北Qえれじー ~ 国分寺 編 ~ by Akira Io

写真家・ロシア語通訳あきらの日記。
南インド古典音楽の聖地チェンナイより帰国し、現在は国分寺に居住!

いよいよ明日!「2時間1曲!ノンストップ・インド音楽!! 寺原太郎&池田絢子」@カフェスロー

2014年04月04日 21時50分06秒 | まちかど倶楽部
あきらです!

さてさて、いよいよ明日となりました「2時間1曲!ノンストップ・インド音楽!! 寺原太郎&池田絢子@国分寺「カフェスロー」!
休憩なしに、二時間丸ごと即興で素敵な音世界、広大なラーガの世界に連れて行ってもらうという男気あふれるコンセプトではありますが、どうにか三回目の幕が明日上がろうとしています!

ツイッター情報によると、太郎さんも、このままだと4時間半ぐらい吹いちゃうんじゃないのか?っていうぐらい調子がよい、というかラーガのイメージにうまく入ってる状態のようなので、これはさらに期待値上げて来てもよいかも?っていう状況です。
当日急に時間が都合できるようになったから行くよ!っていうのも大歓迎です!!

とにかく素の心と身体で来ていて頂いて、ひたすら音楽に身を任せて頂ければOKなのですが、よりインドの音楽を知りたい!明日のライブをさらに深く楽しみたいという人のために、太郎さんがFBにて書いてくれたことや予習動画をこちらでまとめておきますので、よければ見て下さいね。

ということで明日、寺原太郎池田絢子の二人が紡ぐラーガ「ヤマン」の世界、お楽しみに!!


以下、全て寺原太郎さんの言葉です。




4/5カフェスロー2時間コンサート予習シリーズ1「タラナ」 

コウシキ・チョクロボルティ(敢えてベンガル語読み)のこのタラナ、やります!(や、もちろん歌じゃなくて笛でですが 笑)
元はと言えばこれ、このタラナ、去年の夏前に絢子ちゃんから「このタラナ歌えるようになりたいので教えてください♪」と音源渡され、う、わかったやってみる、、と言ったまま半年以上もそのままになってたもの(^^;;
今回、絢子ちゃんがインド行ってる間に、やっとこ宿題済ませました。間に合った(…のか?)
元々はトラディショナルなコンポジションで、タラナの歌詞も見つけたんだけど、コウシキ嬢のはちょっと変わったアレンジ。特にアンタラ。よく聴くラーガ・ヤマンとは少し違ったムードで、ほんとインド音楽の世界は深い、ラーガの宇宙は広大だと思いしらされる好例でもあります。
2時間コンサートでは、コウシキ嬢のこの可憐な歌声を思い浮かべながらぜひ聴いてみてください♪


追加コメント1
タラナというのは、北インド古典声楽の演奏形式のひとつで、意味のある歌詞ではなく、打楽器的なシラブルの羅列で歌われる(タラナタナディン~♪)パート。
13世紀にペルシャからやってきた音楽家アミール・フスローが、ペルシャ語が通じないインドの宮廷楽師たちと一緒に演奏するために作ったと言われています。
意味のないとは言っても、実はペルシャ語では意味がある(ディルダナディルダナは心をください)とか、ヤラレヤラレみたいに明らかに打楽器シラブルではなさそうな単語もあったりで(おそらくヤー、アッラー)、その真相は謎に包まれた部分もありますが、いずれにせよ現代のインド古典声楽ではポピュラーで人気のある演目のひとつ。
このタラナは出だし「お、出たな!?」みたいに聞こえるかもしれないけど、オデタナもれっきとしたタラナの言葉のひとつです。


追加コメント2
北インドではTarana、南ではTillanaと呼ばれている同じような形式がありますが、ペルシャ由来ということを考えるとTaranaの方が先なのかな。
新しいタラナもどんどん作られている一方で、アミール・フスローによって作られた最初のタラナなんてのもちゃんと残っています。
使われる言葉の種類はだいたい決まっていて、タラナ、タナデレナ、ディルタナ、ディンタナ、オデタナ、ウドンタナ、タノン、ヤラレヤラレ等。



