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アッくんの長岡京新聞社

アッくんの周りで起きる小さくて明るい話題を贈ります。

開田城の土塁の盛り方をタイルでデザイン化

2013年09月25日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年9月25日(水)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 開田城土塁公園に来ています。

 開田城は1辺が70mの四角形で
 平地に土塁と堀を設け
 石垣や城のない館城(かんじょう)と呼ばれるものでした。

 戦国時代の前半
 国衆のひとり 中小路氏の居館だったそうです。

 土塁は堀を掘った土で造られています。
 土塁の高さは約2mで幅6m
 堀は深さ1.2~2.3mで幅8mなので

 堀底と土塁の高低差は3~4mあったようです。
 脚立では届かないかも・・・

 写真の壁は土塁の盛り方をタイルでデザイン化したもので
 盛り方の様子が伺えます。

 以上 開田城土塁公園から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 実際にみると大きいね
「掘って盛ったというけれど・・・
 3~4mの高低差
 土木仕事としてはシンドかっただろうね」
「だよね。ボクたちには無理だね
「あたりまえでしょ
 スコップどころか・・・
 鉛筆で 次の日にミが入るくらいだから

写真の場所はココです!)


明智光秀の本陣は境野1号墳?

2013年09月06日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年9月6日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 大山崎町の境野1号墳に来ています。

 ここは山崎の合戦のとき 明智光秀が本陣にしたのでは?
 と言われています。

 太閤記に出てくる光秀の本陣は
 御坊塚(おんぼうづか)という場所に五千の兵とあり

 空堀跡や火縄銃の鉄砲玉も見つかっていて
 標高は25mあったココが
 きっと本陣であろうと思われていましたが・・・

 近年になって長岡京市の恵解山古墳周辺から様々な遺構が出土し
 どっちの古墳が本陣だったのか

 たのしみな議論が生まれています。

 以上 境野1号墳から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 境野1号墳と恵解山古墳はどっちが大きいの?
「どちらも前方後円墳で
 境野1号墳は全長60m
 恵解山古墳は全長125mだから・・・」
「大きさでは恵解山?
「本陣の可能性 あります」
「こうなったら光秀さんに聞いてみよう!
「それができたら・・・楽しくないです

写真の場所はココです!)


寂照院の仁王像

2013年08月30日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年8月30日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 奥海印寺の寂照院(じゃくしょういん)の仁王門に来ています。

 仁王門の左右に 恐い顔をした仁王像が見えるでしょうか?

 右の像は『阿(あ)形』
 左の像は『吽(うん)形』で身長は2.4mもあります。

 実はこの仁王像の中から日本で最も古いものが見つかったのです。

 それは昭和40年のこと
 700人の名前を書いた書類が見つかったのです。

 名前は仁王像を建てるための資金を寄付した人たちのものでしたが
 その書類の裏には『御成敗式目』が書かれてあったのです。

 『御成敗式目』は武士のルールで鎌倉時代に出来たもの
 仁王像の中にあったのは その写しで
 日本最古の写しだそうです。

 以上 寂照院(じゃくしょういん)の仁王門から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 右の仁王像が『阿』で左が『吽』ということは・・・
「阿吽(あうん)です。
 仁王さんの口の形が『あ』『うん』でしょ」
「あ?。。。うん?
「わからないンだ。。。」
「阿吽(あうん)の呼吸とは・・・いかないようで・・・

写真の場所はココです!)


恵解山古墳のふき石

2013年08月12日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年8月12日(月)

「へーこれが1600年前の石?ママレモン
「らしいワ なんでも古墳の坂のところに
 たーくさん積んであったそうよ アッくんパパ」
「何の意味があるの?石を並べて?
「一説では目立つためのようよ
 権威の象徴だって」
「そうなのかー
「どこ行くの?」
「石ひろってくる!体につけて権威をまとうンだ!ウフフ
。。。アカン。。。」

恵解山古墳の場所はコチラ
8月25日(日)午後1時半から特別講演会が催されます
 くわしくはコチラ!)

勝龍寺城土塁跡から幻の神足城の堀跡?

2013年08月04日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年8月4日(日)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 勝龍寺城の土塁跡の
 埋蔵文化財調査の現地説明会に来ています。

 写真をみてください

 勝龍寺城の土塁跡は
 写真の土塁の上から
 弓矢や鉄砲を射掛ける
 横矢掛け
 と呼ばれる盛り方をしています

 この土塁の構造を埋蔵文化財調査したところ

 幻の神足城の堀らしきものが見つかったそうです。

 写真 中央
 縦に掘った調査跡の下の部分に
 黒っぽい 逆台形の形をした部分がみえるでしょうか?

 それが神足城の堀ではないか?というのです。

 中世の土豪 神足氏の居館は幻の城

 もしかすると細川幽斎は織田信長に命じられ
 堀を埋め
 横矢掛けの土塁を盛ったのではないでしょうか?

