四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

秋惜しむ

2012-10-30 12:10:55 | 俳句

 東京駅は大正3年、今から98年前に完成しました。第一次世界大戦が起こり、首相は大隈重信の時代です。夕景の煉瓦ビルは素敵でした。

て、あかざ俳句会の十月句会の兼題は「嘘」で、身近な切ないテーマで大いに盛り上がりました。嘘がなければ油の切れた機械みたいな人間関係になりますもの。

  最高点は邦彦さん

◎小さき嘘つきて月下の母看取る 

   慈悲の嘘、愛ある嘘もあります。昨日のお月様は栗名月、後の月で月明かりに驚きました。母思いの邦彦さんの優しさが句ににじんでいます。

  嘘の高点句

◯ぶだうに指染めてやつぱり嘘言へず  寿美子主宰

◯菊膾笑わぬ人へ嘘少し     好子

◯鳥兜嘘つくときは横を向き   花子

◯嘘泣きの涙ひとつぶマスカット   照子

◯嘘泣きの児の眼にやがてひつじ雲  みやこ

私の嘘は

◯きのこ汁聞かされてゐる噓つ八

 

 

 

 

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日中韓三国の友好親善

2012-10-24 08:00:08 | 生かされて今日

 第15回日中韓仏教友好交流会議が22日、立正佼成会横浜教会普門館で開催されました。尖閣列島と竹島の領土問題から三国間での緊張が高まっている最中開催自体が危ぶまれましたが、無事に華やかに執り行われました。三国の仏教界のリーダーが、この緊張している政治情勢化においてお釈迦様の御教えのもとに膝を交えられたことは画期的です。中国からは中国仏協会副会長の学誠 師以下42名、韓国からは曹洞宗総務院長の慈乗 師以下83名。日本側代表団は総本山知恩院伊藤唯眞 門跡以下69名が来館されました。私たちは普門館玄関で3国のミニ国旗を振り合掌、拍手でお出迎えしました。国家間のイザコザ、小異を乗り越えて仏教徒が世界平和境建設の大誓願に力を合わせることは人間の英知を示すことになります。

この会議の機縁は1993年中国仏教協会会長の趙撲初(ちょうぼくしょ)師の以下の発言にあります。

『われわれ三国は隣国であり、数多くの絆で結びつけられて、切り離せないのです。その数多くの絆の中で最も長い歴史を持ち、今でも輝いているのは、われわれの共同の信仰、仏教であります。それに適切な名をつけると「黄金の絆」となります。』

誠に崇高なご発案でありました。

会議ははじめに釈尊像を前にして世界平和祈願法要が3国それぞれのやり方で読経が行われました。日本側の導師は立正佼成会理事で横浜教会の椎名教会長が努められました。伝統仏教界からの大会参加は、知恩院、延暦寺、東大寺、薬師寺、清水寺、浄土宗、永平寺、川崎大師など精神界の指導者です。

14時から各国45分間の三国仏教講演会、共同宣言文への署名調印式、更に18時から横浜ベイシェラトンホテルでの歓迎夕食会です。林文子横浜市長のスピーチがありました。

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旧古河庭園へ(その5)

2012-10-24 05:32:35 | 生かされて今日

 旧古河庭園では専属ボランティアガイドの説明を頂きました。もともとは明治の元勲、陸奥宗光の別邸だったそうです。彼の息子が古河財閥の婿養子となり、古川家の所有となった名園なのです。石造りの洋館、広大な日本式庭園と洋式庭園の豪華な屋敷です。明治の高官と財閥家とのジョイントですから桁外れの豪華絢爛なお屋敷です。陸奥宗光は和歌山藩士で、坂本龍馬の引き立てを受け初代神奈川県知事、外務大臣などを歴任しましたが、わすか54才で亡くなりました。伯爵でした。

洋館は石造りでニコライ堂を設計した英国人・ジョサイア・コンドルが作りました。奥さんは日本人です。心字池、巨大な石灯籠、仏塔など庭師の精魂が残されていました。洋式庭園には小粒な秋の薔薇がよき香りを恵んでくれました。ゆっくり時間が流れる名園です。ボランティァから押し花にした四つ葉のクローバーを記念に頂きました。楽しい一日を企画して頂いた子規庵保存会の皆様、誠にありがとうございました。

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正岡子規の墓(その4)

2012-10-21 06:07:34 | 生かされて今日

 田端大龍寺に眠る子規の墓前に初めて詣でました。中央の子規の墓標は当初は「正岡常規墓」と墨した木だったそうですが後で墓石となり、日本新聞社をおこした陸羯南(くがかつなん)の筆を刻してあります。