「2時間の演奏をするということ」
「今年もまたこの季節がやってきた。インド音楽1曲2時間コンサート。
昨年5月に僕自身初めての試みとしてこの2時間コンサートをやって以来、ずっと考えてきたことがある。「次やるとしたら何(のラーガ)をやるか?」その都度、たどりつく結論はひとつだった。「やっぱ、アレしかないか……」
 1曲2時間演奏するということと、1曲2時間の演奏をするということは違う。  
興が乗って延々1時間半以上演奏してしまうことは僕にも時々ある。インド古典音楽は即興で演奏されるので、あらかじめ1曲の長さが決まっている訳ではなく、今演奏されているこの曲が後どれくらい続くのか、極端なことを言えば演奏者本人にだってわかっていないことが少なくない。
 けれど、あらかじめ「2時間かけて1曲やります」と宣言して演奏するということは、それとは根本的に異なる。興が乗ったらやると言うのとは訳が違う。今日は興が乗った演奏をしますと宣言するに等しい。今日の演奏は、そういう状態の、最高にとびきり良い演奏をお聴きいただきますと最初に公約を掲げて演奏するようなものだ。
嗚呼、どうして僕はまたしても、そのようなハードルを自らに課してしまうのだろうか。。
 ひと言でいえばそれは、やりたかったからに他ならない。
 昨年5月に初めて挑戦してみて得られた達成感、ラーガに深く入れたという充足感。そして10月、スティーブ・オダ氏による2時間のダルバリを聴いた後の興奮。その興奮の中、会場で主催のアキラジーをつかまえて、僕は上気した声で言った。「2時間コンサート僕にまたやらせて!」
 インドのコンサートでは、演奏者がひとりで1曲2時間も3時間も歌ったり演奏したりすることは珍しくない。70代も後半の総白髪の歌手がステージに出てきたかと思えば、そのまま熱気を帯びた声で3時間以上も歌い上げ、万雷の拍手の後それでは短い曲をと言ってはまた30分くらい歌うなんてことがザラにある。聴いている方もまったく飽きることなく、めくるめくラーガの世界を上へ下へと翻弄された挙げ句、気がついたら朝になっていたという有様だ。  
無論、長ければ良いというものではない。
 けれど、ある程度の時間をかけなければ味わうことのできない境地というものは、確かにある。それを、僕も味わいたいのだ。
できれば、その境地を供する側として。そしてみんなにも味わってみてほしいのだ。
2時間かけて到達できるラーガの景色を。」


「ラーガ・ヤマンの話」
 インド音楽について書くのは難しいのだけれど、それは何故かと言えば、どう書いても嘘になるということが多々あるからだと思う。言葉にすることでかえって真実から遠ざかるということもあるけれど、もっと単純に、人によって同じ言葉でも示す意味や範囲が違ったり、ラーガの捉え方が異なっていたりして、AはBである、と簡単に言いきってしまうことができないせいでもある。そしてついつい言い訳ばかりが長くなる。
 そんな訳で、第一稿は大抵そういうものになるので、とりあえずガーッと書き上げた後、エイヤッとそれを捨てて、一般化への欲望に諦めがついたところで改めてきわめて主観的なインド音楽論やラーガの話を書き始める。それがいつもの僕のやり方。
 さて、今日も言い訳をすませたところで、ラーガ・ヤマンの話。真夜中の森コウシキ、そしてスティーブさんのダルバリ・カナラと深夜のラーガが続いた2時間1本勝負のシリーズ3回目は、北インド古典音楽をやっている人間ならおそらく誰でも知っているであろう、このラーガを取り上げたい。
 なぜそんなにポピュラーなのかと言うと、それが多くの人が最初に習うことになるラーガだからだ。でもそれが何故なのかは実はよくわからない。ヤマンは決して簡単なラーガではない。むしろ、その圧倒的に静謐でシャンティなムードを表現するのは、初心者にはあまりにも酷と言えるんじゃないかと思うほど難しい。だからかもしれない。できるようになるまでに時間がかかるから、最初に習うのかも。取っ付きやすいが奥の深い、広大なラーガ。
 ヤマンとは冥界の王ヤマ、つまり閻魔大王である。とは言え、死者に裁きを与え嘘つきの舌を抜く日本の閻魔様のイメージは、心安らかなこのラーガのムードとはそぐわない。冥界を司るようになる以前、古代インドではヤマは死者の楽園の王であったと言う。ラーガ・ヤマンに感じるイメージは、むしろそちらに近い。この世の喧噪と肉体の軛(くびき)から解き放たれ、永遠の安らぎの中でまどろむ魂。
 夜のラーガではあるが、真夜中ではない。頬を抜け髪を揺らす穏やかな風。そこに心をざわめかせるときめきはなく、かわりに絶対の安心感、赦された感覚がある。もう何も心配しなくていい。もう何も心思いわずらうことはない。現世に戻ればまた様々な障害が汝の心を疲弊させよう。ならばこの一時、ラーガ・ヤマンの調べの中に身をくつろがせ、それら一切を忘れ絶対の安寧の中にまどろめば良い。時間を忘れる音楽、それこそがインド音楽の一番の効能であり、存在理由なのだから。
 そうかだからヤマンなのか。
 ラーガ・ヤマンはラーガの王。北インド古典音楽の中心に在る者。心を掻きたてる者ではなく、なだめ鎮める者。最もインド音楽らしいインド音楽。数限りない輪廻を繰り返し、最後の最後に到達する場所。天界の王の統べる約束の地、ラーガ・ヤマン。2時間たっぷりかけてお送りします。時間を忘れにきてください。

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