阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

79年前の今日、1945年6月5日 神戸市民は米空軍による無差別・焼夷弾絨毯爆撃で民間人3453人が一日で焼け死んだ

2024年06月05日 | 東日本大震災ブログ

☝ No.22  click ☞ 戦災写真by神戸市
焼け跡・戦災で灰となった神戸市。神戸市加納町から阪急、三の宮方面を望む。路上には死体。生き残った人も放心状態。(1945年6月5日神戸市阪急三宮方面)
<毎日新聞社提供>
(Copyright:毎日新聞社)

神戸空襲の概要  引用元click

アメリカ軍による日本本土への空襲は、昭和17年4月18日に、東京・名古屋・四日市・神戸などを空襲したのが最初で、

神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けたが、本格的なものではなかった。

神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を

転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。

都市に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月10日の東京大空襲を皮切りに本格化し、名古屋、大阪に引き続き神戸は、3月17日未明の大空襲により、

兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。

また、5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。

さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。

こうして、3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。

空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万2,586戸、総戦災者数は、罹災者53万1,694人、死者7,524人、負傷者1万6,948人という大きな惨禍であった。

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神戸大空襲      引用元。

 

月日 機種 機数 弾種 トン数 第一目標
2月 4日 B29 69 焼夷弾、破砕弾 172.8 神戸市街地
3月17日 B29 307 焼夷弾、破砕弾 2328.1  
5月11日 B29 92 爆弾 459.5 川西航空機深江製作所
6月 5日 B29 474 焼夷弾、破砕弾 3079.1  
8月 6日 B29 250 焼夷弾、破砕弾 2003.9 阪神地域

神戸とその周辺地域は昭和20年1月3日から終戦までの間に、128回の空襲を受けた。

中でも3月17日の空襲では約34,000発の焼夷弾が投下され、神戸市西部の約65,000棟が全半焼、

2,598人が犠牲になった。

また6月5日の空襲で計3,000トンの焼夷弾が投下され、神戸市域の死者は3,453人とされる。

被害状況に関する公式記録は存在せず具体的な数字は滑胃だが、神戸周辺都市部の21%が罹災、

延べ65万人が家屋に被害を受け、焼失家屋は15万戸、負傷者15万人、8,841名の市民が犠牲となっ

た。 人口及び面積から換算した被害率では、当時の五大都市の中で最悪の数字であった。

本庄墓地

兵庫県神戸市東灘区

旧本庄村 空襲犠牲者慰霊碑

碑文

昭和二十年五月十一日、六月五日、八月六日の大空襲で郷土防衛の村民四三六名の生命を奪われました

私たちは三十三回目の記念日に碑を建て、尊い犠牲者の冥福を祈り平和を誓います

昭和五十二年五月十一日 本庄共有墓地管理委員會 本庄地区有志

 

大和田橋

兵庫県神戸市兵庫区

大和田橋

碑文

平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大和田橋は、1924年の竣工以来二度の大きな災害に遭っています。

1945年3月17日の神戸大空襲では、水を求めこの橋に避難した多数の市民が炎にまかれ犠牲になりました。

橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。

そして50年後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が崩れ落ちる被害を受け

ました。

ここに戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構築し、その時節の冬の星座を

かたどった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。

1998年10月  神戸市

碑文

大東亜戦争末期昭和二十年三月十七日 アメリカ合衆国B29爆撃機の大空襲に遭った此の地、大和田橋下

暗渠内で多数の方々が被爆死されました。あの悲惨な状態、猛火のもと恐怖と悔しさの地獄図は日本人とし

て未来永劫、忘れる事はないでしょう。生き残った町住者が、尊い生命を失われた人々に深く心から冥福を

お 祈りすると共に この悲運を永く後世に伝える為、出在家町協議会の手で、此の地に慰霊碑を建立しまし

た。

協議会は恒例行事として、ご命日には町住者による慰霊祭を施行しております。殉難死された方々の安らけ

き事を只管祈り続けん。

昭和二十二年九月建之 出在家町協議会 平成八年十月再建

薬仙寺

兵庫県神戸市兵庫区

大和田橋戦災・震災復旧モニュメント

碑文

平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大和田橋は、1924年の竣工以来二度の大きな災害に遭っています。

1945年3月17日の神戸大空襲では、水を求めこの橋に避難した多数の市民が炎にまかれ犠牲になりました。

橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。

そして50年後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が崩れ落ちる被害を受け

ました。

ここに戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構築し、その時節の冬の星座を

かたどった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。

1998年10月  神戸市

 

一九四五年三月十七日 神戸空襲戦歿者慰霊碑

碑文

今時大戦中神戸は空襲により大被害をうけた。なかでも昭和二十年三月十七日・六月五日の大空襲被害は大きく、

市街の大半を焼却し多くの尊い生命をうばった。私達市民は二度と戦争の惨禍をおこさない決意をあらたにし、あ

わせてその犠牲者約一万名の霊の安らかならんことを心から祈念し、遺族市民から寄せられた浄財によってこの碑

を建立した。

除幕 昭和五十年三月十六日 施主神戸空襲を記録する会

 

