アッくんの長岡京新聞社

アッくんの周りで起きる小さくて明るい話題を贈ります。

掘立柱の柱根(長岡京跡右京第1158次調査)

2017年08月24日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月24日(木)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡第十小学校の長岡京跡右京第1158次調査の現地説明会に来ています。

 前回に紹介した大規模掘立柱建物ですが
 38年前の調査で柱の根が遺物として発見されており
 現物をみることができました。

 直径は40センチあります。かなり太い柱です。
 指でさされたところ
 四角く掘った穴の中心から
 発見されたものです。


 邸宅の場所は長岡宮大極殿から西へちょうど1キロメートルの場所で
 山や川の状況
 眺望などの関係から当時の1等地だったことが伺われ

 くしくもこの場所が
 右京二条三坊二町域の中心に位置することが判っています。

 以上 長岡第十小学校の長岡京跡右京第1158次調査の現地説明会からのレポートでした。

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「説明に夢中になってNHKのカメラを見失った・・・
「写る気だったの

長岡第十小学校はこちらです
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大臣か?皇族か?大型掘立柱建物(長岡京跡右京第1158次調査)

2017年08月20日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月20日(日)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡第十小学校の長岡京跡右京第1158次調査の現地説明会に来ています。

 写真をご覧ください。
 写真の上が南 下が北になります。
 右側が長岡第十小学校の校舎が建っている方向です。

 現地の様子と図面をごらんください。


 赤い大きな丸のところが掘っ立て柱の穴になります。

 写真と見比べてください。

 南北に21m 東西はひさしも入れて9m
 面積にして189㎡ 57坪です。

 現地にはその大きさがわかるようにテープが張られいます。

 38年前の発掘調査で写真の左で
 主殿と思われる大型掘立柱建物が発見されており
 今回の発見は 主殿の西脇殿にあたると思われます。

 東にも同様の建物があると想像され
 建物全体の規模は役所や離宮に相当する大きさですが
 長岡京の役所や離宮には瓦は発見されているのくらべ
 今回 瓦などの遺物はなかったので
 おそらく かなり身分の高い高級貴族か皇族の関係者の邸宅だった可能性が考えられるそうです。

 以上 長岡第十小学校の長岡京跡右京第1158次調査の現地説明会からのレポートでした。

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「アッ!カメラだよ?もしかしてテレビ?
「NHKですね。放送された様子はこちら!」


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南北の坊間小路優先(長岡京跡右京第1159次調査・東調査区)

2017年08月18日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月18日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡京跡右京第1159次調査の現地説明会に来ています。

 前回につづいて 東調査区を紹介します。

 写真をご覧ください。
 写真の上下が東西になります。
 左がマンダイで南です。

 前回紹介した西二坊坊間小路の西側側溝が写真奥
 手前が東側側溝になります。

 道幅は6.5m

 本来9mの道幅が狭いということは
 道路より側溝を優先していたことがわかります。

 さらに側溝は東西の道路を切って南北に流れています。

 東西の道路 六条条間小路から西二坊坊間小路へ行くときは
 側溝を渡る必要があります。

 つまり 条間小路よりも坊間小路のほうが優先されていました。

 なぜでしょう?

 以上 長岡京跡右京第1159次調査の現地説明会からのレポートでした。

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「ところで小路って何て読むの?
「『こうじ』といいます。」
「こうじ・・・長岡京駅前線の工事はいつから?
「産業文化会館にスケジュールが貼りだされていました。10月のようですよ」


またもや発見!現地説明会が明日19日10時から開催されます
 長岡京の中でも最大級の皇族または高級貴族の邸宅だったかも?
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西二坊坊間小路の大きな側溝(長岡京跡右京第1159次調査・東調査区)

2017年08月15日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月15日(火)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡京跡右京第1159次調査の現地説明会に来ています。

 前回は西調査区を紹介しましたが
 今回は東調査区を紹介します。

 写真をご覧ください。
 写真の上下が東西になります。
 マンダイ側が南です。

 水たまりのあるところが西二坊坊間小路の西側側溝
 深いでしょ?

