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帯とけの拾遺抄
藤原公任の『新撰髄脳』にある「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。
近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。
和歌は、鴨長明、藤原定家らを最後に「心におかしきところ」が埋もれ始め、歌の家の秘伝となった。歌は秘伝と成ってしかるべき事柄が詠まれてあるからである。口伝による秘伝など埋もれれば解明不能であるから、平安時代の歌論と言語観に回帰したのである。そうして紐解いてきた結果、明らかになったのは、埋もれていた和歌の色好みな部分である。これこそが秘伝そのものだろう。公任は「心におかしきところ」と言い、俊成は「煩悩」と言ったのである。
拾遺抄 巻第三 秋 四十九首
(題不知) 人丸
九十三 としに有りてひとよいもにあふひこほしの 我にまさりておもふらむやは
(題しらず) (柿本人麻呂)
(一年よそに居て、一夜、愛しい妻に逢う彦星が、我に増さって、妻を・思っているだろうか否・我は一年以上離れている……疾しであって、一節・少しの間、愛する妻に合う男が、我に増して、妻を・思っているだろうか否・我はそんなものではない)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「とし…年…疾し…早過ぎ…おとこの性(さが)」「あり…生存する…暮らす…為す…行う」「ひとよ…一夜…一節…短い間」「あふ…逢う…合う…まぐあう」「ひこほし…彦星…男星…男」「らむ…(今頃何々)だろう…推量する意を表す」「やは…ではありはしない…反語の意を表す」
歌の清げな姿は、彦星の一年間のつもる愛情に比べて我が思いの程を表現する。
心におかしきところは、彦星のおそらく疾し一節の合いと比べ、我に優るはずがないというところ。
心深いところは、妻と逢えそうにない、愛別離苦。
宮廷歌人の人麻呂は、流罪となったか、都を追放されたか、危険を察して自ら逃れたか、妻を都に残して、ふるさとの石見の国に向かったようである。「島隠れ行く船をしぞ思ふ」「長ながし夜を独りかも寝む」など、後半生の孤独な歌が平安時代の人々に拾いあげられたようである。この歌も、その一首だろう。
延喜御時月令御屏風歌 貫之
九十四 たなばたにぬぎてかしつるから衣 いとどなみだに袖やぬるらん
延喜御時月次の御屏風の歌 紀貫之
(七夕に・乞功奠に、脱いで供えた唐衣、ますます涙に、袖は濡れているだろうか……七夕姫に脱いで貸した唐衣、いとど、なみ唾に、袖や・身の端、濡れていることだろう)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「たなばた…七夕祭り…乞功奠…糸紡ぎ、染色、機織り、縫製、琴、琵琶など、女たちは技巧上達を願って、織姫星に食物、果物、琴、琵琶、五色の糸、五色の布を供える。宮中では、それらを象徴する色彩豊かな唐衣も供えられたのだろう」「かしつる…貸した…貸与した…歌では織姫星を人として詠むのでこう言った…お供え物もおさがりとして返して頂く」「から衣…唐衣…宮廷の女たちの衣を象徴するもの…女たちの心身の比喩」「衣…心身の換喩」「いとど…ますます…いよいよ…ひどく」「なみだ…目の涙…汝身唾…おんなのなみ唾」「袖…端…身の端…おんな」「や…疑いを表す…感動・詠嘆の意を表す」「らん…らむ…現在の事態を推量する意を表す」
歌の清げな姿は、七夕の行事絵の観賞。
心におかしきところは、一とせに一たび合う夜の睦ごとを彷彿させるところ。
貫之のいう「言の心」で詠まれてあり、それを心得ていれば、心におかしく恋しくなるような歌となる。
屏風歌なので、深い心はともかくとして、女たちの心をくすぐり和ませてやろうという心はある。公任のいう「姿きよげに、心におかしき所ある」。
また、歌は、俊成のいう「何となく、艶にも、あはれにも、聞こゆる」。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。
平安時代の歌論の抜粋を再掲する。和歌の解釈はこれらの歌論に適っていなければならない。
紀貫之の古今集仮名序の「やまと歌について」
○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと(事・言)、わざ(業・ごう)繁きものなれば、心に思ふこと(事)を、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。
○歌の様(表現様式)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへ(古)を仰ぎて、今を(今の歌を)恋いざらめかも(きっと恋しがるであろう)。
藤原公任『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」
○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。
清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。
○その人(後撰集撰者の父元輔)の後(後継者)と言われぬ身なりせば、今宵(こ好い)の歌を先ずぞ詠ままし。つつむこと(慎ましくすること・清げに包むこと)さぶらはずは、千(先・千首)の歌なりと、これより出でもうで来まし。
藤原俊成『古来風躰抄』の「よき歌について」
○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶(艶めかしいさま・色っぽいさま)にも、あはれ(しみじみとした情趣を感じること・同情同感すること)にも、聞こゆることのあるなるべし。
歌のさま(歌の表現様式)を知れば、心得なければならないのは、言の心(字義だけではない多様に戯れる意味を含む)である。歌言葉はこのような言語観で聞くべきである。
清少納言『枕草子』第三章の「言語観について」
○おなじことなれども、聞き耳ことなるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり。
(同じ、一つの・言葉であっても、聞く耳によって、意味の・異なるもの、法師と男の漢字文、女の仮名文である。この言語圏外の衆の言葉は、用いられない意味が余って・必ず文字を持て余している)。
藤原俊成『古来風躰抄』の「歌言葉について」
○これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ(云々)。
(歌の言葉は、軽薄で浮かれた、真実ではない飾った言葉の、戯れには似ているけれども、事柄の深い趣旨や主旨が顕れる)。