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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
今の世に蔓延している和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。「古今和歌集」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直す。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(3)
題しらず よみ人しらず
春霞たてるやいづこみ吉野のゝ よしのゝ山に雪はふりつゝ
(春霞の立っているのは、何処かしらね、み吉野の吉野の山に、雪が降り続いている・春は来ない……身にも心にも・春の情が立ったのはどこかしら、見好し野の好しのの山ばに、白ゆきはふりつつ……張るが済み・春が澄み、絶ったのはどこかしら、見好しのの好しのの山ばに、逝きは古り、筒)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。
「春…季節の春…春情…張る」「かすみ…霞…が済み…が澄み」「みよしの…み吉野…地名…名は戯れる。身好の、見好しの」「み…美称…接頭語…身…見」「見…覯…媾…まぐあい」「の…野…山ばではないところ」「山…山ば…頂上…絶頂」「雪…冬の景物…逝き…おとこ白つゆ…おとこの情念」「ふり…降り…振り…古り」「つつ…継続・反復を表す…筒…おとこを卑しめて言う言葉」。
「よみ人しらず」は、詠み人は不明。詠み人は知っているが、詠み人の個人の秘密を守る権利(プライバシー)を配慮して名を秘す場合がある。詠み人が女性のことが多い。この歌、女の歌として聞いた。
何処かに春霞が立ったのでしょうか、吉野の奥山には未だ春の訪れはなし、立春の日の吉野の山の雪景色。――歌の清げな姿。
見・身、好しのの山ばに、おとこ白ゆきの降る風情。女の身にも心にも、未だ春の訪れ無し。男女の性(さが)の差を詠んだ。――深い心かな。
おとこは独り、春がすみ、どこかに白ゆき降らし置いて、山ば越えて逝った、屍を見て、憤懣やる方ないおんなが一言申した、古り筒。――心におかしきところ。
男と女の夜の仲に在る女性が、心に思う事を、「見るもの、聞くものに付けて」言い出した歌で、匿名にすべき歌だろう。
平安時代の歌論と言語観に従って、古今集の全ての歌の「心深きところ」「清げな姿」「心におかしきところ」を、今の人々の心にも伝わるように、明らかにしてゆく。千百日以上の長い旅になりそうだが、途中で、くたばらないようにしたい。
古今和歌集には、仮名序や真名序があるが、これは撰者たちの和歌に付いての結論であるから、すべての歌を当時の歌論によって、聞き直し終えた時には、ほぼ理解できるようになっているだろう。今は、貫之のいう「ことの心」を「言の心」と読む人はいない。「この度の勅撰の事訳」とか「事の心」「事の意味」「物事の真意義」などと読んで、よくわからなくなっている。そのように序文を読んでは、砂を咬むような気分になるだろう。言の戯れの意味を踏まえて歌を全て聞き直し終えた後に、仮名序を読む事にする。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)