 他の地点で発見した条坊側溝より規模が大きいンです。

 で 深い側溝はどこまで続いているのか?
 南は マンダイの発掘調査で深いのを発見しましたが
 それより南の調査では発見されていません。

 この辺りが 周りより低い地形だったのか
 公共施設の『市』の配置に合わせて
 道路や水路を計画的に整備したのか
 興味はつきません。

 以上 長岡京跡右京第1159次調査の現地説明会からのレポートでした。

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「なぞの水路 どこからきて どこへ流れてるの?
「クロマツ補佐にたどってもらう?」
「。。。無理でしょ
 
場所はこちらです
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六条条間小路の南側側溝(長岡京跡右京第1159次調査・西調査区)

2017年08月12日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月12日(土)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡京駅前線の埋蔵文化財発掘調査の現地説明会に来ています。

 前回 ご紹介したとおり
 交差点の近くで交差点が出てきました。

 右京六条二坊といいますから
 東西を結ぶ道路が六条条間小路
 南北が西二坊坊間小路が交差するところです。

 めっちゃ暑かったので 産業文化会館の中で説明を聞いたあと現地に行きました。


 2か所ある発掘現場
 まずは 会館前の西調査区

 写真をご覧ください。
 写真の上下が東西になります。
 人がたくさんいる辺りが六条条間小路で
 南の側溝が出土しているの わかるでしょうか?

 幅は1.5~2.2m
 深さは0.1~0.3mと浅いンです。

 北の側溝は坊の道幅が9mなので 会館前を流れる開田川の辺りだそうです。

 実は ココで発見された深さと東調査区で発見された深さに大きな違いがあり
 条坊側溝は地形に合わせて階段状に掘られていたのでは?
 と述べられていました。 

 以上 長岡京跡右京第1159次調査の現地説明会からのレポートでした。

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「昨日は山の日だったよ
「たくさんの考古学ファンが山のように来てました。」
「。。。
 
場所はこちらです
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長岡京駅前線で見つかった長岡京時代の交差点

2017年08月06日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月6日(日)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡京駅前線の埋蔵文化財発掘調査現場に来ています。

 新聞などに報道されましたが
 ココで長岡京時代の交差点が発見されました。

 交差点には道路側溝が設けられていますが

 東西でその大きさが異なり
 東が浅いのに
 西は深くて広かったそうです。


 現地に写真がありました。
 写真は東から西を写しています。

 交差点の上側の溝が西
 下側の溝が東

 どうです?溝幅が違いますよね

 上側の溝はそのまま左の方へ流れて 
 西市と呼ばれる市場へ物資を運ぶための
 運路となっていたのでは?

 と想定・推測・仮定できるそうです。

 今のマンダイ側です。

 興味深い発見ですね。
 現地説明会は来週11日10時から行われます

 以上 長岡京駅前線の埋蔵文化財発掘調査現場からのレポートでした。

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「この発見が交差点になるかも~
「・・・いまいち 伝わりません」
 
場所はこちらです
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以前、長岡京市役所にあった観測所と駐輪場の『今』の写真

2017年08月02日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月2日(水)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡京市役所に来ています。

 以前は観測所があった写真を紹介しましたが

 今
 どうなのか取材しました。

 昔と今
 見比べてください。

 京都信用金庫の窓は四つ
 これは変わりませんが

 他はすっかり変わりました。

 長岡京交番の移設工事も始まってます。
 街は変わっていくンですね

 以上 長岡京市役所前からのレポートです。

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「見比べるとわかる~
「懐かしいですね」
 
場所はこちらです
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以前、長岡京市役所にあった観測所と駐輪場の写真

2017年08月02日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年8月2日(水)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 長岡京市役所に来ています。

 と言っても10年前
 それ以上前かな?

