9 土司の物語二 その1
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
リンモ河に沿って下り、15km行くと松崗である。更に下ると金川、金川を更に下ると、すでに見てきた丹巴である。
発電所は松崗の街から2kmほど行ったところにある。
松崗発電所のダムが目の前に現れた。
だが、まるで感激がなかった。
私が入学通知書を胸にここを去った時、ダムはちょうど基礎の部分が出来上がったところだった。
現在、ダムのたっぷりと水を蓄えている部分は、当時は大きな果樹園だった。春、そこは昼休みの格好の場所となった。
トクラクターのエンジンを切り、公道に停め、果樹園に入って花の咲いたりんごの木に寄りかかると、ほんのりと暖か味を佩びた日の光の下、心地よく眠りの中へ引き込まれて行くのだった。
当時、睡眠不足が当たり前だった。一台のトラクターに二人が交代で乗っていて、更に残業をすれば、1.5元の残業代が手に入り、小さな店で赤いもち米の酒を二杯飲めたからだ。
時には仲間たちはちょっとした賭け事をした。だが私はただただ眠いばかりで、16,7歳の若者の永遠に足りることのない眠りを貪っていた。
けれども、そのダムは、私の目に映った限りでは、なんの感激もなかった。
なぜなら、私の支払った労働と、私の記憶の中にある、千を越える人々が夜を徹して働くすさまじい労働の様からすれば、このダムはもっと雄大で迫力に満ちたものであっていいはずなのだから。
ダムの上に上がってみたかったが、当直の作業員から容赦もなく断られた。
そのために、余計に興味をそがれてしまった。
幸い、あと2kmくらい山肌に沿って曲がりくねる公道を進めば松崗だ。そこで、発電所を後にして、松崗へ向かって急ぐことにした。
正午、小さな食堂に着き、料理とビールを頼んで窓辺に座り、向かいの突き出した山にある松崗土司の官塞を眺めていた。
目の前にある多くの建物は傾き崩れていた。ただ、二つの「石ちょう」と呼ばれる石の砦だけが廃墟の両端に聳え、今でも雄壮で威厳を保っていた。
石ちょうの一つは、下の部分が大きく崩れ落ちていた。だが、空へと伸びている上の部分は依然として遥かな青空に向かって高く聳えている。
松崗という地名はすでに完全に中国化されているが、実はこれはチベット語のロンガンという言葉の音を採ったものなのである。
この地方の名前は、あの斜面の一面の廃墟から来ていて、その意味は“山の中腹の土司の館”である。
食堂の親父を私は知っていた。当時私たちは彼の畑から少なからぬとうもろこしをこっそりもぎ取っていたからである。
そのことで、彼は私たちの隊長のところへ怒鳴り込んできたことがあった。
もちろん彼は私の顔など知らない。だから弁償させられる心配はなかった。
親父とは松崗土司だけを話題にして話をしてみた。
彼は言った。あの天を突く望楼は文革の戦闘の時、重要な砦となった。攻めて来た方は迫撃弾で攻撃したが、下半分に大きな穴を開けただけだった、と。
私は尋ねた。あと何発か撃ったら倒れたんじゃないだろうか、と。
彼はちょっと笑って、言った「あの頃はな、ただ戦っている振りをしていただけだ。誰も真剣やっつけようとはしなかったのさ」
彼の年齢なら、末代の土司のことを知っているはずだ。思ったとおり彼はうなずいて言った。小土司を見たことがある、と。
私もこの末代の土司については少し知っている。
この土司は、50年代末、チベットからインドへ逃げ、その後カナダに移民した。80年代には再びこの地を訪れ、故郷でのひと時を過ごして行った。
これもまた、多くの土司の物語の中の興味深い一節、一人の末代土司の物語である。
風流を好んだと言い伝えられた末代土司の名はスシションといった。
スはもともとは土司の家柄の出身ではなかった。彼の家は私の故郷のリンモ土司が管轄する黒水地方の部落長でしかなかった。
その後、リンモ土司の力は日々衰えてゆき、黒水の部落長は、国民政府が西方を顧みる暇のなかった民国の時代にほしいままに力を伸ばし、長い間、その威信と権力はギャロンの土司たちよりも上にあった。
そのころのことを語れば、事情は、偶然が重なっただけというような簡単なものではない。
土司制度がその終末に至った1950年代、ギャロン地域の土司たちは血縁継承者の問題に悩まされていた。
松崗土司も例外ではなかった。土司の男子の系統に血縁を受け継ぐものが欠落していったのである。
そのような中、勢い天を衝く部落長の息子が、養子となってその土司となった。
この物語は、多くの末代の王の物語とよく似ている。
王宮の帷の中であたりまえのように繰り広げられる多くのドラマの一つなのだ。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
