帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」巻第一春歌上(3)みよし野の吉野の山にゆきはふりつつ

2016-08-27 19:12:43 | 古典

               


                                                             帯とけの「古今和歌集」

                                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 今の世に蔓延している和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。「古今和歌集」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直す。

 

 「古今和歌集」巻第一 春歌上(3)

 

題しらず              よみ人しらず

春霞たてるやいづこみ吉野のゝ よしのゝ山に雪はふりつゝ

(春霞の立っているのは、何処かしらね、み吉野の吉野の山に、雪が降り続いている・春は来ない……身にも心にも・春の情が立ったのはどこかしら、見好し野の好しのの山ばに、白ゆきはふりつつ……張るが済み・春が澄み、絶ったのはどこかしら、見好しのの好しのの山ばに、逝きは古り、筒)

 


 歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。

「春…季節の春…春情…張る」「かすみ…霞…が済み…が澄み」「みよしの…み吉野…地名…名は戯れる。身好の、見好しの」「み…美称…接頭語…身…見」「見…覯…媾…まぐあい」「の…野…山ばではないところ」「山…山ば…頂上…絶頂」「雪…冬の景物…逝き…おとこ白つゆ…おとこの情念」「ふり…降り…振り…古り」「つつ…継続・反復を表す…筒…おとこを卑しめて言う言葉」。

 

「よみ人しらず」は、詠み人は不明。詠み人は知っているが、詠み人の個人の秘密を守る権利(プライバシー)を配慮して名を秘す場合がある。詠み人が女性のことが多い。この歌、女の歌として聞いた。

 

何処かに春霞が立ったのでしょうか、吉野の奥山には未だ春の訪れはなし、立春の日の吉野の山の雪景色。――歌の清げな姿。

見・身、好しのの山ばに、おとこ白ゆきの降る風情。女の身にも心にも、未だ春の訪れ無し。男女の性(さが)の差を詠んだ。――深い心かな。

おとこは独り、春がすみ、どこかに白ゆき降らし置いて、山ば越えて逝った、屍を見て、憤懣やる方ないおんなが一言申した、古り筒。――心におかしきところ。

 

男と女の夜の仲に在る女性が、心に思う事を、「見るもの、聞くものに付けて」言い出した歌で、匿名にすべき歌だろう。

 

平安時代の歌論と言語観に従って、古今集の全ての歌の「心深きところ」「清げな姿」「心におかしきところ」を、今の人々の心にも伝わるように、明らかにしてゆく。千百日以上の長い旅になりそうだが、途中で、くたばらないようにしたい。

 

古今和歌集には、仮名序や真名序があるが、これは撰者たちの和歌に付いての結論であるから、すべての歌を当時の歌論によって、聞き直し終えた時には、ほぼ理解できるようになっているだろう。今は、貫之のいう「ことの心」を「言の心」と読む人はいない。「この度の勅撰の事訳」とか「事の心」「事の意味」「物事の真意義」などと読んで、よくわからなくなっている。そのように序文を読んでは、砂を咬むような気分になるだろう。言の戯れの意味を踏まえて歌を全て聞き直し終えた後に、仮名序を読む事にする。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)