四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

わがままに気付こう

2019-04-30 08:09:11 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『わがままがまかり通っている人を見ると、うらやましくなることがあります。しかし、そういう人は、じつは気の毒な人かもしれないのですね。

私たちの体の中には、いろいろな臓器があります。たとえば肝臓は養分の貯蔵と解毒作業をしてくれていますが、その肝臓の一晩の解毒能力は、日本酒の場合で三合だそうです。ところが忠実な働き者の肝臓は、主人が毎晩ガブ飲みしても「私はもうこれ以上は働けません」などと文句を言いません。われとわが身を犠牲にしてでも、自分に与えられた仕事を一生懸命にこなしていきます。それをいいことに、ご主人さまがいい気持ちで飲み続けていると、さすがの肝臓も力尽きて、倒れてしまいます。毎晩五合の酒ならば、間違いなく十年で肝硬変になってしまうそうです。

人の集まりでも同じで、わがままがまかり通っているのは、まわりのだれかが犠牲になってくれているからなのです。そのありがたさに早く気づいて自分の生き方を変え、まわりの人をいたわってあげないと、やがては命取りになりかねません。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

自分が見えなくなる愚

2019-04-28 07:19:18 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「この紋所が目に入らぬか。恐れ多くも先の副将軍……」という名台詞は、ご存じテレビドラマ『水戸黄門』のクライマックスですが、この時代劇は、スタートして二十三年目を迎えたそうです。スポンサーの松下電器の松下幸之助さんは、「国の為政者、人の上に立つ者は、それにふさわしい責任ある行動をとらなければならない。その立場を忘れて不正な輩と結託するようなことがあっては、庶民が許さないんですよ」と言って、このドラマをいつも楽しみに見ておられたそうです。

六波羅蜜の一つに忍辱行が挙げられていますが、忍辱行でいちばん難しいのは、まわりの批判にじっと耐える忍耐よりも、どんなお上手を言われても、そのお世辞に乗らないことで、これも大事な忍辱行です。

自分に反対する人がだれもおらず、いつもみんなに合掌されていると、自分が偉くなったように錯覚しがちで、そこに我が出てしまいます。自分のわがままを押し通して、それに気づけなくなってしまうのです。黄門さまではありませんが、「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」という“天の声”に、いつも耳を澄ましてわが身を整えるのが精進です。

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

協力してくれる方々

2019-04-21 05:36:03 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『商売でも、どうしたら売れるようになるかではなく、買ってくださる人の気持ちをいつも考えられるようになれば成功間違いなしだ、といわれます。

人と人の関係の極意も、そこにあるのですね。それが、初めはみんな逆なのです。自分の考えだけが正しいと相手に押しつけてしまう。自分の意のごとくならないと気が済まない。これを自分勝手というのです。それでいくら力んでも、まわりは自分の思いどおりにはなりません。

ですから私は、まず相手の意見を受け入れてしまうことにしているのです。そして、それに自分の考えをどう合わせられるか、調和させていけるか、考えるようにしてきました。そうすると、どんな人も安心して自分の力を出しきってくれるのです。

いくら自分の意見を通してみたところで、一人の力でできることには限りがあります。自分と一つ心になって協力してくださる人材を、どれだけ得られるか。大事なのは、そこです。

「みなさんが菩薩の行をなさる方だ」と拝む心になると、こっちの我など張る必要は、まったくなくなるのです。相手に合わせる気持ちになれば、相手も必ずあゆみ寄ってくれます。心と心は必ず通じ合うものなのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

人の弱さを責めない方

2019-04-16 06:09:30 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『イエスさまには、十二使徒と呼ばれるすぐれたお弟子さんがおられました。そのお弟子たちが、イエスさまが捕らえられたときに、「あんな人は知らない」と師を見捨てるのです。けれども、十字架にかけられて一度命絶えられたイエスさまが復活され、弟子たちの裏切りを知りながらそれを責めない姿に接して、お弟子たちが生まれ変わります。命がけで教えを広めて、イエスさまの教えが今日に伝えられたのです。

イエスさまは、人がどんなに弱いものか知り尽くされて、それを許され、温かく包み込まれる方でした。自分の弱さも過ちもすべて知って、それを許し受け入れてくれる人に出会ったとき、人は、「この人に自分のすべてをおまかせして、なんの悔いもない」と、生き方が百八十度転換してしまうのです。

私たち仏教徒にとって、すべてを受け入れ、抱えてくださるのは仏さまです。その仏さまのみ心を体して、三十三身を現じて救いを求める人のところへ現われ、手を差し伸べてくださるのが観音さまです。そのお慈悲に包まれて、私たちも観音さまのようになりたいと一心に努力していくと、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)で教えを広めてくださる人が、あとからあとから生まれてきます。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

