会津の重ちゃん日記

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会津藩士 堀 粂之助 

2013-11-24 19:00:22 | 地域情報
2013年11月24日(日)雨・晴 10.1℃~1.1

 米沢には何度か行っているが、竜泉寺へ立寄ったことはなかった。今回のモニターツアーのコースに入っていた。
この寺には会津藩士 堀 粂之助の墓がある。



応対してくださった現住職より下記の資料をいただき説明を受けた。
昭和46年9月5日芳賀誠純住職は、100年余年前の戊辰戦争の役に散った隠れた犠牲者、堀 粂之助が、香花を手向ける人もなく埋もれているのを気の毒に思い、会津若松市を訪れ会津戊辰戦史や堀 粂之助について調査し、米沢市の篤志家に呼びかけて資金を集め墓碑を立て顕彰した。現在は会津から墓に詣でる方もおられるようになった。
 住職の説明を聞かないと戊辰戦争の時、何故米沢藩が援軍を送ってこなかったのか、堀 粂之助の自刃、手厚く顕彰してくれる住職や米沢市民のことがわからなかった。竜泉寺を訪れてよかった。まだ訪れていない方は詣でてみてください。


  
=資料=
 「砲兵隊寄合組 堀清左衛門の長男。諱は光器(みつたか) 温厚篤実、堅忍不抜のうえ文武に優れ、藩校南額館の助教授を勤める。
京都守護職時代は新撰組の首脳となって京都で活躍する。戊辰戦争の際、藩主 松平容保の密命を受け、慶応4年8月23日会津若松を出発、吉村寅之進とともに西軍の包囲網を命がけで突破し米沢藩に救援依頼に出向き、9月3日米沢城下に至る。
 しかし、米沢家老、竹俣美作の応対は実に不明瞭で要領を得ないものであった。実はこの時点で米沢藩は越後戦線から戻った千坂太郎左衛門らによって、新政府軍に恭順がほぼ決まっていたのである。竹俣は、かって米沢藩が存亡の危機にあった時、これを救ってくれた会津藩、保科正之の恩を忘れておらず、堀 粂之助らの涙ながらの懇願を一蹴することができなかったのだという。同行の吉村は仙台に行くことを勧めたが、君命を果たすことができないことを知った 粂之助は「このままで何の面目があって会津に帰れようか。かくなるうえは、腹を切って殿にお詫び申し上げるのみである」と決然と言い放ち、「何を言うか、我々の使命は援軍を連れ帰ることにある。米沢がだめなら、仙台に行くべきだ」という寅之助に対しても「われらが命じられたのは、米沢からの援軍を得ることである。仙台からではない」決意を曲げず、寅之助と別れた。米沢城下東町の旅籠「越後屋」の主人に金子を与えて後事を託し、一室で辞世を残し9月5日従容として自刃して果てた。享年31歳。
越後屋の主人は、竜泉寺に頼んで葬儀を営み、墓を建てた。」
辞世

神かけて、誓ひしことのかなわはねば 

  ふたたび家路 思はざりけり