帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百七)(三百八)

2015-07-20 00:20:11 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰「拾遺抄」を、公任の教示した「優れた歌の定義」に従って紐解いている。新撰髄脳に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」とある。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

清少納言は枕草子で、女の言葉(和歌など言葉)も聞き耳(聞く耳によって意味の)異なるものであるという。藤原俊成古来風躰抄に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」とある。この言語観に従った。

平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような、今では定着してしまった国文学的解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。和歌は「秘伝」となって埋もれて、その真髄は朽ち果てている。蘇らせるには、平安時代の歌論と言語観に帰ることである。


 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首

 

(だいしらず)                     (よみ人も)

三百七 恋ひわびぬねをだになかんこゑたてて いづれなるらむおとなしのさと

(題しらず)          (よみ人もしらず・男の歌として聞く)

(恋に悩み悲しくなった、音さえだして、泣こう、声立てて、どこにあるのだろうか、音無の里・音の聞こえない山里……乞いに侘びしくなった、我が・根さえ泣くだろう、小枝立てて、どこに居るのだろうか、おとなしい女)

 

言の心と言の戯れ

「恋ひ…乞い…求める・求められること」「わびぬ…侘びぬ…つらくなった…かなしくなった…なげかわしくなった」「ねをだに…音だに…物音さえだして…根をさえ…わが・おとこさえ」「なかん…泣かむ…泣こう…泣くだろう」「ん…む…意志を表す…推量を表す」「こゑたてて…声たてて…小枝たてて…我が・おとこ立てて」「いづれなる…何処にあるのか…どこに居るのか」「らむ…推量の意を表す」「おとなしのさと…所の名…音無の里…名は戯れる。音立てても大声で泣いても音がしない里…おとなしの女…穏やかで、落ち着いている女」「里…言の心は女…さ門…おんな」

 

歌の清げな姿は、恋が辛く悲しくて大声で泣きたい気分。

心におかしきところは、乞いに、思い萎えて、求む音無しの女。

 

 

しのびてけさうし侍りける人につかはしける         もとすけ

三百八 おとなしのかはとぞつひにながれける いはで物おもふひとのなみだに

忍んで想いを懸けていた人に遣わした  (もとすけ・清原元輔・後撰和歌集撰者の一人・清少納言の父)

(音無しの川と言ってもだ、遂に流れたことよ、無言でもの思う女の涙によって……おとなしい女といっても、終に、声あげて・流れたことよ、忍びてもの思う女の汝身唾となって)

 

言の心と言の戯れ

「おとなしのかは…音無の川…川の名…名は戯れる。静かな川、もの静かな女、穏やかな女、忍んで何も言わない女」「川…言の心は女」「とぞ…強調する意を表す」「つひに…遂いに…とうとう…終に…最後に」「ながれける…(音立てて)流れたことよ…汝涸れにける…わが物は涸れ尽きた」「いはで物おもふ…無言でもの思う…忍びつつ無言で感極まる」「ひとのなみだ…人の涙…人の汝身唾…おんなのなみだ」「に…により…原因理由を表す…変化の結果を表す」

 

歌の清げな姿は、音無川の源は、忍びつつ片想いする女の涙。

心におかしきところは、無言でもの思いする女の終に至った感の極みのありさま。


 

清少納言枕草子「河は」に、川の名の羅列がある。父元輔と同じ言の心を心得ているに違いない。川を女と聞いてみよう。

河は、あすか川、ふちせも定めなく、いかならんとあはれ也。大井河、音なし川、みなせかは。

(河は、飛鳥川、淵瀬も定めなく、如何ならむと哀れである。大井河。音無川。水無瀬川。……大きな女は、あ素かかは、深い仲の背の君も定めなく、どうしたのだろうかと哀れである。大きい井の女。あの時・無言の女。男は・皆背なのだろうか)


 言の心と言の戯れ

「河…大川…大女」「あすか…明日香…飛鳥…あ素か…あそこ並みか普通か」「あ…指示代名詞…あれ…あそこ」「すか…素か…並みか…洲か…おんなか」「かは…川…女…疑問の意を表す…なのか…だろうか」「せ…瀬…背…夫」「井…おんな」「みなせ…水無…皆背…不特定多数の背」


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百五)(三百六)

2015-07-18 00:07:48 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰「拾遺抄」を、公任の教示した「優れた歌の定義」に従って紐解いている。新撰髄脳に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」とある。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

清少納言は枕草子で、女の言葉(和歌など言葉)も聞き耳(聞く耳によって意味の)異なるものであるという。藤原俊成古来風躰抄に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」とある。この言語観に従った。

平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような、今では定着してしまった国文学的解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。和歌は「秘伝」となって埋もれ、その真髄は朽ち果てている。蘇らせるには、平安時代の歌論と言語観に帰ることである。


