アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

過食と人生

2006-01-18 10:10:09 | 思い
これは今までの半生、人一倍暴飲暴食を繰り返してきた私の言うこととして聞いて欲しいのだけれど・・・

やはり私たちは食べ過ぎてると思う。今の日本に住むほとんどの人にとって、本来の健康を保ち心身の能力を最大限に発揮するためには今よりもずっと食べない方がいい。
私は昔からどんなに食べても太らない体質だった。まあ、それだけ運動量もあったというのも事実だ。いつの時も皮下脂肪値は極端に低く、どちらかと言えば痩せ型なのだけれど体中が固く締まった筋肉で覆われていた。しかしそれでいて食べる量も飲む量も人並み外れていたのだ。そのことについては以前に何度かこのBLOGでも触れているのであえてここでは詳述しない。
しかし今振り返ると何のことは無い。ただ食べた分だけの過剰なエネルギーを無駄に排泄していただけだったのだと思う。確かにそういったメカニズムが人体にはある。私自身そのことに実感として気づいたのは最近のことだ。それまで私は自分自身を無駄の無い効率のより体だと信じていたし食べただけのものは充分活かしていたと思っていた。
しかしあんなに食べなくても充分同じ運動量はこなせていたろうし、いや、それだけではなくてかえって食べない方がよかった。食べることによってこれまでの生涯どれだけ多くの能力と感性が失われていったかにもう少し早く気づいていればと悔やまれることが多い。

日常の必要量を越えて口から摂取されたエネルギーは、必ずしもすべてが体内に蓄積されるわけではない。そんなことをしていたら現代日本人はみんなたちまちのうちに豚のようになってしまうだろう。だから子どもの頃から食べ過ぎれば吐いたり下痢をしたりしてカロリーが吸収されないように排泄する作用がある。そして更に恒常的に過食が続いた場合には、腸壁は表面に粘着質の層を形成してそれの体内への吸収を妨げるのではなかろうか。それは過剰カロリーや摂取された有害物質から私たちの体を守ってくれる一種の防衛機構なのだと思う。その層を宿便を呼ぶかもしれない。そのお陰で大半のカロリーはそのまま消化器官を素通りして対外に排泄されることになる。だから過食の習慣を持っている人は非常に効率の悪い消化吸収機能を持っていると言える。
今日栄養学で言われるように成人一人あたり一日何キロカロリーの栄養が必要だなどという理論をすべての人に当てはめるのは無意味だろう。人の体内の機能の個体差はそんなことを遥かに凌駕していると思う。

たまに我が家にも大食家が尋ねて来るときがある。かつての私のようなものでいくらでも食べる。そして場合によってはいくらでも飲んだりする。それを見てああ、自分もこうだったんだなあと一面感慨深いものはある。しかしまあ、確かに勧める私の方にも非があるのだけれど、私はその後必ずといっていいほど痛切な自己嫌悪に襲われるのである。
私は雪の無い間は田や畑に出て働く。特に田に稲がある間は一日たりともそこに通わない日は無い。そして一年の半分の季節を毎朝毎夕彼らに語りかけながら暮らしている。
そうして育ち今袋詰めされてある米たちには、もちろんのこと一角ならぬ愛着を感じる。それは相手が米なだけであって、鶏やウサギ、猫たちに感じるものと基本的に変わらない。その彼らも、まさか自分が食べられる者の有効な栄養として役立たないばかりかその者の害となってしまうとは思いもかけないのではなかろうか。だから私は彼らに詫びるのである。ああ、私がいながらにして申し訳なかったと。過食された食物は確実に食べた者に対する害となって働く。
やはり質素で健康な暮らしを気風とする我が家において、暴飲暴食はそぐわない。

我が家の犬のスヌーピーはご飯茶碗軽く一杯程度の食事を朝夕2回食べる。魚のあらや肉に玄米と季節の野菜汁を加え、それに時に応じて補完的に少しのドッグフードを加える。量が少ない割りに作る方としては手が掛かる食事である。
そして彼は猫たちと同様、今まで風邪を引いたということがない。零下10度を越す冬の夜にも小屋に入らずに雪の上で寝ることを好む。その方が山から近づいてくる動物に気づくので都合がいいみたいだ。裏庭の鶏やウサギを守るため彼がしっかりと番犬の用を足してくれるので我が家は本当に助かっている。
猫たちも一日2食、しかも週に一度程度断食を行っている。その頻度は基本的に彼らの体型を見て決める。
私自身も一日2食。この10年余りで食べる量は実に半分以下になったと思う。それでいて毎日若い時以上の肉体労働に耐えている。それに何よりも、今では体調が悪かったり寝込んだりするようなことが滅多に無くなった。
やはり私にとっては食べない方がよかったのだ。随分回り道をしたものだけれど、それを長い時間かかって自分の体で感じることができたことは望外の喜びである。

それともうひとつ、過食のもたらす作用についてどうしても触れておかなければならないことがある。それは自分にとっても意外であったし同時に今までの、そしてこれからの人生の展開に大きく影響するとても大切なことだと思う。

私たちは自分自身を「感じる」のにどの部分を働かせるかというと、それは多分腸ではないかと思う。もっと平たく言えば「お腹」か。
そういえば昔から「腹に一物」「お腹で考える」などと言う言い回しがある。ストレスはまま胃腸に来るし笑ったり愉快だったりすると胃腸の働きもいい。
腸は単なる消化器官であるだけではなく、実は自らの体内を感じる感覚器官の用も果たしているのではないだろうか。私のつたない瞑想の体験から言ってもお腹を通じて随分と自分自身に関することがわかるものだ。人間の体の中心はお腹であり腸だと思う。決して頭や心臓ではない。
その重要な感覚器官が強固なオブラートに包まれてしまうともちろんのこと有効に機能しなくなる。つまり宿便は腸本来の持つ消化吸収力のみならず大切な感性をもとりあげてしまうのだ。その結果どうなるかとなると、私たちは自分自身について気づかなくなる。何が体にとっていいのか、またどういうものが自分にとって価値があるのか判断がつきにくくなる。感性の根本が狂ってくるのである。だから身に害の物、試練や障害となる出会いなどを知らず知らずに引きつけてしまったりもする。また自分自身に対する感覚の鈍化は当然ながら他人への思いやりや配慮の欠落にも繋がる。

