四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

コロナ危機の受け止め方

2020-06-18 05:57:26 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『信仰とは、神仏がいつも自分を見守っていてくださるのを信じきってしまうことです。仏さまがいつも見守っておられたら、どんな小さな嘘も、ごまかしもききません。ちょっと考えると窮屈のようですが、それが信仰のいちばんの功徳なのです。

 真っ正直に生きていれば、「あの人は、これっぽっちもごまかしのない人だ」と、だれからも信用され、大事な仕事をまかせられるようになります。

 そして、さらにありがたいのは、毎日起こってくるすべてのことを「仏さまのお手配」と素直に受け取れるようになることです。

自分の浅はかな考えであれこれ才覚するよりも、すべてをお見通しの仏さまにおまかせして、自分の最善を尽くすほうが、どれほど安心か分かりません。まかせきれること、それが大安心です。

 私たちのほうから「ああしてもらいたい、こうしていただきたい」とお願いするだけでは、仏さまに請求書をつきつけているようなもので、本当の信仰とはいえないのですね。

仏さまは、いまの自分にいちばん必要なものをお手配くださるのだと、ありがたく頂戴するのが信仰です。』

                  庭野日敬著『開祖随感』より

 

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独りよがりでは

2020-06-15 08:29:06 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『仏教の教えの基本が、すべての存在は他との関係(縁)なしにはありえない、という縁起観であることは、みなさんもよくご存じのとおりです。その教えをどう実践に移していくかです。

 まず、自分が今日一日を無事に過ごせるのはだれのお陰であるのか、どれだけの人の助けをいただいているか、その縁起を知ることが報恩行の出発点です。

 私たちは仕事が順調に進んでいるときには、すべて自分の力、自分の努力の結果だと思い込んで得意になっているのですが、それが、どれだけ多くの人の後押しによってなっているか、毎日、振り返ってみる習慣をつけてしまうことが大切です。朝夕の経典読誦のご供養は、その行の一つなのですね。

 いつも、まわりの人たちへの感謝を忘れずに、その感謝の気持ちを素直に表わしていく生き方と、自分を過信して得意になったり、努力が報われないと恨んだりする生き方とでは、天地の開きが出てしまいます。

 先祖供養も、親孝行も、菩薩行も、すべて今日の自分をあらしめているものへの恩返しの行なのです。』

                  庭野日敬著『開祖随感』より

 

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3か月ぶりの句会

2020-06-12 16:26:32 | 生かされて今日

 月例の句会は新型コロナのために3か月間開催できませんでした。昨日ようよう感染防止策を守ることを条件に、先生、句友とご対面となりました。

密集を避けるために、従来よりバカに広い部屋となり、会場費もアップです。

次の利用者のため換気するので15分前には会場を引き上げるようとのお達しです。

 旦那様の看病のため家を空けられない方、黒南風で足のわるい最高齢男子の二人は投句だけとなりました。おひとりの婦人が見学で来てくれました。

 珍しくちしろ先生が私の3句を取っていただいて嬉しいことでした。

 

〇つる薔薇の百が雪崩れて来たりけり  駿

〇桑の実や島の遊びをひとくさり    駿

〇待ってーと庭の花にら束に持つ    駿

〇そよ風は小さな祈りねむの花     ちしろ

〇道連れはかすかな狂気朴の花     ちしろ

〇脳だけが活きててる夜中あげ羽舞う  かづ

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闇にともしびを

2020-06-12 05:38:50 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『江戸時代の有名な儒者だった佐藤一斎に、「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一灯をたのめ」という言葉があります。

時代の流れが大きく変わるときは、真っ暗闇の夜と同じで、何か手がかりが欲しくなります。

 それで、あれこれ新しい情報を求めるのですが、結局、それに振り回されるだけに終わることが多いのです。目先の動きに目を奪われて、長期的な見方ができなくなってしまうからです。

変動がはげしいときほど、頼める一灯を持たなくてはならないのです。

 日蓮聖人は、「木の根が深ければ枝葉は枯れず、水源に水があれば流れはかれない。薪がなくなれば火は絶え、大地がなくては草木は生長することができない」と教えておられます。

 どっしりした基礎を持たなくては、いくら最新情報を集めてみても、何をどう変えればいいのかさえ分からなくなってしまいます。行く先ばかりを見定めようとあせらず、まず足元を定めなくてはなりません。』

                          庭野日敬著『開祖随感』より

 

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