四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

ひとの言葉に振り回されるな

2019-11-24 09:32:45 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『「魔がさす」という言葉があります。人はついフラフラとして欲に目がくらんだり、誘惑に負けたりすることがよくあるのです。それで、ずるずると堕落していってしまうことも少なくありません。

まるで魔神が人間の貪欲(とんよく)につけこもうと、いつも狙っているようにも思えるのですが、その魔神も歯が立たない相手がいるといいます。それはどういう相手かというと、欲のない人間、貪欲を捨て切ってしまった人間だそうです。魔神といえども、そういう人は誘惑するきっかけがつかめない。

魔には、誘惑の魔と脅迫の魔があるといわれます。お釈迦さまが悟りを開こうと禅定に入っておられたとき、魔が美しい女人に身を変じて媚を売り、修行の妨げをしたと伝えられています。それでもお釈迦さまが動じられないと、こんどは恐ろしい顔をした男の形で刀や槍をもって脅かすのですが、お釈迦さまは少しも動じるところがなかったと伝えられています。

人にほめられても有頂天にならず、けなされてもしょげることがないまわりの変化に影響されない心を持てたら鬼に金棒です。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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代議士の役割は

2019-11-21 21:44:49 | 生かされて今日

 『元来議会なるものは、言論を戦わし事実と道理の有無を対照し、正邪曲直の区別を明らかにし、もって国家民衆の福利を計るがために開くのである。

しかして投票の結果がいかに多数でも、邪を転じて正となし、曲を変じて直となす事はできない。故に事実と道理の前には、いかなる多数党といえども屈従せざるを得ないのが議会本来の面目であって、議院政治が国家人民の福利を増進する大根本は、実にこの一事にあるのだ。しかるに・・・表決において多数さえ得ていればそれで満足する傾きがある。

すなわち議事堂は名ばかりで実は表決堂である。』

 

 「憲政の神様」と言われた尾崎行雄、咢堂の言葉です。日本の国政は半世紀前から国会審議がいっこうに変わらない体たらくです。議論して「融合させる智慧」が出ないのでしょうか。なんでも多数決で押し切るのなら代議士はロボットでいいのだ。総理大臣と桜を見る会の税金にたかる公私混同は幼稚で情けない。人格、こころざしが問われます。

 

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お陰様に気づく

2019-11-15 06:18:24 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『私の誕生日を、たくさんのみなさんにお祝いしていただいてしみじみと思うのは、「お陰さま」のありがたさです。

「お陰」とは、目には見えない陰の力、はたらきのことです。振り返ってみますと、この世に生を授けてくださった両親をはじめ、育ててくださった恩師や先輩の方々、修行を共にしてくださった会員のみなさん、力を貸してくださる世界の宗教界の先生方……。

そうした数えきれないお陰さまを頂戴し、仏さまのお見守りをいただいて、今日この日を迎えられた幸せを、かみしめずにはいられません。

自分の力、多くの人びとの力、そして神仏のご加護の三つが一つにならないと、どんな小さなことも成るものではない、と山田恵諦猊下(比叡山延暦寺)はいつも教えてくださっておられます。

「幸せとは、ありがとうと言えること」と言われた方がいました。私は毎日の日記の最後に、「今日も楽しく一日を終わらせていただくことができた。ありがたいお手配だった」と書かせてもらうのです。』

庭野日敬著『開祖随感』より

 

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子どもの名前読めますか

2019-11-12 13:37:33 | 生かされて今日

下記は小学校の生徒さんの名前です。あなたは幾人の名が読めるでしょうか。

桜衣(あい)、心映(ここは)、才彩(さあや)、心実(ここみ)、

巧真(たくま)、唄汰(うた)、茉優(まひろ)、望愛(のあ)、

琉衣(るい)、真依(まい)

私はこの10人お子さんのが読めませんでした。担任の先生方は大丈夫でしょうか。今を去る約700年前に兼好法師が嘆いて「徒然草」に書いています。

『寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。

この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。

何事も、珍らしき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。』

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受け止め方次第です

2019-11-06 07:06:20 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『菜根譚(さいこんたん)』という書があります。中国の古い時代の書で、すぐれた処世哲学が説かれているのですが、その中に、「耳には耳の痛いことばかり。胸には無念なことばかり。それがわが玉を磨く砥石となる」という言葉があります。その言葉を、会社に入社した青年時代から五十年間、つらいことがあるたびにかみしめ直してきた、という経営者の方がおられました。

 

「毎日、もう嫌なことばかりだ」と腹を立てて過ごすか、耳に痛い言葉も自分を励ます言葉としてかみしめていくかで、その人の人生が、まるで違ったものになってしまうのではないでしょうか。

 

うれしくなるような言葉は、めったに聞けるものではありません。躍り上がるような喜びは、そうあるものではありません。入社したばかりの新人時代は、つらいことやくやしいことばかりのように思えても、それを素直な心で受け止めると、その一つ一つが貴重な教えになっていくのです。

 

自分を磨いてくれるお師匠さんが、まわりにたくさんいるのですが、それを善き師、善き教えにしていけるかどうかの決め手は、やはり素直な心になれるかどうかにあると思うのです。』

 

庭野日敬著『開祖随感』より

 

 

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オヤジさん奮起せよ

2019-11-05 07:34:28 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

『子どものころの私にとって、父は最高のお手本でした。いつも体の弱い母親を気遣い、難しい仕事は自分が全部引き受けて、それぞれの子どもの分に応じた仕事を、手をとって教え、覚えさせていくのです。父にそうして厳しく仕込まれたお陰で、私は、のちに上京して奉公するようになっても、奉公先の仕事がまことに楽なものでした。

理想の父親像についていろいろに言われていますが、最近、父親の影響力が弱くなっている原因は、父親が自信を失ってしまっていることにあるのではないでしょうか。

この社会は、秩序というもの、ルールというものがなくては成り立ちません。そのことを教える父性は、いつの時代にも欠かせない大切なものです。それによって公私の区別、善悪の区別を子どもたちが身につけていくわけです。

権威を振り回す父親ではなく、子どもが心から尊敬できる父親であることが、なによりも大切だと思うのです。

一家に心棒があることで、子どもは社会で生きていくルールと責任感を身につけていきます。

父親の影が薄れてしまうと、この社会全体が心棒のないものになってしまいます。

庭野日敬著『開祖随感』より


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