人それぞれ体質や持っているものが異なるのでもちろん一概に言えるものではないのだけれど、感性の鈍化はしばしば食習慣からもたらされ、アンバランスなその体型に表れる。鶏も日常的に食べ過ぎると野生の本能を失い単に神経質な肉の塊になってしまうのである。

だから今思えば食べ物というのは本当に大きなものだ。何を食べるかだけではなくどれだけの量を食べるかが私たちの人生に知らない間に大きな影響を及ぼしてきている。裏返して言えば食べ物を根本的に変えることによって人生も生きる世界も変わってくるかもしれない。実際「変わる時」というのは食べ物を含めてそれまで持っていたいろんなものの好みも変わってくるものだ。
しかしだからといって今すぐ食べ物を変えなければならないかというとそういうものではない。誰しもその時が来れば自然と変わるものだしそれを無理して性急に引き寄せれるものでもない。
実際私も長い間の極端な過食の人生があったればこそ、今このようなことを言ったりしているのだから。



【写真はスヌーピー。彼の小屋を冬の間は「きのこハウス」と言います。】




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4 コメント

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お腹で考える (れい)
2006-01-18 11:27:43
なるほどと思いました。

私の場合は太りたく無いのでほぼ一日一食をして1年位が経ちますが

確かに思考や好みも変わって来た様に思います。

(食生活だけが原因では無いと思いますが・・)

それと共に今まで空腹を満たす為だけに飲食していた事

その空腹さえ本当に感じていたのだろうか?とさえ疑いたく成る気がします。

以前は三食が良い事だと思い込んでいました。

それは自分自身がただの肉の塊でしか無かったのだろうと思います。



話は変わりますがこのところ少し気持ちが下降気味だったのですが

こちらの記事を読んで そうか私のやり方は間違って無い などと心強く成りました。

ありがとう御座いました。



きのこハウス かわいい呼び方ですね。

食べるという行為 (agrico)
2006-01-19 08:57:38
食欲を満たす、美味いものを食べるという欲求充足はしばしば現実からの逃避行動として使われますが、

過食にはそれともうひとつ、自殺行為の側面があると思うのです。

このことを誤解なく説明するためには記事ひとつ分くらいの長さが必要になりそうなので本文でもそれには触れなかったのですが、簡略にいえば大自然は弱体化した者、種の保持にマイナスとなる者を生かしておかないという原則を持っていることによるのだと思います。

過食に限らず現代さまざまな形でそのメカニズムが働いていますね。これは個々の当事者にとってはもちろん悲劇なのですが、実は宇宙や自然界を構成する骨子とでもいうくらい大切なものではないかと思います。



私も三食しっかりと食べる生活だったんですよ。それの転換はひとつには自分で野菜を作り始めたこと、それと座禅をきっかけにした瞑想によって引き起こされました。どちらも30歳くらいの時です。

ものの味は舌ではなく腸で感じるものだと思います。だからお腹の状態によって好みや味覚は大きく左右されますね。腸が機能してると体は食べ物にとても敏感に反応します。私も昔好物だったもので今はとても食べれないものがたくさんあるのですよ。



現代多くの人たちが化学物質の味を好むようになってるのは、それはもしかしたら無意識に自滅への道を辿ろうとしている表れなのかもしれない。そんなことを考えてしまいます。

れいさんの書く記事には時折鋭いものがあるなあと思ってましたよ。

食をコントロールできれば人生を自由にコントロールできる気がします。試行錯誤はあってもお互いの道に過ちはありません。食べる本当の喜びを手に入れましょうね。
合掌 (竜頭)
2006-01-24 10:18:41
トラバ打たせてもらいます。

駄目なら消ちてぇ。(汗
これは竜さん・・・ (agrico)
2006-01-24 20:06:50
消すなんて、とてもとても・・・

他ならぬ竜さんからのお申し出をなんぞ断れましょうや。



柱が音を立てるのはそちらの方が本場かもしれません。(雪の重みで)

古い家というのは不思議な音を立てるものですね。そんなことに気を使っていたんじゃ夜も眠れないのですけれど、昨夜はどうしてか眠れず寝床でずっと耳を澄ませていました。家も電気も電磁波も家電製品も、ストーブの火も自分の体内も、それから玄関で眠る猫たちもみんな活動している、そんな舞台に入り浸ったひとときでした。



どうぞ来てください。私の方は動物がいて家を空けれないので、南無さんやひろ(っ)ぽんさんを含めて富山の方たちにはすぐに会いに行けそうもありません。よくもあの北陸の一都市にそんなにも人物が集中していると日頃感心しています。



今年になってからちょっとBLOGの方はお休み続きですが、気にしないでくださいね。書こうと思えば書けるのですが、もう少しだけ自分の内面を見つめ続けてみます。

むしゃくしゃした自分、詰まらないことに腹を立てる自分、脆い自分、糸を失った心細い自分、そんな身近な生物にもう少し付き合ってみたいのです。



自らの持つ攻撃心がまず自分自身を攻撃してしまう。現実はそれの具現化なのかもしれませんね。自分の持っているものは何よりも先に自身に対して使われる。愛も憎しみも・・・

今回の竜さんの記事を読んでそんなことを思ってみました。

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