右には母親の、左側には正岡一族のお墓です。終生兄の子規を看護した妹、律さんは左側に葬られています。

おもいおもいに全員が墓前に合掌しました。私も清水を柄杓に汲んで墓石にお掛けし、病床を顧みず近代俳句の道をひらかれたご労苦に感謝しました。なかなか上達しない技量への加護もお願いしました。お母さんと律さんの墓前にもかがみ込みました。

『正岡常規又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名ハ竹ノ里人

伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番ナリ 卒ス母大原氏ニ養ハル

日本新聞社員タリ 

明治三十()年()月()日没ス 享年三十() 月給四十圓』 

墓碑には子規生前の本人の文が刻まれていました。

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子規庵から子規のお墓へ(その3)

2012-10-19 19:04:54 | 生かされて今日

 少し寂しげな西日暮里駅を左折、切通しの道灌山通りへ。子規の頃はこの駅はなく担がれた子規の棺は踏切を越えて進んだそうです。西の灘高と東大入学数を競う、東の開成高校がこのお山の上にあるらしい。道が細く曲線となる古い下町を進むと与楽寺坂。ピラカンサスの実や郁子の生垣など秋深しの景色です。

与楽寺は頂いた資料集の江戸名所図会に載っており、図会は確かなものです。子規や高浜虚子達は元気な頃、六阿弥陀詣でをしてこの寺の茶店で軽くお酒を頂きました。多く乞食たちがいて一厘ずつ渡したようです。

『某寺の前に満身ことごとく赤い紙をべたべた張られてある石の仁王が立つている所を過ぎて間もなく大龍寺へ着いた』(子規子追悼号)とあるのは、東覚寺。仁王様に治してもらいたい部分に貼って病気から逃れる祈願だそうです。昔も今も病気平癒は切ない願いです。この二体の仁王像は江戸名所図会で見るとお寺の隣にある八幡社の社頭にあります。明治の廃仏毀釈の為にか東覚寺へ引越しをさせられたらしいです。いよいよ子規が土葬された田端大龍寺、意外に鉄筋のお寺さんでした。

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子規庵から子規のお墓へ(その2)

2012-10-16 14:19:01 | 生かされて今日

 子規存命の頃は音無川が流れていたそうですが、今は暗渠でわずかに消防署の名前に残るばかり。その川沿いに羽二重団子の老舗があり看板が栄光を語りかけてきます。なんせ、子規の書には無論のこと漱石の『吾輩は猫である』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも書かれているんですよ。他にも泉鏡花や田山花袋、久保田万太郎の書物に書かれている有名店です。凄いなぁ。

残念ながら当然みんな味も知っているものとされて、なんにも知らぬ私には店内を覗く時間もなくて惜しいことをしました。

文士には甘党が多いのでしょうか。

横浜住まいの私に日暮里は成田空港への電車乗換駅で、今まで街に降り立ったことはありませんでした。ビルやマンションが無秩序に伸びて潤いには遠い駅前です。かっては駄菓子屋街が有名だったそうで、ガイドの奥村さんは親切で菓子詰め合わせ2袋を皆に提供してくれました。卜部兼好さんは物くるる人は善友だと言っています。

子規の死後3日めの葬送への参列者は150人余、あの小さな子規庵にはぎゅうぎゅう詰めだったそうです。相当な人数が34歳の文士の棺について田端大龍寺へ歩いたのですね。新聞に報道されても電話のなき時代によくまぁ縁者に連絡がとれたものだ。それだけ社会への影響力が大きい人物だったのです。

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子規庵から子規のお墓へ(その1)

2012-10-15 17:20:43 | 生かされて今日

 秋ぐもりの一日、(財)子規庵保存会ボランティアガイドの皆様の導きを得て「正岡子規葬送の道」をめぐりました。ときおり秋時雨が来ましたが幸いに濡れることはなく楽しい一日をエンジョイいたしました。

手弁当でのガイド、詳しい地図や資料の数々の提供には感謝するばかりでした。ウオーキング参加者には四国松山から来た青年、小学校の若い先生やベテランの幼稚園の先生など24名。子規庵の小庭には秋の花が露に濡れて、軒には黄色い花に大きな緑色のヘチマがぶら下がっています。

絶筆3句の碑 「をとゝひのへちまの水も取らざりき   糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな   痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

