四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

芭蕉さんが名付け親に

2020-05-31 09:57:09 | 歌の花束

  芭蕉さんと曾良の「おくのほそ道」は、陽暦5月16日に渡し舟で隅田川を遡りスタートしました。別れを惜しむ弟子衆は千住まではと同船していました。

翁一行には一度も足を踏み入れたことのない未知の国への旅たちです。

翁は46歳の老境で胃痛や痔の持病持ち、東海道のように治安が良く一里塚や旅籠など整備されていないみちのくの旅です。同行する河合曾良は41歳、共に武士あがりの僧形の隠者です。

150連泊を超す蓑と草鞋、旅手形の旅は不安だったでしょう。行倒れを覚悟のまさに冒険の修行の旅ですから水盃の別れだったでしょう。

千住で縁者と最後の別れをして日光街道へ歩み出しました。

 日光から那須黒羽にある大関藩の弟子を尋ねんと近道しました。宿の主人の自称・仏五左衛門に勧められたのです。

土砂降りや広大な野に迷い農夫に道案内を乞うと、止まったところまでと野飼いの馬を貸してくれました。馬の翁に兄妹ふたりの童がついてきました。

小娘に名を聞くと「かさね」と。翁はこんなひなびた暮らしに優雅な名前だと感心しました。

「かさねとは八重なでしこの名なるべし」 曾良

翁の代作です。馬が止まった人里で謝礼を鞍に結び別れました。

長旅を終え縁ある人から赤ちゃんの命名を頼まれ、「かさね」と名付けたことが翁の俳文(「重ねを賀す」)にあります。おおまかな意訳は下記の通り。

 『奥州の旅の時、どこの里だっただろうか。小娘の六つばかりがとても可愛かったので名を問うと「かさね」と答えた。

こんな田舎にどうしてこんな優しい名前が残っているのだろうか。

もし私に子があったらこの名をつけようと同行の曾良に冗談を言った。

後日縁あって膳所の人に頼まれ名付け親となり重ねと名をつけました。』

この俳文には珍しく翁の和歌が添えてあります。

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先ず家庭で与える側に

2020-05-24 09:45:49 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

  『内科学の権威である日野原重明先生によると、六十歳で亡くなられた人の脳を開いてみると、ふつうの人なら四分の一、よほど使った人でも、まだ半分しか使っていないということです。半分以上は白紙のままなわけです。
それをそのまま残したのでは、まことにもったいない。六十を過ぎると「あとは余生」と考える人が多いけれども、とんでもない。まったく新しいことに挑戦する出発の時だという心構えが大事だ、と日野原先生は言われるのです。
私が、世界宗教者平和会議の実現に取り組み、明るい社会づくり運動を提唱したのは、六十歳を過ぎてからでした。
ジェラール・シャンドリーという人が、「人の一生の終わりに残るものは、われわれが集めたものではなく、与えたものである」という言葉を遺されているそうです。

その人の人生の究極の価値は、がむしゃらになって手に入れた地位でもなければ財産でもなく、どれだけ人さまに奉仕し、人さまに与え、遺すことができたかで決まるのだ、と言われているのではないでしょうか。』
                           庭野日敬著『開祖随感』より

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心のささえ

2020-05-12 07:36:35 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『ひと突きふた突きで土俵の外へ相手を吹っ飛ばしてしまうお相撲さんが、ちょっとしたつまずきで自信をなくすと、真っ暗闇のトンネルに入ったように、何も見えなくなってしまうことがあるといいます。手も出なければ足も出なくなってしまう。
 大事なのは、負けが込んでもあくまでも自分の相撲をとり続ける精神力で、それには、「これだけ稽古をしてるんだから、大丈夫なんだ」という心の支えが必要だというのです。それは相撲だけではありません。
どんな仕事でも、ふだん自信にあふれていても、その自信が土台から突きくずされるといった場面に、人生では幾度もぶつかります。そういうときに、自分で自分を信じる、いわば一本柱の土台がいかに心もとないものか、思い知らされます。
 「自分にできる精いっぱいの努力をしたのだから、あとはおまかせしていれば、必ずお守りいただけるのだ」という、もう一つの支えができると、二本の柱でしっかりと立った土台ができてきます。

そうなると、ちょっとやそっとのことで大きくくずれる心配はまずありません。』


                          庭野日敬著『開祖随感』より

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おやじの愛読書

2020-05-06 12:38:47 | 生かされて今日

 明治生まれのおやじは「菜根譚」を愛読書にしておりました。鹿児島から長崎高商(長崎大学経済学部の前身)に学び、若き時分から雇われ経営者として南九州の会社で働きました。

work hardをモットーとする明治時代最後の人でしたが、病を得て50歳で他界しました。朝早くから夜遅い帰宅なので姿を見ない日も多数でした。夜中に消防車のサイレンを聞くと夜具のまま家を飛び出して、自分の工場でないかを確かめておりました。

ある日、「ボクは死ぬ時は畳の家で死にたい」と言いましたら俺はそうは考えない。死ぬ時、場所はどこでもいいと考えているとの返事でした。明治人の誇りと昭和20年の焼け野が原から立ち上がった大人の気概でした。

『幸福は求めても得られるものでない。機嫌よく暮らして福を招くもととするほかない。

災いは避けられない。他人を害する心を無くして、わざわいに遠ざかる法とするほかない。』菜根譚

この本の成立は1602年、つまり徳川家康の関ヶ原の会戦の頃の中国明の時代です。

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