塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 151 物語 妖妃乱れる

2016-05-01 16:33:01 | ケサル
 ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:妖妃乱れる




 手紙を書いたのは伽国の公主だった。

 「わたくし大伽国公主は、天から降った英雄ケサル大王の御前に、拝伏してご挨拶を申し上げます。お願いしたきことにつき細かく述べますことをお許しください」

 もともと、広大な領土と多くの民を有する伽国皇帝もまた天によって封じられた者だった。国内の大臣は万を超え、辺境に封じられた首領は数え切れなかった。宮中の妃は1500人にも昇ったが、どの妃も皇帝ガラガンゴンの心を満たすことは出来ず、そのためこれまで皇后を立てられなかった。長い間皇后を頂かない世は、国中の人々を不安にしていた。

 だが、宮中のあれほど多くの妃たちもみな女性としての輝かしい時をとうに過ぎ、大臣たちは仕方なく他の手立てで皇后を探す画策をしていた。年ごとに貢物を納めに訪れる近隣の属国をあまねく訪ね歩いたが、やはり皇帝の意に沿わなかった。竜の国まで行けば高貴な家柄の美しく聡明な女性を迎えることが出来るかもしれない。大臣たちがそう思いついたところに、知らせが届いた。

 東海の竜宮に比類なく美しいニマチジという姫がいて、ちょうど嫁ぐべき年頃となり、その麗しさは言葉では言い尽せず、もし姫を妃に迎えれば皇帝は必ず満足されるだろう。

 伽国はこの時、これまでになく内向的な、自らの心と感情に耽溺し、政を顧みない皇帝を頂いていた。
 大臣たちは協議の末、皇帝には報告せずに、花嫁を迎えに行く使者の隊伍を整え、黄金、宝石、白銀、銅器、香木、象、孔雀、竜、鳳凰を持たせ、大きな船で東海へと向かわせた。

 ところが、彼らが着いたのは実は竜宮ではなかったのである。

 皇帝がどこまでも心の内に籠っていたため、伽国と竜宮は往来が途絶えて長い年月が立っていた。そのため、竜宮には今年頃の公主はいないことを大臣たちは知る由がなかった。彼らに届いた知らせとは、伽国を手に入れて人の世を惑わそうと考えた妖魔が思いついた計略だった。
 その計略は思いのほか易々と成功することとなった。

 大船は海上を九日間航行し、妖魔たちの用意した偽の竜宮に着いた。竜王はすぐさま求婚の使者の願いに応え、更に嫁入り道具としてたくさんの深海の宝をニマチジに与えた。盛大な宴会が三日続き、姫と侍女と海底の珍しい宝は、求婚の使いに伴われて海面に浮かび上がった。

 航海は順調で、三日も経たず海岸へ戻り着いた。
 姫は、肌は白く滑らかで水から取り出したばかりの貝に勝り、容貌は開いたばかりの花に勝り、歩く姿はそよ風が軽く水面を撫でるかのようだった。類まれな美女は、当然皇帝の心を捉えた。常に寄り添い、夜の床で愛をはぐくむのはもとより、皇帝の最大の願いは宮殿を出て天地を祭る神事に皇后を携え、多くの民に美しい伴侶を誇示することだった。
 皇帝がこれほど美しい皇后を得たことを民が自らの幸せと誇りに感じて欲しいと望んだ。

 春になった。
 風が宮殿の外の柳を緑に染め、土地の神と五穀の神を祭る日となった。だが、ニマチジは宮殿を出ようとしなかった。
 
 皇后は皇帝に尋ねた。
 「私は美しいですか」

 「美しいという言葉ではそなたの姿かたちを言い尽すことは出来ぬ」

 ニマチジは涙を流した。
 「陛下。言葉では言い尽くせないという私の美しさは、ただ陛下だけのもの。民たちに見せることはなりません。それが神様のおぼしめしなのです」

 彼女は皇帝に告げた。この世で最も美しいものは最も脆く最も壊れやすく、民の憧憬の眼差しと賛美の言葉はどれも彼女を強く損なうのだ、と。

 「陛下。民の視線は私にとっては目の魔力であり、民の言葉は私にとっては口の魔力なのです。彼らの目と舌に晒されるのは、私にとって一輪の花が寒風と霜の中に置かれるようなものなのです」

 皇帝は仕方なく一人で出かけた。
 それからは、皇帝は自ら祭を取り行おうとはせず、皇后と共に後宮に籠り、政にかまわず、姫に仕えるために着き従って来た竜女を通して大臣に自らの意志を伝えるようになった。ほとんどの時、竜女たちが伝えたのはでたらめに作られた偽の詔だった。

 妖皇后が宮廷を惑わしたため、国では多くの災害と異常現象が次々と起こった。
 湖は枯れ、澄んだ鳴き声を高らかに響かせていた鶴は他へ移り、宮廷の画師が描いた絹の上の鶴さえも羽根を振るわせて去って行った。雄大な山が途中から崩れ、河は流れを変えた。ある土地では命の拠り所である水源が枯れ、ある土地では大水が道や町や村を覆った。

 皇帝と妖皇后が生んだ公主アグツォが十三歳になった時、この国を襲う災難は更に深刻になっていた。
 大臣たちも、これらの災難は妖皇后が宮廷を惑わしたためだと、考えるようになった。そしてついに、妖皇后ニマチジは竜宮の生まれではなく、九人の魔女の生気と血が混ざり合って生まれたものだと知った。

 そこで公主の十五歳の成人の儀を借りて、盛大な祝いの席を設け、天の神の助けを願った。

 妖皇后の人間界での寿命を終わらせるため、天の神、水の神、山の神それぞれがびっこ、めくら、おしに扮し、牛とロバを追いながら街に現れた。三人は王宮前の広場までやって来ると、牛とロバのしっぽを結び付け、それぞれに得意な芸を演じ始めた。おしはひらひらと飛ぶように舞い、めくらはよく通る声で高らかに歌い、びっこは手品で観衆の目をくらませた。踊りと歌と手品と、これまでに見たことも聞いたこともない出し物に、町中が湧きかえった。

 広場の喧噪と歓声はそのまま宮中に伝わり、三日三晩続くと、ニマチジは好奇心を抑えきれなくなり、頭から薄絹をかぶり、夕暮れに紛れて広場を見下ろす宮殿の楼閣に登った。

 この時一陣の風が吹き、人々の目線を避けるための薄絹を靡かせ、地平線に近づいていた太陽がその日最後の閃光を放って楼閣を照らした。ニマチジの麗しい姿が何千という人々の目に晒された。
 多くの視線が彼女の上に同時に集まり、多くの口から驚きと賛美の言葉が湧き上がった。美しい妖皇后、未だ修練が成就していない妖怪は、人々の口の魔力と目の魔力をまともに受けた。冷たい風と厳しい霜がなよやかな美しい花に降りたように、宮中に戻ったニマチジはその日から病に臥せった。

 妖皇后は病を得ると、誰とも会おうとせず、公主でさえ決められた時に会うしかなかった。