 以上 勝龍寺城の土塁跡 現地説明会から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 土豪だった神足氏の堀跡がイマイチわからないンだけど・・・
「縦に掘った跡があるでしょ
 その下のところです」
「どこ(≒土豪)ですか?
。。。」

写真の場所はココです!)


勝龍寺城土塁跡は横矢掛り跡

2013年07月02日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年7月2日(火)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 勝龍寺城の土塁跡に来ています。

 埋蔵文化財調査で竹が伐採されて
 土塁の様子が判ってきました。

 写真の左奥に勝竜寺城公園のあずまやが写っているのがわかるでしょうか?

 城の本丸に向かって敵が押し寄せたとき

 攻め込んだ敵と戦うための防御施設
 土塁と空堀が残っています。

 特徴的なのは門に向かって突入する敵を
 横から射るため
 土塁を盛っている点です。

 ちょうどブルーシートがかかっているあたりです。

 あの場所から城へ侵入する敵に向かって
 弓などで攻撃するそうです。

 敵は前と横と2方向から射掛けられてしまうのです。

 この構造は横矢掛りというそうです。
 城の出入り口に造られる
 桝形小口(=虎口=こぐち)の形をしています

 後の織豊時代(しょくほう時代)の近代城郭につながる
 初期の織田信長の城づくりが伺えるそうです。

 以上 勝龍寺城の土塁跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あの土塁の上から
 八重さんにスペンサー銃で撃たれているような気がする・・・
NHK大河ドラマの見すぎじゃない?大丈夫?」
「さすけねぇ(≒大丈夫です)

写真の場所はココです!)


長岡京時代の東一坊六条の交差点を発掘

2013年06月29日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年6月29日(土)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 神足大張の埋蔵文化財発掘現場に来ています。

 駐車場だったこの場所に
 店舗が建築されるため
 埋蔵文化財調査を行ったところ
 長岡京時代の交差点が発掘されたそうです。

 交差点の発掘は
 過去に何度か経験しているそうですが

 ここの交差点が他と違うのは
 水路が南北に流れ 橋もあったと言う点です

 他の交差点は東西優先だったのに
 ここでは違うそうです

 さて 交差点は東一坊大路と六条大路の交差点と言うので
 平安京に重ねてみますと

 大宮五条をさがったあたりになり
 東市があった付近になるそうです

 昔の市に店舗ができる・・・

 やはり時代は巡るのでしょうか?

 以上 長岡京時代の交差点から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「店舗って具体的に何?
「さあ・・・」

写真の場所はココです!)


歴史秘話ヒストリアで紹介された恵解山古墳の明智軍本陣

2013年06月27日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年5月27日(木)

「昨日NHKの歴史秘話ヒストリアを見ました?アッくんさん」
「え?何かあった?イチョウくん
「見てないンですか?昨日は
 『悲劇の父娘 反逆の果てに
 ~本能寺の変 明智光秀と家族の運命~
』と題して
 長岡京市の勝竜寺城公園や神足神社など
 テレビで紹介されたンですよ」
「そうだったのかー
「中でも山崎の戦いで明智光秀の本陣になったかも?
 ということで
 復元整備中の恵解山古墳も紹介されてましたよ」
「堀が掘られた跡や
 鉄砲玉が発見されたりしたンだろ?
「・・・見てたのですね」
「秘話だけに ひっそりヤ(≒ヒストリア)」


民家裏架道橋

2013年06月20日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年6月20日(木)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 民家裏架道橋に来ています。

 馬場民家裏にあるから民家裏架道橋というそうです。

 昭和44年7月15日から工事を始め
 翌年4月に完成しました。

 以前は踏切だったそうです。

 基礎は栗石で根入れは天端(てんば)から5m75cmあるそうです。

 以上 民家裏架道橋から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「『てんば』って?
「土木用語です。
 頂点の点を天で 天の端だから 天端(てんば)っていいます」
「じゃじゃ馬 娘じゃないンだ
「それは お転婆(てんば)です」

写真の場所はココです!)


国登録有形文化財 河合家住宅

2013年05月21日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年5月21日(火)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 河合家住宅に来ています。

 河合家住宅は
 江戸時代後期から大正時代の建物で
 丹波街道沿いにある
 乙訓地方の大型農家だったようです。

 建物の中に入ることはできませんが
 長岡京市観光協会のブログ
 長岡京市のホームページ
 趣きは想像できるでしょうか

 写真の土蔵
 白い部分がしっくい塗り
 板は堅板と重厚で

 敷地全体の景観を引き締めているそうです。

 この家は明示13年に
 当時の乙訓郡の総代や区長などを歴任された
 河合辰直(かわいときなお)さんが取得されたそうで
 行政官の住宅の様子が今に伝わるそうです。

 以上 河合家住宅から
 イチョウくんの建もの探訪でした!」

パチン!(電源OFF)

「イチョウくんの建もの探訪?
「渡辺篤史みたいでしょ」
「♪と~きど~き 遠くをー見つめ~る・・・のヤツでしょ?
「建もの探訪の主題歌
 小田和正さんの『between the word & the heart』って曲ですね
 ところで
 国の有形文化財に指定されたのは
 主屋と土蔵に・・・

