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アッくんの長岡京新聞社

アッくんの周りで起きる小さくて明るい話題を贈ります。

土塁下層の堀(勝龍寺城土塁跡)

2015年05月12日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成27年5月12日(火)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 勝龍寺城の土塁跡に来ています。

 正面の土塁の斜面
 真ん中辺り 少し色がちがうの 判るでしょうか?

 その部分が発掘調査で判った
 土塁下層の堀です

 細川幽斎さんが勝龍寺城を整備する以前からあった堀で
 当地を拠点とした土豪
 神足氏の城館に関する施設ではないか?
 と考えられています

 以上 勝龍寺城の土塁跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「堀は幅4.5m 高さ1.5mの逆台形だったそうです」
「土塁の下に堀があったンですね」
「いいえ。堀の上に土塁ができたンです」
「たしかに」

写真の場所はココです!)


横矢掛かりの虎口

2015年04月17日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成27年4月17日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 神足公園の勝龍寺城土塁跡ゾーンに来ています。

 正面の土手は 土橋です。
 攻めてくる敵は 城が土塁や堀で囲われているため
 この土橋を渡って城の中へ入ろうとします。

 城を守る側は この場所にいて
 土橋を渡る敵兵を 弓や鉄砲で射掛けるのです。

 よく見えるでしょ?敵も丸見えで打つ手がありません。

 このような側面攻撃を意識して
 わざと折れ曲がった土塁を造っているのです。

 これを横矢掛かりとよびます。

 以上 神足公園の勝龍寺城土塁跡ゾーンから
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「城の入口を虎口って言うンですよ」
「とらぐち?
「こぐちと読みます」
「こぐちって あらかじめ前渡しされる現金でしょ?
 領収書の整理がまだで・・・
「それは小口現金です
「怒ると・・・虎みたい
「。。。
写真の場所はココです!)


恵解山古墳公園の東造り出し

2015年03月15日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成27年3月15日(日)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 恵解山古墳公園の八小側の”東造り出し”に来ています。

 造り出しとは
 お刺身を出してもらうことではありません

 古墳にくっついてる部分で
 様々な行事を行うための施設のことです

 西の造り出しは 舞台仕立てですが
 東は 緩やかな斜面になっており
 洲浜のようです。

 ここから水鳥形埴輪が発見されました。

 この施設でどのような行事が行われていたのでしょうか?

 以上 恵解山古墳公園から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「古墳の堀に取り付く港かなあ~
「港ね
 とすると ここが出入り口って考えてもイイかも」
「太陽が登ってくる方角でもあるシ
「何をしてたンでしょう」
「興味わくね
写真の場所はココです!)


勝龍寺城の南北土塁跡を表現した擁壁

2014年12月27日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年12月27日(土)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 神足公園の勝龍寺城土塁跡に来ています。

 この勝龍寺城の土塁と空堀は
 細川幽斎さんが 勝龍寺城を改造した際
 本丸から100メートル離れたココに設けたもので

 東西方向に長く続いていたそうですが
 ちょうど神足公園のこの辺りで 凹状になっており
 守りを固め敵を迎え撃つ構造になっていたようです。

 擁壁のタイルで土塁の大きさが表現されているのはわかるでしょうか?
 これは南北方向に土塁が続いていたことを表しているそうです。
 自分の背よりも高く その大きさにびっくりします。

 頂上から矢や鉄砲が飛んでくるかも? 

 以上 神足公園の勝龍寺城土塁跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「アッ!何か飛んでくる!
「え!逃げて 早く!」
「ごめん 枯葉だった
写真の場所はココです!)


長法寺のおぼろの泉

2014年11月25日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年11月25日(火)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 紅葉狩りをかねて長法寺に来ています。

 長法寺は昔 京都西山の大寺だったそうです
 山号は『清巌寺』
 名前の由来は 岩穴から清涼な水が湧き出しているためで
 今まで枯れたことはないそうです。

 以上 長法寺おぼろの泉から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「ところで”おぼろの泉”って 漢字でどう書くの?
「溺れる水で”溺水”です」
「ココは水じゃなく紅葉に溺れそうなんだけど・・・

写真の場所はココです!)


小畑川の溢水を堰止めるための切り込み跡

2014年09月19日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年9月19日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 神足屋敷に来ています。

 右手に見えるコンクリートの壁
 真ん中あたり 縦に切り込みが入ってるのは わかるでしょうか?

