大安心を頂いております。

人間に生まれることは難しい、しかも戦争をしない日本に生まれたことは更に難しい。

それに加えて釈尊の説かれた法に逢うことは最高の人生であると道元禅師が教えておられます。

 一方昭和16年12月8日、鬼畜米英の憎しみばかりで勝算もなき太平洋戦争に引きずり込まれました。軍国主義の冷徹、無知蒙昧な指導者のミスにより、約320万人の日本人が殺されました。フィリピン、ビルマ、中国、沖縄、広島・長崎のいたるところが戦場になりました。

 懲りることなくまたまたアベ自民党と公明党とは結託して戦争ができる国にしようと悪だくみをしています。カジノで一儲けする情けない日本でいいのでしょうか。

国民もいい加減に目を覚まさねば英霊に申し訳が立たないと思います。

 

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もらい過ぎ

2016-12-04 06:38:22 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『一休(いっきゅう)禅師は「私は耕さずして、ご飯を頂いている。織らずして、着物を着ている。いったい、私はもらいすぎている。これをどうつぐなえばいいのか。それを思うと、一時(いっとき)もじっとしてはいられない」と語っておられます。

この「いったい、私はもらいすぎている」という考え方が大事だと思うのです。

私たちは逆に「私はまだまだ十分に与えてもらっていない。不足だ」と考えがちですが、その心をちょっと切り換えるだけで、そこに感謝が生まれてくるのです。

その感謝が、まわりの人への思いやりになって、お互いに「ありがとう。ご苦労さま」と言い合えるようになっていくわけです。

おのれのごとくに他を思う心、それが仏教でいう慈悲心です。真の友情です。

人が「働く」のは、「はたを楽にする」ためだという人がいます。そういう心意気で働いていると、なによりも自分が楽しくなります。互いに持ちつ持たれつで生かされているのだという自覚から、慈悲心は生まれてくるのです。これこそ真の人間尊重でありましょう。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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身近におわすお釈迦さま

2016-12-03 07:42:15 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『佼成会に入会したのが早い遅いという違いだけで、その人の信仰内容を云々することはできません。どんなに入会が早くても、口先だけで少しも法の実践ができていないのでは、

たとえ信仰経歴は浅くても、法のとおり行じている人には及ばないのです。

 お釈迦さまは、「私の影を踏む者が私にいちばん近い者であると思ってはならない。私から千里も万里も離れていようとも、教えのとおりに実行する者が、私のいちばん近くにいる者なのである」と教えておられます。

 場所の遠い近いだけではありません。時の経過もまた同じで、お釈迦さまが法を説かれてから千年、二千年の時を経ていても、法をしっかりと持ち実践している人、つまり法を見る人は、お釈迦さまの尊いお姿を目の前に見ているのです。

 みなさんも、会員としての経歴が古いとか新しいというだけでなく、自分が朝起きてから、一日を終えて床につくまでピシリと仏法にのっとっているかどうか、法のとおり行じているかどうか、よくよく反省していただきたいのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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自分が変われば世界が変わる

2016-12-02 05:53:28 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『佼成会では「まず人さま」と言います。なんでもない簡単なことのようですが、自己中心の今日の社会では、なかなか実行できないことです。

「おれが」「おれが」と、みんなが主張し合うこのせちがらい世の中で、「まず人さま」などと譲っていたら自分ばかりが損をしてしまうとか、自分のことで精いっぱいなのに人さまどころではない、と考えるのがふつうで、「他人よりもまず自分」と考える人のほうが多いのです。

ところが、その考え方がじつは自分を不幸にするのです。

「自分が、自分が」という心は、自分の心をだんだん細らせていって、いつも不満が絶えません。自分のことはさておいて「まず人さま」と考えられるようになると、心が豊かになって、おのずと心が満ち足りてくるのです。そういう心になると、不思議に人さまが自分の応援をしてくれるようになります。

「豊かな心、明るい社会」という教団スローガンも、心の豊かさを社会全体に広めたいという願いにほかなりません。「人さまのため」という心こそ菩提心であり、それが菩薩行(ぼさつぎょう)の基本姿勢なのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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