 今は 行幸記念の石碑があるところ

 以前は観測所があったンです。

 市役所の玄関から京都信用金庫を見たところです。
 正面の瓦屋根の建物が今は無くなった開田保育所です。

 懐かしい写真を見つけました

 以上 昔の写真からのレポートです。

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「こんなだったかな~
「今に馴染むと忘れてしまいますね」
 
場所はこちらです
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勝竜寺城公園の帯曲輪

2017年04月06日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年4月4日(火)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 勝竜寺城公園の本丸と沼田丸の堀付近に来ています。

 ハクモクレンの花が咲いてますね

 堀の幅は今より広く5mあったそうです
 石垣のない素掘りだったようです

 堀を渡る橋はあったそうで
 想像図はこんな感じです(↓)

 南北に細長く 帯曲輪(おびくるわ)というそうです

 以上 勝竜寺城公園の本丸と沼田丸の堀付近から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

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「帯曲輪と言うのか~
「一つの曲輪の外側に帯状に設ける曲輪
 です」
「説明で・・・押して・くるわ~(≒おびくりわ)
「。。。
 
場所はこちらです

勝竜寺城公園の北門跡

2017年03月17日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年3月17日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 勝竜寺城公園の北門跡に来ています。

 山崎の合戦のとき
 明智光秀がこの門から逃げ出したと言われています。

 勝竜寺城公園の中でも現存する遺構がここにはあります。

 たとえば石垣
 見えている石垣の下部は当時のもので
 手前の地面には当時の門の基礎にしていた石が見えています。

 想像の北門の図はこんな感じです(↓)

 以上 勝竜寺城公園の北門跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

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「すげー伝説の場所だったンだ
「でしょ?」
「でも・・・
 逃げて 出て行ったのに
 来たもん(≒北門)とはね
「。。。

ことしもライトアップするそうですヨ
 
 場所はこちらです

長岡宮大極殿跡の小安殿

2017年03月12日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年3月12日(日)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 向日市の長岡宮大極殿跡にある模型前に来ています。

 模型をご覧ください。
 青い建物が見えますね

 これが大極殿です。
 その上 大極殿の北にある建物が小安殿(しょうあんでん)です。

 大極殿の後ろにあるから 後殿とも呼ばれます。
 じゃあ 大極殿は前殿なのでしょうか?

 天皇が休憩される場所なので

 こあんどの
 や
 こやすみどの
 とも言うそうです。

 こやすみどのに対し
 大極殿は おおやすみどの(=大安殿)と言うそうです。

 以上 向日市の長岡宮城大極殿跡の模型から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)
 
「休みと言えば そろそろ春休みですよ クロマツ補佐」
「とりあえず 来年までナ」
(来年の向日市ふるさと検定対策ってこと)
「来年も受けるの?検定?」
「え?(受験してたの バレてたの?)」
場所はこちらです

長岡宮大極殿跡の大極殿碑

2017年03月04日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年3月4日(土)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 向日市の長岡宮大極殿跡にある大極殿碑前に来ています。

 碑は『長岡宮城大極殿遺址紀念碑』といいます。
 明治時代に創設会によって建てられましたが

 昭和になってココに移設されたそうです。

 長岡宮を開いた784年11月11日にちなみ
 毎年その日に大極殿祭が催されます。
 明治時代の1895年から続く行事です。

 今上天皇が7年前に長岡京市へご行幸なされたとき
 向日市のココに来られています。
 大極殿碑の左の碑はその記念に設けらえたものです。

 以上 向日市の長岡宮城大極殿遺址紀念碑前から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)
 
「用地買収をして公園を拡張するンでしょ?クロマツ補佐」
「え?そういやあ 京都新聞に載ってたよナ・・・」
(この話題は来年の向日市ふるさと検定対策になるかも)
「ウフ・うふふ・ハハハハ・・・」
「やっぱり変じゃない?」
場所はこちらです

長岡宮大極殿前庭の宝幢跡(ほうどうあと)