 この切り込みは小畑川の水が溢れたとき
 この場所で堰止め(せきどめ)
 川の水が在所に流れ込まないよう
 板をはめ込むために設けられたものです。

 以前は 対面にもコンクリートの壁と切り込みがありましたが
 今は片方だけが残っています。

 このような水害から街を守る工夫
 今も残っているンですね

 以上 堰止めの切り込み跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「ゴホン!ゴホン!あー風邪ひいたー
 咳止め持ってない?
「堰止めしか知りません

写真の場所はココです!)


佐藤家住宅

2014年08月13日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年8月13日(水)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 国の有形文化財に登録されている佐藤家住宅に来ています。

 乙訓の農家のようすを伝える建物で
 代々 庄屋や村長など務められた家だそうです。

 中には入れませんが 長屋の門 路地の門
 主屋や雑具藏 新藏 西米藏 東米藏
 庭塀 高塀などなど・・・
 歴史を感じるものがたくさんあります。

 目の前にある築地塀は江戸時代中期のもの
 明治維新を体験した建物の雰囲気出てますね

 以上 佐藤家住宅から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「ところで アッくん住宅は登録される?
「考えが甘い」
「砂糖(≒左藤)だけに?

写真の場所はココです!)


勝龍寺城跡の土塁・空堀の発掘調査

2014年08月02日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年8月2日(土)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 勝龍寺城の土塁跡に来ています。

 昨年の埋蔵文化財調査に引き続き
 勝龍寺城の土塁や空堀の規模や構造を調べる調査を実施されました。

 その結果 細川幽斎さんが
 勝龍寺城を改修する際
 神足城北辺の土塁や堀を活用して 大きなものにし
 土橋の両側に横矢を設けたようです。

 以上 勝龍寺城の土塁跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「細川幽斎さんは 神足城を吸収して勝龍寺城を改修したンですね
 で・・・
 神足城の堀ってどこ?」
「詳しくは 本日10時から現地説明会で聞いてください」
「・・・ですよね」

写真の場所はココです!)


長岡藩家臣ゆかりの光林寺

2014年05月09日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年5月9日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 浄土宗光林寺に来ています。

 光林寺には江戸時代初期
 長岡藩主 永井日向守直清の家臣たちの墓や
 家臣達が寺に寄付した 像などが残っています。

 永井直清は二代将軍徳川秀忠の家臣で
 老中となった兄の直政と共に 徳川幕府をささえました。

 永井直清は大阪夏の陣で ヨロイ武者二人を討ち取り

 知の兄 武の弟と言われたそうです。

 永井直清は1633年に2万石の勝龍寺城主となり
 京阪の抑え役として活躍します。

 勝龍寺城をJR長岡京駅付近に移築する事業に着手し
 農家を他へ移し 家臣たちに住まわせます。

 その後 1649年に高槻城主になり長岡藩は廃藩となります。 

 以上 光林寺から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 勝龍寺城はふたつあったのですか?
「はい。初代は勝竜寺城公園のところにあり
 二代目はJR長岡京駅付近に永井直清さんが移築しています
「それは知らなかった じょう(≒城)」
「。。。」

写真の場所はココです!)


塚本古墳公園の古墳花壇

2014年04月21日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年4月21日(月)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 塚本古墳公園に来ています。

 塚本古墳は
 古墳の規模は全長約30mと小さいのですが
 出土した埴輪が多彩で
 きっと 大きな権力をもった豪族の墓であろうと
 思われています。

 花壇をみてください。
 古墳の形をしているでしょ?

 以上 塚本古墳公園から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 古墳の方向は あってます?
「違いますよ。古墳花壇はイメージです
 どんなだったか 想像してください」

写真の場所はココです!)


倒れた鳥居の石組み(角宮神社)

2014年03月30日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年3月30日(日)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 角宮神社に来ています。

 この石組みは 倒れた鳥居で作られています

 倒れた鳥居は 1708年
 五代将軍徳川綱吉の御代に
 石田七郎兵衛政次によって角宮神社に奉納されたものです。

 この鳥居の部材を使って

 角宮神社が『祈雨の神』だったので

 鳥居の笠木は船に
 柱石は島
 周りの栗石は水を表し

 彫刻家 山本哲三さんがデザインされたそうです。

 船は何隻あるでしょう?

 以上 角宮神社から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 船が島に近づいているのか
 それとも 離れているのか
 どう思う?
「どっちにも取れますね」

写真の場所はココです!)