リンモ河に沿って下り、15km行くと松崗である。更に下ると金川、金川を更に下ると、すでに見てきた丹巴である。
発電所は松崗の街から2kmほど行ったところにある。
松崗発電所のダムが目の前に現れた。
だが、まるで感激がなかった。
私が入学通知書を胸にここを去った時、ダムはちょうど基礎の部分が出来上がったところだった。
現在、ダムのたっぷりと水を蓄えている部分は、当時は大きな果樹園だった。春、そこは昼休みの格好の場所となった。
トクラクターのエンジンを切り、公道に停め、果樹園に入って花の咲いたりんごの木に寄りかかると、ほんのりと暖か味を佩びた日の光の下、心地よく眠りの中へ引き込まれて行くのだった。
当時、睡眠不足が当たり前だった。一台のトラクターに二人が交代で乗っていて、更に残業をすれば、1.5元の残業代が手に入り、小さな店で赤いもち米の酒を二杯飲めたからだ。
時には仲間たちはちょっとした賭け事をした。だが私はただただ眠いばかりで、16,7歳の若者の永遠に足りることのない眠りを貪っていた。
けれども、そのダムは、私の目に映った限りでは、なんの感激もなかった。
なぜなら、私の支払った労働と、私の記憶の中にある、千を越える人々が夜を徹して働くすさまじい労働の様からすれば、このダムはもっと雄大で迫力に満ちたものであっていいはずなのだから。
ダムの上に上がってみたかったが、当直の作業員から容赦もなく断られた。
そのために、余計に興味をそがれてしまった。
幸い、あと2kmくらい山肌に沿って曲がりくねる公道を進めば松崗だ。そこで、発電所を後にして、松崗へ向かって急ぐことにした。
正午、小さな食堂に着き、料理とビールを頼んで窓辺に座り、向かいの突き出した山にある松崗土司の官塞を眺めていた。
目の前にある多くの建物は傾き崩れていた。ただ、二つの「石ちょう」と呼ばれる石の砦だけが廃墟の両端に聳え、今でも雄壮で威厳を保っていた。
石ちょうの一つは、下の部分が大きく崩れ落ちていた。だが、空へと伸びている上の部分は依然として遥かな青空に向かって高く聳えている。
松崗という地名はすでに完全に中国化されているが、実はこれはチベット語のロンガンという言葉の音を採ったものなのである。
この地方の名前は、あの斜面の一面の廃墟から来ていて、その意味は“山の中腹の土司の館”である。
食堂の親父を私は知っていた。当時私たちは彼の畑から少なからぬとうもろこしをこっそりもぎ取っていたからである。
そのことで、彼は私たちの隊長のところへ怒鳴り込んできたことがあった。
もちろん彼は私の顔など知らない。だから弁償させられる心配はなかった。
親父とは松崗土司だけを話題にして話をしてみた。
彼は言った。あの天を突く望楼は文革の戦闘の時、重要な砦となった。攻めて来た方は迫撃弾で攻撃したが、下半分に大きな穴を開けただけだった、と。
私は尋ねた。あと何発か撃ったら倒れたんじゃないだろうか、と。
彼はちょっと笑って、言った「あの頃はな、ただ戦っている振りをしていただけだ。誰も真剣やっつけようとはしなかったのさ」
彼の年齢なら、末代の土司のことを知っているはずだ。思ったとおり彼はうなずいて言った。小土司を見たことがある、と。
私もこの末代の土司については少し知っている。
この土司は、50年代末、チベットからインドへ逃げ、その後カナダに移民した。80年代には再びこの地を訪れ、故郷でのひと時を過ごして行った。
これもまた、多くの土司の物語の中の興味深い一節、一人の末代土司の物語である。
風流を好んだと言い伝えられた末代土司の名はスシションといった。
スはもともとは土司の家柄の出身ではなかった。彼の家は私の故郷のリンモ土司が管轄する黒水地方の部落長でしかなかった。
その後、リンモ土司の力は日々衰えてゆき、黒水の部落長は、国民政府が西方を顧みる暇のなかった民国の時代にほしいままに力を伸ばし、長い間、その威信と権力はギャロンの土司たちよりも上にあった。
そのころのことを語れば、事情は、偶然が重なっただけというような簡単なものではない。
土司制度がその終末に至った1950年代、ギャロン地域の土司たちは血縁継承者の問題に悩まされていた。
松崗土司も例外ではなかった。土司の男子の系統に血縁を受け継ぐものが欠落していったのである。
そのような中、勢い天を衝く部落長の息子が、養子となってその土司となった。
この物語は、多くの末代の王の物語とよく似ている。
王宮の帷の中であたりまえのように繰り広げられる多くのドラマの一つなのだ。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)