笈(おい)日記に、園女(そのめ)を愛でる翁の二句がある。身分制度が頑丈完璧な江戸時代にいかなる女性であったのか関心をそそられる。
◯暖簾(のうれん)の奥ものゆかし北の梅 芭蕉
「ものゆかし」は、なんとなく上品なたたずまい。「北」は、北堂で主婦の居間だそうです。園女宅に招かれた際の挨拶句で、弟子の優雅さを梅の花に託してある。
園女は伊勢山田の医師の妻で当時二四歳、師の芭蕉は四五歳。本名は斯波(しば)渡会(わたらい)と云い、父は神官、夫は医者。
◯白菊の目にたてゝ見る塵もなし 芭蕉
翁逝去の二週間前、大坂北浜の園女亭歌仙の発句である。園女三十歳。伊勢から夫婦して大坂へ転居していた。彼女の人柄を清らかな白菊になぞらえている。
女流俳人はかおるような佳人、才女と想像が膨らむ。いかな髪型で、冬の召し物はどうだったのであろうか。
園女五句 おおた子に髪なぶらるゝ暑さ哉
蝉の羽のかろきうつりや竹のなみ
涼しさや額をあてて青畳
ふじばかま此の夕ぐれのしめりかな
行秋や三十日の水に星の照り
おおよそ三百年前の江戸時代の作品とは思えない。
夫と死別の四十一歳の時に芭蕉門の榎本其角(きかく)をたより江戸へ出て、富岡八幡宮の門前にて眼科医を開業している。
寡婦の身で新興都市江戸へ乗り出していく力強さ、生活力に敬服します。富岡八幡宮に三十六本の桜木を奉納、園女桜、歌仙桜と呼ばれ、二世園女が建てた石碑がある。享年63歳、お墓は江東区白河の霊巌寺雄松院にあります。