長岡京市内で見つかった伊藤博文から西園寺公望への手紙

2014年02月14日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成26年2月14日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡京市立図書館の展示コーナーに来ています。

 ここに長岡京市内で見つかった
 西園寺公望(さいおんじ・きんもち)さん宛のご手紙が展示されています。

 公望さんは 伊藤博文首相のときに文部大臣や外務大臣になり
 その後 総理大臣になった人物です。

 伊藤博文さんは内閣総理大臣を初代・5代・7代・10代と務めたあと
 公望さんが臨時の内閣総理大臣になり

 11代総理大臣に桂太郎さんが就任し4年半の後
 公望さんが12代内閣総理大臣に就任します。
 2年半後 13代総理に再び桂太郎さんが就任
 そして3年後 14代総理に公望さんが再登板
 その1年半後 15代に また桂さんが総理
 と 足掛け12年間 桂⇔西園寺を繰り返す『桂園時代』を形成するのです。

 そんな西園寺公望さんに伊藤博文さんが宛てた
 モノホンの手紙がここにあります。

 書かれている内容は
 法律改正の意見に対するお礼のようです。
 
 達筆すぎて読めませんが
 時代を思いながら見ると 文字にパワーを感じます。

 以上 図書館から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 桂⇔西園寺を桂園時代と言うそうですが
 桂西時代でも良くないですか?
「どうして?西園寺の西だから?」
「違いますよー開業した西山天王山駅の西
 桂駅⇔西山天王山駅で
 桂西時代
「関係ないよね。。。

写真の場所はココです!)


秀吉(備中)大返し力水

2013年12月26日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年12月26日(木)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 西天(←西山天王山駅)の東口に来ています。

 これが地下水100%の水道水

 『秀吉(備中)大返し力水』です

 本能寺の変で 明智光秀さんが織田信長さんを討ち
 それを知った羽柴秀吉さん
 のちの豊臣秀吉さんが
 戦争を中断し
 200Km離れた岡山県(備中)から大返し
 2万5千人の大軍を率いて大山崎まで戻り
 光秀さんと頂上決戦

 天王山に勝利し秀吉さんは天下人としての第1歩を踏み出すのです。

 もしかして
 秀吉さんも光秀さんも
 長岡京市の水を飲んだかも?

 そんなことを思い考えながら・・・
 口に含んでみてはどうでしょう?

 以上 西天から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 力水(ちから水)は『地下ら水』と掛けてあるの?
「。。。

写真の場所はココです!)



勝竜寺城公園でお披露目された山鹿灯籠(長岡京ガラシャ祭2013)

2013年11月12日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年11月12日(火)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 勝竜寺城公園に来ています。

 ご覧ください
 長岡天満宮を形どった模型が置かれています

 これが 山鹿灯籠(やまがとうろう)です。
 模型なのに なぜ灯籠(とうろう)と呼ぶのか?

 それは九州の山鹿(←地名)に天皇が来られたことに由来します。

 天皇は第12代 景行天皇(けいこう天皇)

 霧で道に迷った天皇一行を
 住民たちが松明(たいまつ)で灯して
 神社まで道案内をしたことが起源で

 その後 毎年 松明を神社に納めることになり
 室町時代に松明から紙灯籠を納めることに変わり

 長い年月により・・・

 神殿造り・座敷造り・城造り等の灯籠へ変わっていったそうです。

 長岡天満宮の模型は神社に納めるための灯籠なのです。

 灯籠を造るの鉄則はみっつ

 一、和紙とノリだけで造ること
 二、パーツは空洞であること
 三、縮尺模型じゃないこと

 だそうです。

 ウンチクを頭に入れて
 よーく 見てくださいネ

 以上 長岡京ガラシャ祭2013から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 和紙の模型が
 なぜ灯籠と呼ばれるようになったのか
「さっき言いましたよね?
 景行天皇を導いた松明を奉納する儀式が
 起源だと・・・」
「もしかして・・・
 松明の灯りは
 蛍光(≒景行)灯の起源だったりして?
「。。。」

写真の場所はココです!)


復元される恵解山古墳のハニワ列

2013年10月24日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成25年10月24日(木)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 恵解山古墳保存整備の工事現場に来ています。

 目の前の盛土は後方部
 四角い山です。

 山の頂上部をみてください。
 陶器の置き物が並べられています。

 置き物はハニワ(埴輪)です。

 発掘調査の結果やその他の情報を元に
 さまざまな専門家によって
 恵解山古墳の当時の様子を再現しようとしているそうです。

 ハニワも 5世紀当時に作らてたものに近づけるため

 タテ線 ヨコ線 高さ 幅 厚み ゆがみ 色など・・・

 ひとつひとつ違うものを用意しているそうです。
 その数は600基以上

 工事が完成すれば その迫力に圧倒されるかもしれませんネ

 以上 恵解山古墳保存整備の工事現場から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)

「あのぉ・・・
 遠くからみると同じに見えるけど・・・
「陶器からみると違います」
「陶器(≒遠く)から見る?

写真の場所はココです!)