めげるなよ

2019-04-14 07:02:55 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『「これだけはやりぬこう」と誓ったのに、またできなかったとガッカリしている人がおられるかもしれません。しかし、思い立っても実行がいかに難しいかを思い知っただけでも、一つの前進だと思うのです。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」と親鸞上人はおっしゃられます。ちょっと逆のように聞こえます。どんな悪人も広大なお慈悲でお救いくださる仏さまなのだから、まして善人をお救いくださらないはずがない、というほうが分かる気がします。

しかし、「私は、これっぽっちも間違ったことはしていない」と思い上がると、仏さまのお救いも、教えも求めなくなってしまうのです。自分の弱さ足りなさを本当に思い知った人は、真剣に教えを求めずにいられません。その自覚を持った人こそ、仏さまのいちばん近くにいる人なのです。

自分が弱くて間違いやすい人間であることを思い知ったら、新たな決定(けつじょう)をし直せばいいのです。今年だめだったら、来年は必ずと決心すればいいのです。それができれば願いは必ずかないます。懺悔(さんげ)とは、新たな決意で一歩を踏みだすことです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

働くひとは道具ですか

2019-04-06 07:06:38 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『二宮尊徳翁は、疲弊した貧しい村をよみがえらせる「村興しの神さま」と尊敬されました。尊徳翁は、人として生きるいちばん大事なことは「勤」、つまり生活に必要なものを作りだすこと、「倹」それを浪費しないこと、「譲」それを人に譲ることの三つであると説き、とくに「譲」の大切さを強調しました。

いまは時代が大きく変わってしまって、勤勉が悪徳のようにいわれることがあります。

効率よく利益を得るためには手段を選ばない、といった考えがまかり通っているようにもみえます。しかし、それがどんな社会を招いてしまうか。

すでにその兆候が、社会のあちこちに現われ始めているのではないでしょうか。

経済とは、全体と個が互いに生かし合いながら、みんなの幸福を実現していくこと、つまり「共生」の規範を意味する言葉だったといいます。自分の儲けだけを考えるのでなく、人さまの利益を優先して一心に働き、得られた利益を、また社会に還元していく。それによってもたらされる物心両面の豊かさこそが、真の豊かさでありましょう。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

失敗を恐れずにトライしよう

2019-04-05 07:53:11 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『失敗が好きな人はいませんが、極端に失敗を恐れて何もしない、何もできないという人が、若い人に多くなっていないでしょうか。事を始める前に結果を考えたら何もできません。

とにかく、まず全力を尽くしてやってみる。それで思うような結果が得られなかったら、やり直せばいいのです。お釈迦さまでも、そうなのです。お釈迦さまは、命をけずるような苦行を六年間も続けられたのですが、それが悟りへの道でないと知って、やめてしまわれました。

私たちは、せっかく大学を出たのにそれがなんの役にも立たなかったら大失敗と考えますが、大学で何年間か努力してみなければ、それがむだかどうかも分からないわけです。この世に、なんの役にも立たないむだなどあるはずがありません。その失敗の裏側に、成功があるのです。お釈迦さまのお悟りも苦行に命をかけられた六年間があってこそ得られたのです。

私たちの目に成功と映り失敗と見えることも、一つのことの表裏です。失敗の屈辱を通して得た教訓は、二度と忘れるものではありません。なにごとにも全力を尽くすと、失敗が成功につながり、成功に奢れば失敗が待ち受けています。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント

人事異動の受け止め方

2019-04-01 10:17:00 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『新年度は、どこでも配置転換や異動があります。抜擢されて意気込む人もいますが、その陰には、「会社は、私の働きを評価してくれない」と、すっかり落ち込んでしまっている人もおられると思うのです。

私たちは「嫌なこと」と「うれしいこと」を二つに分けてしまいがちで、自分の意にそわないことはあくまでも拒絶して、気に入るほうだけを歓迎するのですが、じつは禍福はひと続きのもの、表裏一体のものなのですね。

雨がふれば、次は晴れる日がきます。晴れが続けば、次には雨のふる日がきます。いつも春や夏のような陽気が続くつもりで有頂天になっていると、冬の寒さに震えなくてはならなくなってしまいます。しかし、冬の日に力を蓄えておけば、その力を思いっきり発揮できる春が必ず訪れるのです。

栄転がチャンスなら、左遷もチャンスです。それをどちらに変化させていくか、自分の受け止め方次第です。「いま自分に与えられたこの場が修行の場」と腹が決まると、たちまちそれが結果になって現われてきます。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

コメント