 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首

 

女の許につかはしける               大中臣能宣

三百五 朝こほりとくるまもなき君により などてそほつるたもとなるらむ

女の許に遣わした                (大中臣能宣・後撰和歌集撰者の一人・伊勢神宮祭主)

(朝氷、うち解ける間もない貴女によって、なぜに濡れてしまった袂だろうか・我が涙よ……朝、こ掘り、解ける間もない・結ばれたままの、あなたによって、何に濡れてしまった手許の物だろうか・汝身唾よ)

 

言の心と言の戯れ

「朝…暁がこと果てるべき時刻…朝は男が女の許を去っているべき時刻」「こほり…氷…子掘り…井掘りともいう…まぐあい」「とくる…(氷が)解ける…(心が)うちとける…(結ばれている物が)解ける」「ま…間…時間…あいだ…谷間など言の心はおんな」「などて…なぜに…どうして…何に…疑問を表す」「そほつる…濡れてしまう…濡れてしまった」「つる…つ…完了したことを表す」「たもと…衣の袂…手許…手の近くにある物…おとこ・おんな」「なるらむ…なのだろうか…である(原因理由は何)だろうか」「なる…なり…断定をあらわす」「らむ…原因・理由を推量する意を表す」

 

歌の清げな姿は、身も心もうちと解けられなかった、男の残念の涙。

心におかしきところは、心も身も解けぬまま、暁に且つ乞うと泣くおんなとおとこの汝身唾。

 

清げな言葉の連なりによって、このような情趣を、余すことなく伝えるとは、さすが、能宣(よしのぶ)と思うと同時に、厄介な言葉の戯れを逆手に取った、和歌の表現様式の凄さにも思いを馳せるべきである。誰がこのような表現様式を確立したか、いつの時代にどうして消えたのかと。

 

 

だいしらず                     よみ人も

三百六 うしとおもふものから人の恋しきは  いづこをしのぶこころなるらん

題しらず   (よみ人も・詠み人も知らず・女の歌として聞く)

(辛いと思うものの、人が恋しいのは、何を偲ぶ、我が・心なのでしょうか……嫌とは思うけれども、あの人が恋しいのは、出でる此の貴身を、じっと堪え忍び、なお乞うわが・心なのでしょうか)

 

言の心と言の戯れ

「うし…憂し…(相手の仕打ちが)つらい…いやだ…快くはない」「ものから…のに…ものの…けれども」「人…異性…男…君」「恋しき…乞いしき」「いづこを…何処を…何を…出づ子を…出てゆくおとこを」「しのぶ…偲ぶ…恋い慕う…忍ぶ…じっとこらえる…包み隠す」「なる…なり…断定の意を表す」「らん…らむ…なのだろう…原因理由を推量する意を表す」

 

歌の清げな姿は、恋するわが心の省察。

心におかしきところは、乞うわが心の省察。(いでてゆく貴身を乞い求めるのは、如何なるわが心なのだろう)。

 

女のうわべの心情だけではなく、乞う心を、誇張も比喩もない方法で正に陳述している。言葉の戯れを利して清げに包んである。

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百三)(三百四)

2015-07-17 00:23:42 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰「拾遺抄」を、公任の教示した「優れた歌の定義」に従って紐解いている。新撰髄脳に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」とある。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

清少納言は枕草子で、女の言葉(和歌など言葉)も聞き耳(聞く耳によって意味の)異なるものであるという。藤原俊成古来風躰抄に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」とある。この言語観に従った。

平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような、今では定着してしまった国文学的解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。和歌は「秘伝」となって埋もれて、その真髄は朽ち果てている。蘇らせるのは、平安時代の歌論と言語観に帰ることである。


 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首

 

をんなの許につかわしける               藤原惟成

三百三 人しれずおつるなみだのつもりつつ  かずかくばかりなりにけるかな

女の許に遣わした                  (藤原惟成・花山天皇の側近で、院の出家の後を追って出家、三十八歳で亡くなった人)

(人知れず落ちる涙が積り続けて、流れる水に空しく・数印すほどになってしまったことよ……人知れず、おつる汝身唾のつもりつつ、数しるす・流れる水、程になってしまったなあ)

 

言の心と言の戯れ

「おつる…落つる…おに連なる」「なみだ…目よりこぼれる涙…身よりおつる汝身唾」「な…汝…親しきもの…おとこ」「つつ…継続・反復を表す…筒…空しきおとこを思わせる」「かずかく…数書く…流水に数を記す…空しい…数斯く…数これ程に」「なりにけるかな…なってしまったなあ…なってしまった・気付き・詠嘆・感動・感嘆」

 

