とにかくセンセーショナルな登場を果たした「本間利彦」選手ですよ。
86年の全日本ロードレース国際A級250ccクラスでデビューレースにして、
プライベートチームでの参戦にもかかわらずワークスライダーを押しのけ優勝。
無名でしたし、ほとんど何もスポンサーらしきカラーリングがなされていない、
白いTZ250が印象的でした。
翌年87年にヤマハワークス入りを果たし、
全日本ロードレース選手権GP250ccで総合3位を獲得。
さらに88年は250ccクラスチャンピオンを果たし日本最速を手にいれます。
国内では圧倒的な速さを誇っており、本人は世界を狙っていたようですが、
フル参戦出来るヤマハの受け入れチームがなかったため、
翌年89年も全日本ロードレース選手権GP250ccクラスに出場することに。
残念ながら途中ケガなどによりチャンピオンは逃したものの総合で2位。
で、今度こそと、90年のWGP250ccクラスへのステップアップを狙いますが、
またまたチーム体制が出来ないことにより断念。
変わりに全日本ロードレース選手権GP500ccに参戦することになります。
最終的にはスポット参戦が数回あっただけで、
世界でのフル参戦を果たすことなく現役を引退してしまいます。
最高潮の時は間違いなく世界で通用するだけのものを持っていた「本間利彦」選手でしたが、
ある意味不運だった気がしますね。
TVインタビューで常に笑顔で答えていたのが印象的でした。
86年の全日本ロードレース国際A級250ccクラスでデビューレースにして、
プライベートチームでの参戦にもかかわらずワークスライダーを押しのけ優勝。
無名でしたし、ほとんど何もスポンサーらしきカラーリングがなされていない、
白いTZ250が印象的でした。
翌年87年にヤマハワークス入りを果たし、
全日本ロードレース選手権GP250ccで総合3位を獲得。
さらに88年は250ccクラスチャンピオンを果たし日本最速を手にいれます。
国内では圧倒的な速さを誇っており、本人は世界を狙っていたようですが、
フル参戦出来るヤマハの受け入れチームがなかったため、
翌年89年も全日本ロードレース選手権GP250ccクラスに出場することに。
残念ながら途中ケガなどによりチャンピオンは逃したものの総合で2位。
で、今度こそと、90年のWGP250ccクラスへのステップアップを狙いますが、
またまたチーム体制が出来ないことにより断念。
変わりに全日本ロードレース選手権GP500ccに参戦することになります。
最終的にはスポット参戦が数回あっただけで、
世界でのフル参戦を果たすことなく現役を引退してしまいます。
最高潮の時は間違いなく世界で通用するだけのものを持っていた「本間利彦」選手でしたが、
ある意味不運だった気がしますね。
TVインタビューで常に笑顔で答えていたのが印象的でした。
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