帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百二十一)(百二十二)

2015-03-28 00:12:20 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

(題不知)                         みつね

百二十一 露けくてわがころもてはぬれぬとも をりてを行かむ秋はぎの花

(題しらず)                        躬恒

(露っぽくて、我が衣の袖は濡れてしまおうとも、折って行こう、秋萩の花……つゆっぽくて、我が心と身の端は濡れてしまおうとも、折って・おを、逝こう、飽き端木の端)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「露…つゆ…液…汁」「ころもて…衣手…袖…衣の端…心身の端…おとこ」「衣…心身の換喩…身と心」「をりてを…折りて!…折っておを…果てておを」「を…おとこ…対象示す…感動・詠嘆を表す」「ゆかむ…行こう…逝こう…果てよう」「む…意志を表す」「秋…飽き…厭き」「はぎ…萩…秋の草花の名…名は戯れる。端木、おとこ」「花…草花の言の心は女…ここは、端木のはな…おとこ端」

 

歌の清げな姿は、野の花を折り行く男の風情。

 心におかしきところは、ものの果てを覚悟した男の心。

 

 

斎院御屏風のゑに                       伊勢

百二十二 うつろはんことだにをしき秋はぎに 玉と見るまでおけるしらつゆ

斎院御屏風の絵に                       伊勢

(色衰えるだろうことだけでも惜しい秋萩に、真珠と思えるほどに、降りた白露……衰えゆくことこそ、愛しい飽き端木により、宝玉と見るまで、贈り置かれた白つゆ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「うつろふ…色あせてゆく…衰えゆく」「をしき…惜しき…愛しき…愛着を感じる」「秋…飽き…厭き」「はぎ…萩…上の歌と同じ」「に…場所を示す…原因・理由を表す…により」「玉…宝玉…真珠…白玉」「見る…思われる…まぐあう」「おける…降りた…置いた」「しらつゆ…白露…白玉…おとこ白つゆ」

 

歌の清げな姿は、秋の草花におりた宝玉のような白露。

 心におかしきところは、うつろいゆくを惜しみ白つゆを真珠と称えるところ。


 

伊勢と躬恒は、平安時代人に特に優れた歌人と認められていたことは間違いない。並みの歌とは一味違うようだけれども、その違いは「歌の姿」の清らかさだけではないだろう。「心におかしきところ」と「心深いところ」の品質にあるのだろう。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。