2017年02月24日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年2月24日(金)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 向日市の長岡宮大極殿前庭の宝幢跡に来ています。

 宝幢(ほうどう)は朝鮮半島から伝わった儀式の旗
 元旦の朝賀には大極殿前庭に七本の旗が立てられました。

 旗は向かって左から右へ

 玄武(げんぶ)・白虎(びゃっこ)・月像(げっしょう)・烏像(うしょう)・日像(にっしょう)・朱雀(すじゃく)・青龍(せいりゅう)

 が描かれていたそうです。

 以上 向日市の長岡宮大極殿前庭の宝幢跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)
 
前もきたような・・・
「え・そうなんですか?クロマツ補佐」
「いや・・・
(ヤバイ!向日市ふるさと検定だけじゃなく
 10年前に検定を受験したこともバレそうだ・・・
 ほうどうだけに・・・
 ほどほどにと思ってナ
 ハハ・ははは・ハハハハ・・・」
「変じゃない?」
場所はこちらです

長岡宮朝堂院西第四堂跡

2017年02月19日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年2月19日(日)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 向日市の長岡宮朝堂院西第四堂跡に来ています。

 会昌門跡の向かいにある公園が西第四堂跡で
 朝堂院公園といいます。

 朝堂院は政治や儀式を行うところで

 模型をご覧ください。
 ちょうど真ん中あたりに
 東側と西側にそれぞれ4棟づつ
 合計8つの建物が表現してあります。

 模型では表現してありませんが
 塀で囲まれていました。

 西第四堂ということは
 西側の建物群で
 北から1・2・3・四つ目のお堂のことです。

 ひとつだけ横に長い形をしている建物が西第四堂です。

 昭和57年の発掘調査で判り平成4年に国の史跡として指定されました。

 すごいですね。

 以上 向日市の長岡宮朝堂院西第四堂跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

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「それはそうと・・・
 スマホなんかで復元・体験できるアプリって何?
 (向日市ふるさと検定の問題だったといえないが・・・)」
「アッ!
 それは『AR長岡宮』のことですよ
 紹介するの忘れてました クロマツ補佐」
「え?AR?
(長岡宮殿復刻アプリじゃないの?
 ・・・ということは間違った・・・)
 URじゃなくって AR
 ARでアール(≒URのCMより)
 ハハ・ははは・ハハハハ・・・」
場所はこちらです

長岡宮朝堂院会昌門跡

2017年02月13日 | □ 長岡京市ゆかりの歴史(イチョウくん)
平成29年2月13日(月)


「アッくんさん アッくんさん こちらは現地リポーターのイチョウです。
 私は今 向日市の長岡宮朝堂院会昌門跡に来ています。

 会昌門と書いて”かいしょうもん”と読みます。

 朝堂院と呼ばれる政務や儀式を行う場所の南門が会昌門です。

 現在まで2,200回を超える発掘調査の第1回目の記念すべき場所で
 昭和30年に中山修一さんと袖岡正清さんが発見しました。

 「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」という
 平安時代の法令集に記載された宅地名を現地で比定し長岡京の条坊図を復元
 そこから次々と発見していったそうです。

 すごいですね。

 ところで昨日は第1回向日市ふるさと検定が催され
 多くの方が受験したそうです。

 今回は初級で今後
 中級や上級を企画するそうです。

 これらの試験にも対応できるように
 引き続き現地レポートいたします。

 以上 向日市の長岡宮朝堂院会昌門跡から
 イチョウくんの現地レポートでした!」

パチン!(電源OFF)
 
「(会昌門かあ~10年前も受験のため来たよナ・・・
 それはそうと・・・
 物集女忠重入道宗入さんは予想どおり問題に出たゾ」
「問題って・・・
 もしかして受験したの?クロマツ補佐」
「アッ!(まずい!昨日受験したのバレる!)
 ちがう 解消(≒会昌)・・・問題解消だ
 ハハ・ははは・ハハハハ・・・」
場所はこちらです