 あれ?聞いてます?
「♪どーんなに 小さーな 声でーも
 きっと いつもー聞いてるから~
。。。」


京都府立総合資料館の長岡京市のコーナー

2013年04月12日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年4月12日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 京都府立総合資料館に来ています。

 ここには京都府のさまざまな資料を見ることが出来ます。

 古文書 行政資料 写真 現物資料など
 調べたいことがあれば検索できます。

 今日は長岡京市の歴史を調べに来ました。

 目の前にあるのが長岡京市のコーナーです。

 ドンと長岡京市史 全7巻がそろっています

 今後の取材のため 読み込みたいと思いますが・・・

 以上 京都府立総合資料館から
 イチョウくんのリポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「でも ムリかあ~」
「いつ読むか・・・


 今でしょ


「・・・

写真の場所はこちら!)


恵解山古墳から甲冑埴輪

2013年03月21日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年3月21日(木)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 恵解山古墳に来ています。

 保存整備工事も進み
 いろんなものが発見されました。

 当時の盛土や葺き石など
 貴重な資料が 数多く出土しているそうです。

 古墳の西側ガケ部からは
 甲冑型埴輪(かっちゅう型はにわ)の破片が見つかりました。

 甲冑とはヨロイのこと

 「恵解山古墳を愛する人」だよりによれば・・・

 こんな感じです。

 いろんな謎に 少しでも近づければ いいですね。

 以上 大山崎町の天王山・名の由来が書かれた看板前から
 イチョウくんのリポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「へぇー埴輪っていろいろあるンだー
3月27日には国史跡恵解山古墳保存・整備委員会が開催され
 傍聴できるそうですよ」
「見に行ってもヨロシ?(≒ヨロイ)
「・・・

写真の場所はこちら!)


天王山・名の由来が書かれた看板

2013年02月21日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年2月21日(木)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 大山崎町の天王山・名の由来が書かれた看板前に来ています。

 大山崎町とは言っても
 阪急の踏切を渡ってすぐのところなので
 ほぼ長岡京市です。

 新駅の名前 西山天王山駅の
 天王山の名前の由来が掲げてあります。

 お客様をおもてなしするのには
 いいと思います。

 さて

 その由来ですが看板には

 山頂の神社
 酒解神社のご祭神が
 牛頭天王で

 その天王の名前が山の名前になり

 天王山と呼ばれるようになった・・・

 と書かれています。

 以上 大山崎町の天王山・名の由来が書かれた看板前から
 イチョウくんのリポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「へぇー天王山は
 天下分け目の合戦があった場所だシ
 すっかり

 下の座を競う

 で 天王山だと思ってたヨ~
「あながち・・・当たってるかも・・・

写真の場所はこちら!)


五辻の常夜灯

2013年02月09日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年2月9日(土)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 向日市の五辻の常夜灯前に来ています。

 五辻の常夜灯は
 幕末のころ

 眼病に効く水で有名な楊谷寺へ参拝する人のため
 柳谷道の起点となるこの地に
 寄付で建てられた常夜灯があったそうです。

 常夜灯は交差点の北と南にふたつあったンですが

 北の常夜灯は昭和44年に工事のため
 裏参道と言われる島本町と長岡京市の行政境付近に移設され

 南の常夜灯は昭和の始めの道路工事のため
 長岡京市の梅が丘に移設され

 五辻から常夜灯はなくなってしまいました。

 それを地元の人々や関係者が
 裏参道に移設されていた1基を
 復活させたものだそうです。

 この常夜灯を中心に絆を深めて
 まちの活性化をはかっていくそうです。  

 以上 五辻の常夜灯から
 イチョウくんのリポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「へぇー常夜灯に このような経過があったンだ
「そうやど(≒じょうやとう=常夜灯)」
「・・・

写真の場所はこちら!)


長岡天満宮の建造物

2013年01月12日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年1月12日(土)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡天満宮へ初詣に来ています。

 お祈りしている長岡天満宮の建造物です。

 天満宮の建造物はもともと 八条ケ池や桂離宮を造った八条宮家を祭る神社として江戸時代整備され
 その後 明治35年の菅原道真公の千年忌を契機に 社殿の建築が進められたそうです。

 昭和16年になると平安神宮から本殿や祝詞舎 すき塀が移築されています。

 その本殿は平成23年 京都府の指定有形文化財に
 そして本殿以外の建造物は昨年11月に
 長岡京市の指定有形文化財に指定されました。

 近代の優れた建造物が建ち並ぶ社観
 大事にしたいですね

 以上 長岡天満宮から
 イチョウくんのリポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「へぇー天満宮の建造物に このような由緒があったンだ
「天満宮は開田村の氏神さまなんですよ」
「氏神さま?アッ!今年も乙訓鎮座神社巡りしなくっちゃ!ご朱印もらいにいこ 
「・・・

写真の場所はこちら!)