『本を読だりテレビの教養番組を見ているだけでも、たくさんの知識が得られます。
最近は昔のようにのんびりした時代と違って、社会がめまぐるしく変化し続けていますから、それに対応できる程度の知識は備えておかなくてはなりません。しかし、氾濫(はんらん)する情報や知識の中には、自分の人生にとって欠かすことのできない知識よりも、そのときかぎりで消えてしまうといったたぐいのものが多すぎるように思うのです。
流行の言葉を使って伝統的な考え方を否定したり、言葉巧みに自己正当化の論理を展開したりすることが、かっこいい、新しい生き方であり、そうでないものは時代遅れの愚直な生き方と片づけてしまうような風潮は、いかがなものでしょう。
そんな一見かっこいい生き方は、いわば社会の表面に浮いた水泡のようなもので、そうした小利口人間でこの社会は支えられるものではないのです。
利口になるよりも、本物のばかになることのほうが、はるかに難しいのです。社会は、じつはそういう人によって支えられているのです。』
庭野日敬著『開祖随感』より