歌の清げな姿は、(数々恋文を書き遣ったが、無しのつぶてとなる)片想いのはかなさ。

心におかしきところは、おとこなみだをむなしさを訴える乞い歌。


 女の許に仕える女房たちを、先ず「あはれ」と思わせれば、「物越しでもよければ、逢わせましょう」となるだろう。

 

 

古今和歌集 巻第十一 恋歌一 題知らず、よみ人知らずの歌が、作者にも相手にも女房たちにも、知識としてあるだろう。我々も聞いてみよう。

ゆく水に数かくよりもはかなきは 思はぬ人を思ふなりけり

(流れる水に、数を記すよりも、はかないのは、我を・思わない人を思うことだなあ……ゆく女に、数を記すより、はかないのは、もの思はない女を思ったことよ)

 

言の心と言の戯れ

「ゆく…行く…逝く」「みづ…水…言の心は女」「数かく…数の印を入れる…数を記録する」「はかなき…果敢ない…何にもならない…むなしい」「おもはぬ…思わない…こちらを恋しない…もの思わない…何とも感じない」

 

歌の清げな姿は、片思いのはかなさ。

心におかしきところは、感の極みに・山ばの絶頂に、女を送り届けられない空しさ。

 

同じ片思いの歌のようで、「心におかしきところ」は異なる世界である。

 

 

題不知                         読人も

三百四 君こふるなみだのかかる冬の夜は こころとけたるいやはねらるる

題しらず          (よみ人も知らず・女の歌として聞く)

(君を恋する涙の、かかる・このような、冬の夜は、独り・心うちとけて寝られるものか寝られやしない……貴身を乞う汝身唾の、このような冬の夜は、ここらのゆるんだ井は、寝られるものか寝られやしない)

 

言の心と言の戯れ

「君…愛しい男…貴身…おとこ」「こふる…恋う…乞う…求める」「なみだ…目の涙…ものの汝身唾」「かかる…掛かる…このような」「こころとけたる…心うちとけた…安心した…此処ら解けた…もの締りのない」「こころ…心…ここら…此処ら」「ろ…ら…接尾語…親しむものに付く」「とけたる…解けたる…締まらない…拾遺集では・こほる…氷る…凝固する」「いやはねらるる…寝やは寝られる…井やは寝られる」「い…寝…井…おんな」「やは…反語の意を表す…(寝られるものか寝られやしない)」

 

歌の清げな姿は、君を恋いつつ、涙にくれて寝る冬の夜のありさま。

心におかしきところは、なみだも氷る冬の夜、此処ら、斯かるまま・熱く解けたまま、寝られるかと言う女。


 詠み人を知って居ても匿名にすべき歌だろう。言葉の綾に包んで、ほんとうの心根を表すのが歌である。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第七 恋上 (三百二)

2015-07-16 00:23:59 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

歌の言葉については、清少納言枕草子女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。

平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。


 

拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首

 

題不知                        読人不知

三百二 我がごとくものおもふ人はいにしへも 今行くすゑもあらじとぞ思ふ

題しらず                      (よみ人しらず)

(我が如くもの思う男は、昔も、今も、未来にも、いないだろうとだ、思う……わたしのように、もの思う女は、いにしえも、いまも、ゆくすえも、いないでしょうと、思うわ)

 

言の心と言の戯れ

「ものおもふ…もの思う…はっきり言い難いことを思う…恋に悩みあれこれと思う…異性を求めてあれこれと思う」。

 

歌の清げな姿は、人を恋し成就してもしなくても悩み、あれこれと思うさま。

心におかしきところは、人と和合してもしなくても悩ましく、あれこれと思うさま。


 多情な男、または女の、それを自覚した歌である。


 

伊勢物語(第二十七段)には、女の「もの思う」一つの様子が語られてある。

むかし、をとこ、女のもとに一夜いきて、又もいかずなりにければ、女の手あらふ所に、ぬきすをうちやりて、たらひのかげに見えけるを、みづから、

(昔、男・武樫、おとこ、女の許に一夜行って、次の夜行かなかったので、女が手洗う所で・何がいけなかったのかひどい侮辱だと思い腹立てて、たらいの上の、貫簾をうち遣って、たらいの水に映るわが影が見えたので、自ら詠んだ)。

我ばかり物思ふ人は又もあらじと おもへば水の下にも有けり

(わたしほど、もの思う女は、又とないだろうと思えば、水の底にも、まだ有ったことよ・もの思い過ぎたのかしら……わたしほど、心に・もの思う女は、又といないだろうと思えば、女の身の下にも、同じ思いのおんなが有ったのだ・その所為ね)

と詠むのを、こざりけるをとこ、たちききて

(と詠むのを、昨夜・来なかった男、立ち聞きしていて)

