
ふう! これでやっと、ゆっくりできる。
さて、と・・。
牛乳を沸かし、安売り酒屋で買って来たウイスキーと缶コーヒーを開けて、
久しぶりにホット・カルアミルクを楽しもう。
居間に戻ってみると、いつもの私の席には、ミーコが丸くなって寝ていた。
このところメス猫たちは家を空けることが多いので、たまに帰って来た時にはできるだけうちの中で、ゆっくり休ませてやっている。
まあ、いいか。
とミーコを両手ですくって、毛布を敷いた膝の上にそっと乗せる。
ミーコは、ピクリとも動かずに丸いまま移動されている。
小さい頃は、この私の膝に2匹も3匹も子猫が丸くなっていたものだけれど、こう大きくなっては例え1匹でも、はみ出してしまう。
よし、完了。これでひと休み。
と、思う間もなく、今度はタインが窓の外で鳴き始めた。
「愛がたりない」のタインである。この頃は学習して、いかにも哀れを誘うような声で鳴き続ける。
わかったよ。今行く。
やっと乗っけた膝のミーコをそっと下ろして、今度はタインを玄関に入れてやる。
玄関には夕方やった餌が少し残っている。
タインが餌を食べる間、と思って玄関近くに坐っていると、今度はマスキーが真面目な顔をして膝の上に乗ってくる。
お前もか、マスキー。
どうして我が家には、こんなに猫が、多いのか。
マスキーを撫でてやりながら思った。
もし私が、この猫たちの可愛さを文字に表してblogに載せるとしても、それはほんの短い間ネットを彷徨って消える、儚い思いの残像。
私が愛するblog友に向けて発するひと時のping。
マスキーも、タインも、何年かのうちには寿命が来る。
どんなに離れまいと思っても、私自身も後50年のうちには、死んでしまうだろう。
いかに優れた文学作品でも、わずか2000年のうちには、跡形もなく消えて行く。
今は生ある私たちの体も、文字も、私たちの作り出すものの命は、いずれも儚い。
では、なにが残るのだろう。
今、私が関われるもので、最も長く後世に残るものは何か。
土地を耕すことか、
樹を、植えることか、
市政に業績を残すことか、
子孫を残すことか、
・・・
いずれも儚いし、形としては長くは残らない。
例え今、10人の子供を残したとしても、10代後には実質的に絶えている可能性もある。
もし血統に拘るとすれば、早晩他の血筋を加えて、家の名前だけ残すことになるだろう。
それでも幾ばくかの私の血は残ることになるけれど、それにどれ程の意味があるのだろうか。
私のではなくても、他の血がちゃんと受け継がれることになるだろうから、
そこに大きな差はないような気がする。
そうだ、もし残るとすれば、
今、この猫を可愛いと思う、「思い」、
なにかを大切に思う、エネルギーだけは、
膝の上のマスキーを通して、今、餌皿を舐めるタインを通して、
形は変えながらも、伝えられていくかもしれないな。
結局形あるものは長く残らず、
目で見ることのできない、エネルギーだけが永遠の「循環」の波に乗り、
「形」の循環よりも、長くこの世に留まることになる。
頭で考える私たちにとっては、紙1枚隔てた現実のパラドックス。
いつか私の生も、
私の作ったものも、
私を取り巻くこの世界も、
大きく変わり、一新される時が来る。
その中で、唯一残っているのは、
私がこの生の中で発した、エネルギー。
慈しみ、喜び、悲しみ、憎んだ、このエネルギー。
これが、命の循環を通じて
長く、長く、いつまでも
受け継がれていくんだろう。
いつになく、そんなことを思って、
秋の世は更けていく。
【写真はレオ。コタツ布団にくるまって、ゴキゲン。】
さて、と・・。
牛乳を沸かし、安売り酒屋で買って来たウイスキーと缶コーヒーを開けて、
久しぶりにホット・カルアミルクを楽しもう。
居間に戻ってみると、いつもの私の席には、ミーコが丸くなって寝ていた。
このところメス猫たちは家を空けることが多いので、たまに帰って来た時にはできるだけうちの中で、ゆっくり休ませてやっている。
まあ、いいか。
とミーコを両手ですくって、毛布を敷いた膝の上にそっと乗せる。
ミーコは、ピクリとも動かずに丸いまま移動されている。
小さい頃は、この私の膝に2匹も3匹も子猫が丸くなっていたものだけれど、こう大きくなっては例え1匹でも、はみ出してしまう。
よし、完了。これでひと休み。
と、思う間もなく、今度はタインが窓の外で鳴き始めた。
「愛がたりない」のタインである。この頃は学習して、いかにも哀れを誘うような声で鳴き続ける。
わかったよ。今行く。
やっと乗っけた膝のミーコをそっと下ろして、今度はタインを玄関に入れてやる。
玄関には夕方やった餌が少し残っている。
タインが餌を食べる間、と思って玄関近くに坐っていると、今度はマスキーが真面目な顔をして膝の上に乗ってくる。
お前もか、マスキー。
どうして我が家には、こんなに猫が、多いのか。
マスキーを撫でてやりながら思った。
