会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

ボランテイアの案内で松ヶ岬公園を歩く

2013-11-23 19:59:56 | 地域情報
2013年11月23日(土)晴 9.9℃~0.8℃

 11月7日の「米沢と会津を結ぶみち」街道観光モニターツアーも121号大峠を超えて山形県へ。まず上杉伯爵邸(上杉記念館)で郷土料理の昼食(米沢牛のステーキはレアで美味しかった。)ここは13代目藩主・上杉茂憲公の邸宅。庭園は東京桂離宮にならって築かれた。雪囲いがされていて庭園の全景をみることはできなかったが配置されている樹木や石などから名園の趣を感じることはできた。





 昼食を終えて上杉城址苑へ。ボランテイアガイドとの連絡がうまく行かず10分以上待った。お出でになったガイドはとっても熱心な方で鷹山公の碑、松岬神社(第9代米沢藩主、上杉鷹山公のほか、初代藩主上杉景勝公や直江兼続公など六柱を祭神としている)舞鶴橋と鯉、招魂碑、春日神社、上杉神社など丁寧に説明してくださった。ありがたいことだが、小雨が降り出し気温も下がってきたので、何度か担当者が手短にとお願いしたが、熱が入るとついつい長くなっていた。
 最後の稽照殿(謙信公の遺品を中心に上杉家の宝物や直江景勝の愛の前立ての兜を展示)の拝観を終える頃には、4~5人しか残っていなかった。きちんとお礼を言わずバラバラになってしまった我々一行も反省しなくてはならない。知識が豊富だとあれもこれもと話したくなってしまう。状況に応じて話すことも大事であると思った。

 

※上杉神社
上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。

以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。

併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。

明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。

大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により現在に残る社殿が再建された