今、猫家は麦刈りの真っ最中。
大した面積じゃないんだけど、雨の合間を見て毎日少しずつ鎌で刈る。
今時分は外にいるだけで、まるで滝に打たれたように汗をかく。
猫たちは軽トラの下に寝そべっている。
時々額の汗をシャツの袖でぬぐう。
すぐにシャツがずぶぬれになって、汗をぬぐえなくなってしまった。
こんな時にも、時おり一陣の風が吹いて、
思わず立ち尽くす私と、猫たちを救ってくれる。
風にたなびく青草や小さな虫たちは
この麦をこんなにも 育ててくれた
植物はたくさんの種類が集まって初めて、健康に生きられる。
そこにいる虫たちも、細菌たちも含めて、
みんな力を合わせ
助け合って生きている。
なんだか人間と同じだね。
「雑草」なんてない
「害虫」なんていない
この世界は どの生命も
ひとつとして欠けることなく
みんなが合わさって できた世界
だから私の畑には薬を撒いたことがない。
でも、毎年必ず、
充分すぎるほどの恵みを与えてくれる。
ところで、有精卵と無精卵の違い、
わかりますか。
片方は温めれば生命を生み、
もう片方はただ腐っていくだけ。
今の科学ではその違いを見つけれないようだけれど、
決定的な違いが必ず
あるのです。
麦も卵も生きていて
彼らが生まれ育つ過程で 無数の生命を取り込んでいる
私が 彼らから受け継ぐのは
栄養素だけじゃなく、
生命エネルギー
でも私たちが日常食べる物の中には、
例え似たような物でも、生命エネルギーが少ない物もあれば、
まったく無い物もある。
その製造過程でわざわざ生命を殺して
エネルギーを無くしてる物だってある。
だけど体はそんな食べものじゃやって行けないものだから、
もっと、もっと
食べようとする。
それは、栄養素じゃなくて、
生命エネルギーの欠乏。
生命エネルギーが足りなくなると、
まるで生きてるものじゃないようになってくるんだね。
生きてるんだけど、それは半分機械のよう。
発想も、思考も、心さえも、
機械に近くなってくるみたい。
この世に 無駄な生命はなく
無駄な死もない
すべては生まれて
生きて
死んで 生命をバトンタッチするエネルギーの連鎖
生命のエネルギーがどう循環するのか、
私にもよくわからないんだけれど、
でもきっと消えてなくなるものではないと思う。
だって、私たちだって
こんなにも長い間、生まれ続けてきたんだもの。
もちろん生きることは大切だけど
死ぬことも
それと同じくらい
大切なんだ
この生命を
繋げるために
どのような生にも
死にも
それなりの意味と 大切な役割がある
別れは出会いのために、必要なように、
死ぬことは、次の生命を産むために
必要なんだと思う。
こうして私もあなたも、生命をバトンタッチしながら、
ずっと、ずっと
気の遠くなるほど長い間、
生き続けて来たんだね。
【写真は刈り取り間際の麦の穂。梅雨の晴れ間の空に、黄金色が引き立ちます。】
大した面積じゃないんだけど、雨の合間を見て毎日少しずつ鎌で刈る。
今時分は外にいるだけで、まるで滝に打たれたように汗をかく。
猫たちは軽トラの下に寝そべっている。
時々額の汗をシャツの袖でぬぐう。
すぐにシャツがずぶぬれになって、汗をぬぐえなくなってしまった。
こんな時にも、時おり一陣の風が吹いて、
思わず立ち尽くす私と、猫たちを救ってくれる。
風にたなびく青草や小さな虫たちは
この麦をこんなにも 育ててくれた
植物はたくさんの種類が集まって初めて、健康に生きられる。
そこにいる虫たちも、細菌たちも含めて、
みんな力を合わせ
助け合って生きている。
なんだか人間と同じだね。
「雑草」なんてない
「害虫」なんていない
この世界は どの生命も
ひとつとして欠けることなく
みんなが合わさって できた世界
だから私の畑には薬を撒いたことがない。
でも、毎年必ず、
充分すぎるほどの恵みを与えてくれる。
ところで、有精卵と無精卵の違い、
わかりますか。