みなくちに我や見ゆらんかはづさへ  水のしたにてもろごえになく

(池の・水口に、我が見えるとするか、蛙さえ、水の下で大勢声あげて鳴くのだよ……おんなの入り口に、わが・武樫おとこが見えるとするか、蛙でも・ましておんなは、諸々の意味込めた声で、よろこびに泣くのだ・あなたは且つ乞うと泣き続けた)

 

言の心と言の戯れ

「水…みづ…言の心は女」「水のした…水の底…女の下…おんな」「見…覯…媾…まぐあい」「鳴く…泣く」

 

このように言葉の戯れの意味を心得ると、伊勢物語の地の文も歌も、心に伝わるように聞くことができる。

女が自らこのように歌を詠んだ時、自らの多情ぶりを十分自覚していることがわかる。

男が、二夜連続で来なかったわけは、おとこの、はかない性の所為である。さすがの武樫おとこも、涸れ尽きたのだろう。男の歌は、貴女の諸声には感極まった喜びがなかったと、告げている。


 

これにて、「拾遺抄」巻第七、「恋上」は終わる。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第七 恋上 (三百)(三百一)

2015-07-15 00:05:21 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

歌の言葉については、清少納言枕草子女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。

平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。


 

拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首

 

題不知                         読人不知

三百  やほか行くはまのまさごと我がこひと いづれまされりおきつしまもり

題しらず                       (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(八百日行程の浜の真砂の数と、わが恋と、どちらが勝っているか、沖の島守よ……遥かに続く、浜の真砂の数と、わが乞う数と、どちらが勝っているか、奥の肢間の守り人よ)

 

言の心と言の戯れ

「やほか行く…八百日の行程…遥かに遠い」「はま…浜…言の心は女…端間」「こひ…恋…乞い…求め」「まされり…増さっている…勝さっている」「おきつしまもり…沖津島守…沖の島の番人…奥の肢間の守り人…おんなの女主人…女…我」

 

歌の清げな姿は、多情を自覚する女の自問自答。乙麻呂のお相手の女かもしれない。

心におかしきところは、女に、その奥の肢間が、わが乞いの多さを問うところ。

 

本歌は万葉集巻第四、「相聞」にある。「笠女郎贈大伴宿祢家持歌二十四首」の内の一首である。

八百日往 濱之沙毛 吾恋二 豈不益歟 奥嶋守

(八百日往く、浜の真砂も、わが恋に、あに益さらじや、奥之嶋の番人よ……遥かに往く濱の真砂も、わが恋に、決して勝らないでしょうか、沖の奥の島の番人よ)

 

家持は、他に中臣女郎、紀女郎ら多くの女達から歌を贈られているが、家持への恋歌ではなく、全ては、はるかなる、柿本人麻呂を恋する歌と聞いてよさそうである。人麻呂にたむける歌だろう、挽歌と言ってもいい。それは、万葉集の歌の並びと、歌の内容が示しているとしか言いえないが。

 

 

みちをまかり侍りてよみはべりける           おとまろ

三百一 よそにありて雲井に見ゆるいもが家に はやくいたらむあゆめくろ駒

        道を往きて詠んだ                  (石上乙麻呂・拾遺集では、ひとまろ)

(余所に居て、雲井に見ゆる愛し人の家に、早く至ろう、歩み、進め我が・黒駒……余所に居て、雲の井にまみえる、愛しい女の井辺に、強烈に至ろう、歩め強い吾が股ま・駆け過ぎてはならぬ)

 

言の心と言の戯れ

「よそにありて…配所に往く道中にあって…余所に居て…遠く離れていて」「雲井…遥かにところ…心雲充満の井」「井…おんな」「見ゆる…目に見える…思われる…まみえる」「見…覯…媾…まぐあい」「いもが家…愛しい人の家…愛しい女の井辺」「はやく…早く…激しく…強烈に」「いたらむ…至ろう…(感の極みに)至り尽きよう」「あゆめ…歩め(命令形)…駆けるな…早く過ぎるな」「くろ…黒…強い色…くろがねの」「駒…こま…股間…おとこ」

 

歌の清げな姿は、(遥か遠き所に居て、愛しい女の家の辺りを思う、早く到着したい)。都を遠ざかる流人の逆行する妄想。

心におかしきところは、雲井の女との交情を彷彿させるところ。

 

本歌は万葉集巻第七、題「行路」、柿本朝臣人麻呂之歌集出。

遠有而 雲居尓所見 妹家尓 早将至 歩黒駒

(遠くに居て、雲居に見える妻の家に、早やく至らむ歩め黒駒……妻と・遠く離れて居て、心雲見える、妻が井へに、早く至ろう、駆けるな・ゆっくり歩めよ、黒こ間)

 

「雲…空の雲…心に煩わしくも湧き立つもの」「早…速…激しい…強烈」「駒…こま…股間」。この程度の戯れは此の歌に既にあったと思われる。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。