わずかに34歳11ヶ月の生涯でした。江戸時代の月並「連句・俳諧・発句」から蕪村の写生句をモデルとして、俳句という名前に変えました。ベースボール好きで、日本語「野球」の命名者でもあります。

横浜から句友とJR鶯谷で下車、子規庵に朝9時半集合です。何故かわかりませんが子規庵の周辺はホテルが密集して気はずかしい感じです。ガイドの奥村さんが子規葬送の文献2点を読んで頂き、ルートの解説がありました。

さらに江戸名所絵図、明治時代の地図と現在の地図とに朱のマーカーで歩く道を手書きしてあるのです。大変な事前の作業に頭が下がりました。途中で寄った旧古河庭園では、別のボランテァ2人が案内してくれました。自分だけの楽しみやお金を稼ぐことよりも他に尽くす奉仕者に敬意を払いたいと存じます。

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現代の秀歌(その2)

2012-10-10 05:31:02 | 歌の花束

○こんなにも可愛い顔で笑うんだ病室のぞけば父が手を振る   内波 志保

   娘を見てベッドのお父さんはどんなにか嬉しかったことでしょうか。

 

○ガラバゴス諸島の鰐となり果てて老人ホームの風呂に動かず   蛭本 博彦

   ワニのように動けない老は誰にでも来る。生老病死は避けられない。

 

○犀「ハナ」と同い年の九十歳汝に夫あり優しい角もつ   棚橋 久子

   優しい角もっていた夫を偲んでおられる。切なくもカラッと詠いました。

 

○疲れたとスーツが言っているような面接試験二十三回   平井 節子

   この就職氷河期にあきらめず、ノーベル賞の山中先生のように幾度も挑戦を。

 

○神流川(かんなかわ)に浮かぶ灯籠水底の小石をひかりの撫でつつゆけり   小林 淳子

   ご両親でしょうか、最後の「ゆけり」がさびしいですね。

 

横浜はジャズの町、伊勢佐木町の薄紅葉、木の実の下でバンドが演奏していました。すてきな時間をありがとう。

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現代の秀歌(その1)

2012-10-08 20:48:59 | 歌の花束

 朝日歌壇の選者4人が去年の年間秀歌各10首を選んでおられます。その40首から私の好きな10首を、僭越ながら選んでみました。激戦を勝ち抜かれ新聞に掲載されるだけでも凄い短歌なのに、更に絞られた最優秀の年間秀歌なのです。

私が好きな10首を分析すると、母に関する歌、老病の歌、政治社会に関する歌が各3首ずつ、魂祭の歌が1首となりました。


○独り居に母を残して帰る時いっしょうけんめい母は笑えり   滝 妙子

    最も心に響いた作品です。「いっしょうけんめい」の措辞に目が潤みます。親不孝でしたから。

○嬰児(みどりご)を初めてぎゅっと抱きしめるこの蠢(うごめ)きが胎動の正体   黒河内葉子

○胸の上生まれたばかりの息子抱く命の重み3224    小島 梢

    二首共におんなならでは歌えない、男は身体では分からない母性の尊い歌です。私たち男も

    母親の苦しみから命を頂きました。

○日本へ帰ったはずの沖縄をまだ沖縄を返していない   和田國基

    無慈悲な地上戦と米軍占領時代、更にその上戦後の日本を守る為の米軍基地の負担。

    私は精神的に沖縄県に負い目を感じております。

 

 

 

 

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みなとみらい21の秋

2012-10-06 16:08:02 | 生かされて今日

 明治5年新橋から横浜まで陸蒸気(イギリス製機関車)が走り、日本で始めて鉄道が開通しました。建設を指導したのは英国技師エドモンド・モレル、彼のお墓は山手の外人墓地(薩英戦争の原因となった生麦事件犠牲者のお墓も)にあります。墓地管理事務所に近い山手通りの垣根越しに見えますよ。当時は単線で日に2本だったそうです。JR桜木町駅はその時の初代横浜駅なのです。それを記念する碑が郵便局近くにひっそり建っています。現在の横浜駅は3代目なのです。

いまやランドマークタワーなど高層ビル群やコスモクロック21の大観覧車、帆船日本丸、ぷかりさん橋に目が奪われる横浜一の名所になりました。いまだにどんなお店や施設が、どのビルにあるのかわかりません。地図を見てもやたらに外国風の名前が付けられて弱ります。宵の駅前広場では時折異人さんや若者たちのバンドが演奏しています。

花すすきがなびいて現代みなとまち横浜に小さな秋を告げていました。

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