片方は温めれば生命を生み、
もう片方はただ腐っていくだけ。
今の科学ではその違いを見つけれないようだけれど、
決定的な違いが必ず
あるのです。
麦も卵も生きていて
彼らが生まれ育つ過程で 無数の生命を取り込んでいる
私が 彼らから受け継ぐのは
栄養素だけじゃなく、
生命エネルギー
でも私たちが日常食べる物の中には、
例え似たような物でも、生命エネルギーが少ない物もあれば、
まったく無い物もある。
その製造過程でわざわざ生命を殺して
エネルギーを無くしてる物だってある。
だけど体はそんな食べものじゃやって行けないものだから、
もっと、もっと
食べようとする。
それは、栄養素じゃなくて、
生命エネルギーの欠乏。
生命エネルギーが足りなくなると、
まるで生きてるものじゃないようになってくるんだね。
生きてるんだけど、それは半分機械のよう。
発想も、思考も、心さえも、
機械に近くなってくるみたい。
この世に 無駄な生命はなく
無駄な死もない
すべては生まれて
生きて
死んで 生命をバトンタッチするエネルギーの連鎖
生命のエネルギーがどう循環するのか、
私にもよくわからないんだけれど、
でもきっと消えてなくなるものではないと思う。
だって、私たちだって
こんなにも長い間、生まれ続けてきたんだもの。
もちろん生きることは大切だけど
死ぬことも
それと同じくらい
大切なんだ
この生命を
繋げるために
どのような生にも
死にも
それなりの意味と 大切な役割がある
別れは出会いのために、必要なように、
死ぬことは、次の生命を産むために
必要なんだと思う。
こうして私もあなたも、生命をバトンタッチしながら、
ずっと、ずっと
気の遠くなるほど長い間、
生き続けて来たんだね。
【写真は刈り取り間際の麦の穂。梅雨の晴れ間の空に、黄金色が引き立ちます。】
私のHPの猫ですよね。大丈夫。
HPを開くと、慌てて顔を洗い出すのです。
傷つけられ、殺されても、生命のバトンタッチの中の1つの出来事と位置づけられるのかも。 そうしないと、無駄死にと思われるような死がたくさんありすぎますよね。
先日のコメントの続きで申し訳ないのですが、傷つける、殺す、これは、物理的なものも包含していると、思い始めてます。
知識でも、情報でもなく、agricoさんの考えることを、伝えていただくことで、persempre の人生観にまた新しいものが、加わりそうです。
「エネルギッシュ」なんていう表現もあるけれど、実際は思いがけないものがすごいエネルギーを持ってたりします。
木とか、石とか、大気とか、言葉だとか・・・。
でも私たち人間は、もともと強いエネルギーの塊みたいなものなんでしょう。自然界に及ぼす、その影響力からも伺えます。
それまでのどの生き物よりも、「愛」を深めることができ、その代わり
それまでのどの生き物よりも、不幸になる危険を持つ。
私たちは、この地球が生み出した、素晴らしくも危うい、切実な期待を背負った存在なのかもしれません。
すべての生命が、私たちを支えてくれています。
今生きているこの生を、大切にしたいものですね。
今まで4回に亙って書いて来たのは、その伏線です。
でも、このシリーズも次か、その次で終わりになるかもしれません。
「アグリコ日記」もいつになく難しい内容になってしまいましたが、これも私にとっては楽しいことでした。(・・なんて、まだ終わりもしないのに言ってる。)
ここに表したことは、すべて私の「思い」です。
自分でも将来修正することがあるだろうし、他人には押し付けられない自分の単なる「思い」に過ぎません。
私自身「発展途上」ですから、なんら自信を持ってpersempreさんに薦められるものはないんですよ。
私と同じくらいに、persempreさんから私に伝わってくるものは確かにあるから、私たちは、やはり同じ土俵の上で生きているのだと思います。
結論を出すのは、いま少し待ってください。