もし私が、この猫たちの可愛さを文字に表してblogに載せるとしても、それはほんの短い間ネットを彷徨って消える、儚い思いの残像。
私が愛するblog友に向けて発するひと時のping。
マスキーも、タインも、何年かのうちには寿命が来る。
どんなに離れまいと思っても、私自身も後50年のうちには、死んでしまうだろう。
いかに優れた文学作品でも、わずか2000年のうちには、跡形もなく消えて行く。
今は生ある私たちの体も、文字も、私たちの作り出すものの命は、いずれも儚い。
では、なにが残るのだろう。
今、私が関われるもので、最も長く後世に残るものは何か。
土地を耕すことか、
樹を、植えることか、
市政に業績を残すことか、
子孫を残すことか、
・・・
いずれも儚いし、形としては長くは残らない。
例え今、10人の子供を残したとしても、10代後には実質的に絶えている可能性もある。
もし血統に拘るとすれば、早晩他の血筋を加えて、家の名前だけ残すことになるだろう。
それでも幾ばくかの私の血は残ることになるけれど、それにどれ程の意味があるのだろうか。
私のではなくても、他の血がちゃんと受け継がれることになるだろうから、
そこに大きな差はないような気がする。
そうだ、もし残るとすれば、
今、この猫を可愛いと思う、「思い」、
なにかを大切に思う、エネルギーだけは、
膝の上のマスキーを通して、今、餌皿を舐めるタインを通して、
形は変えながらも、伝えられていくかもしれないな。
結局形あるものは長く残らず、
目で見ることのできない、エネルギーだけが永遠の「循環」の波に乗り、
「形」の循環よりも、長くこの世に留まることになる。
頭で考える私たちにとっては、紙1枚隔てた現実のパラドックス。
いつか私の生も、
私の作ったものも、
私を取り巻くこの世界も、
大きく変わり、一新される時が来る。
その中で、唯一残っているのは、
私がこの生の中で発した、エネルギー。
慈しみ、喜び、悲しみ、憎んだ、このエネルギー。
これが、命の循環を通じて
長く、長く、いつまでも
受け継がれていくんだろう。
いつになく、そんなことを思って、
秋の世は更けていく。
【写真はレオ。コタツ布団にくるまって、ゴキゲン。】
私も思います。
星が滅んだあとも、重力が残り
ブラックホールとなるように、
生き物も、「思い」の力は残り
他を引き寄せる。
「思い」と「重い」は似てるし。ね。
ブロピー登録ありがとうございます。
よかった、これで、こちらの更新確認できますね。
そろそろ肌寒くなると、
カルアミルクが飲みたくなりますね。
お玉はホットで飲みます。
こころもホコホコと、あったまりますね。
エネルギー
受け取ることはできるのですが
繋げることは、難しいです。
繋げよう、なんてこと自体おこがましいんでしょうか。
ちょっとしんみり。
思いのエネルギーをつなげたいという思いが
つながって行けばいい。
そんな人の夢も儚いんですね。
意外とつぼを得ているかもしれません。
私たちの存在の本質は、「思う」ことではないかと思うんですよ。
生き物は、それぞれの「思い」のままに、体現化しているのではないだろうか。
そのことを、なんとか自分の生を通じて証明したいな、と思ってます。
blog peopleの設定は終わったんですが、これから使えるように手を加えていかないと。
インターネットはとても便利な道具ですが、ひとつひとつの設定や使い方を覚えるのが大変ですね。
この分だと、いざ年とった時には時代から大きく遅れてしまいそうです。
こちらはもう夜分は涼しいですよ。
分厚い毛布を3枚もかけてます。
今が一番くらいに、快適な季節ですね。
私たちのこの世での存在は、その流れの中に浮かんでは消え、造られては壊されしている、泡のようなものなのかもしれません。
私たちは、それらのエネルギーを操作していると言うよりは、それらによって存在たらしめられている、と言った方が近いのだと思います。
最近うつ病の人の症状について読んだ時に、もしかしたらうつ病というのはエネルギーの欠乏した状態なんだろうか、と思ったりしました。
でも残念ながら私自身うつ病についてはよく知らないので、今のところは何とも言えません。
自分の思うとおりに正直に、生きていきたいですね。
そしてできれば、みんなの幸せに繋がるような「思い」を持ちたいです。
でも、どんな思いを持つ人も、この世界に受け容れられているんだと思います。
だから存在している。
そして、どんな人でも、生きる価値があるんじゃないかと思うんですよ。
無理することはないですね。
自分のペースで生きていきましょう。
大丈夫、それでもちゃんと、やっていけますよ。
私も、それを実証すべく暮らしています。
現代は、エネルギーさえも取り合いになってたりして、人によってはエネルギー欠乏に陥りやすいのでしょうね。
更に売られている食べ物が、生命エネルギーの少ないものだから、尚更でしょう。
この世でどう生きていくか、自分なりに見つけていくことになりますね。