帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(百六)龍田川からくれないに水くくるとは

2016-08-01 18:53:37 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみで「心におかしきところ」の無い味気ないものにしてしまった。


 伊勢物語
(百六)龍田川からくれないに水くくるとは


 むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、みこたちの(親王たちが…身子立ちの)、せうえうし給う(逍遥される…気ままに遊ばれる)所に参上して、たつた河のほとり(竜田川の川辺…断ったかはのあたり)にて、

 ちはやぶるかみ世も聞かず龍田川  唐紅に水くくるとは

  (ちはやぶる神世にも聞かず、竜田川、紅葉が・唐紅に水を括り染めにするとは……ちは破る、かみよも効かず断ったかは、唐紅に、身す染めてみ子が・くぐるとは)


 

紀貫之のいう「言の心」を心得て、枕草子に「聞き耳異なるもの」というほどの言葉の戯れを知りましょう。

 「みこ…親王…御子…身子…見子…おとこ」「たち…達…立ち…断ち…破る」「せうえう…逍遥…気ままに遊びあるくこと」「ちはやぶる…神の枕詞…千早ぶる…人の枕詞…血早ぶる…勢いがすさましい…血は破る」「神世…神話の時代…上代…紙よ」「きかず…聞かず…効かず」「竜田河…紅葉の名所…裁ったかは…断ったかは」「河…川…女…かは…感嘆しながら疑う意を表す」「からくれなゐ…唐紅…紅葉色…鮮やかな紅色…鮮血の色」「水…言の心は女…身す」、「す…洲…おんな」「くゝる…括り染め(絞染)にする…くぐる…侵入する…潜りこむ」。

 

歌の「清げな姿」は、龍田川にもみぢ葉が絞り染めのような模様となって流れる景色だろう。「心におかしきところ」は、普通の言葉では語れない情況である。

 

この男の宮仕えの仕事の一つは、皇子たちが、ちは破るような事態に遭わないように、お使いになられる女たちを好きおとなの女にすることである。それを自嘲的に「なま宮仕え」をしていたという。

そろそろ物語は終盤に差し掛かったので、はっきり書こう。業平は流罪となった人の子である。普通ならば、幼ければ他家の養子になって地方の国に隠れ埋もれる。成人していれば、降格して同じく地方の国へ退く。業平の場合は父も母も皇族であるため、それに相応しいお役目を宮の内で仰せ付かったのである。初な親王の身子とうぶな女の身すとが合えば、からくれない色に身と夜衣を汚すことになる。この男の宮仕えのお役目は、童子の頃から女たちだけの後宮に出入りを許され、大人の女たちに育まれた。そして、皇子たちの為に、うぶな女の通い路を好き通りにして、好き女として親王たちに差し上げることが出来るようになった。夜の仲を思い知った男となって、当て馬の如き、屈辱的な役の中で、すばらしい女性に出遭ってしまった。その人が藤原高子である。十七歳の女性と三十五歳の業平の真剣な恋が始まったのであるが、この恋はひき裂かれる運命に在った。女は一族の思い通りに、十歳ばかりで即位された皇子のもとへ予定通り入内を決意し、業平との思いを、自ら断ちきったのである。その時の歌が、「あきかけて言いしながらもあらなくに このは降り敷くえにこそありけれ」である。「あき…秋…飽き…厭き」「えにし…縁…枝にし…小枝よ…おとこよ」この戯れを知れば歌がわかるだろう。また、業平により、好き女となった時の、青春の初の春情を詠んだ歌は、古今集春歌上にある。「ゆきのうちに春はきにけりうぐひすの 凍れるなみだ今や解くらむ」である。「うぐひす…鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女」「なみだ…涙…汝身唾」と心得れば、この歌のすばらしさに近づけるだろう。歌の才は天才的である。この歌の「春」を季節の春としか聞こえなくなった近世以来の文脈では、永遠に、歌の「心におかしきところ」は顕れない。


 (
2016・8月、旧稿を全面改定しました)