 

福原地区空襲被災者供養塔

碑文

南無阿弥陀佛 爲福原地区空襲被災者 有縁無縁各霊位追善増進菩提宝塔也

南無阿弥陀佛 偈日六字名號一遍法 十界依正一遍体 萬行離念一遍證 人中上々妙好華

南無阿弥陀佛 経日 神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難

南無阿弥陀佛 維持 平成元年三月十七日 施主福原柳筋振興会建之

説明文

福原・新開地は神戸随一の繁華街であった。神戸大空襲ではこの街にはたらく女性たちも市民とともに炎の犠牲

となった。永らく当時境内に卒塔婆を建て供養してきたが、ここに新たにこの碑を建立し、とわに被災者の霊を

慰めるものである。

除幕 平成元年三月十日  施主 福原柳筋新興会

 

妙法華院

兵庫県神戸市兵庫区

神戸空襲犠牲者之霊供養塔

平和の塔(戦争犠牲者供養塔)

一九四五年(昭和二〇年)敗戦までのアジア太平洋戦争の犠牲者は二千万人といわれる。

神戸空襲(一九四五年)による戦災死者は六千人を超え、当山付近の遺体は、この境内に高く積みあげられ火葬され

たと伝える。

以後、境内に木塔を建て万国戦争犠牲者はじめ法界万霊を供養し平和を祈りつづけ、一九九三年三月一七日永久的な

石塔に改築した。

一九八八年当山に分火された広島長崎原爆の火を塔内に常燈し、浄水が湧き清風が通る地水火風空の五輪の塔をかた

どった主塔に、四支塔を螺旋状に配する。設計は新間智照住職。施工渡辺石材店。志主は塔に刻記四名の他八八名。

 

柳原天神社

兵庫県神戸市兵庫区

五人の乙女の慰霊碑

碑文

昭和20年3月17日未明の空襲により、この地において職に殉じた神戸中央電話局兵庫分局職員の霊を

まつる。

なお、このレリーフは神戸中央電話局兵庫分局の壁面に取付けられていたもので大正11年頃、当時の分離派

建築会の作といわれており大正ロマンチシズムの薫りを今に伝えている。

建立 平成2年8月 日本電信電話株式会社

小野八幡神社

兵庫県神戸市中央区

慰霊

碑文

昭和20年3月17日未明の空襲により この地において職に殉じた神戸中央電話局葺合分局職員の霊

をまつる

日本電信電話公社 総裁 米澤 滋書

須磨寺

兵庫県神戸市須磨区

徳風地蔵尊

碑文

為 難時昭和二十年六月 戦災死者百十二霊 菩提

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(Wikipedia)から部分引用
 
 
 
空襲後の神戸

日本本土に対する米軍の空襲は、1942年4月18日東京名古屋四日市、神戸などを皮切りに開始されたが、神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けたものの本格的なものではなかった[1]

神戸とその周辺地域は1945年昭和20年)1月3日から終戦までの約8ヶ月間に大小合わせて128回の空襲を受け、特に2月4日の無差別焼夷弾爆撃は後の東京大空襲に始まる市街地絨毯爆撃の実験的なものと言われ、[2][1]それ以前の空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃であったものが、この日の爆撃が焼夷弾による爆撃へとアメリカ軍の爆撃方針を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、兵庫区林田区湊東区に特に集中し投下された[1]3月10日東京大空襲を皮切りに都市部に対する無差別焼夷弾爆撃が本格化し、名古屋、大阪への空襲の後の3月17日未明には、兵庫区、林田区、葺合区など神戸市中西部が壊滅的被害を受けた。5月11日の空襲では、灘区武庫郡(戦後に東灘区となった地域)で大きな被害を受け、同郡本庄村にあった川西航空機甲南製作所が精密爆撃を受けている。さらに6月5日の空襲により、西部の須磨区垂水町から東は西宮市までの広範囲が爆撃され、それまで被害の少なかった神戸市東部や武庫郡が焦土と化し、3度の大空襲でほぼ神戸市全土が壊滅した[1]

被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とされるが、これは確定的なものではなく実際はさらに膨大な被害であったと推測されている。神戸市の人口1000人当たりの戦争被害率は47.4人であり、人口および面積から換算した被害率としては当時の「五大都市」の中でも最悪の数字であった[1]。なお、この「五大都市」とは六大都市から都制施行後の東京都区部(旧・東京市)を除いた一般的な五大都市ではなく、戦災がほとんど無かった京都市を除いたものである。また、1940年10月1日国勢調査と1945年11月1日の人口調査における人口増減率はマイナス60.8%と広島市(マイナス60.1%)を下回っている。

周辺の部隊の反撃もあり、京都の高射砲部隊がB-29アシッド・テストII(機長ユージン・F・トーヴェンド少佐)を撃墜するなどの戦果もあったものの、上空からアメリカ軍機を駆逐するには至らなかった。

 2017年6月5日「阿智胡地亭の非日乗」掲載

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